「副社長。そろそろ社長との会談のお時間です」
「ん?ああ、分かった」
真里亜に声をかけられ、文哉はパソコンをシャットダウンしてから立ち上がる。
ジャケットを広げてくれている真里亜に、ありがとうと礼を言って腕を通すと、真里亜は大きな瞳を更に見開いてじっと見つめてきた。
「え、何か?」
用心しながら文哉が尋ねると、真里亜は、
いえ、何でもありません、と視線を落とす。
(どうしたんだろう?彼女の一挙手一投足が気になる)
文哉は、常に真里亜の様子を気にかけるようになっていた。
「失礼いたします」
「おお、文哉か。まあ、座りなさい」
「はい」
社長室に入り、促されてソファに座ると、社長秘書がコーヒーを出してくれた。
普通に美味しいが、真里亜が淹れてくれるコーヒー程の美味しさはない。
「どうだ?最近の様子は」
「はい。概ね上手く運んでいるかと」
一つ気がかりがあると言えばあるのだが、と、文哉はチラリと真里亜を見る。
真里亜は胸にタブレットと書類を抱えて、壁際に控えていた。
「そうか。では今日は、北野社長との件を詰めていこう」
「はい」
社長の言葉に文哉が返事をすると、真里亜がスッと近くに歩み寄り、書類をテーブルに置く。
「こちらが、会食の際に先方から頂いた書類です。吸収合併する予定の企業とその後の展望、そして海外事業についても書かれています」
文哉が説明すると、社長は頷いて書類に目を通す。
その後も話の流れに合わせて、真里亜は必要な資料をサッとテーブルに置いてくれる。
(こんなにやりやすかったんだな。今まで気づかなかった)
社長と話をしながら、文哉は心の片隅で真里亜の仕事ぶりに感心していた。
「副社長。その後、何か分かりましたか?」
22時になり、ひっそりと静まり返った部屋に住谷が入って来た。
真里亜は既に、20時には帰宅させていた。
「いや、それが何も。今日一日、注意深く見ていたんだがな」
文哉は、デスクに両腕を載せて思い返す。
「彼女の仕事ぶりは大したものだ。いつも隅に控えていながら、絶妙なタイミングで必要な書類を差し出してくれる。しかもきちんとまとめられた、完璧な資料を。時間の管理もしっかりしているし、とにかく細やかにフォローしてくれる。やはり産業スパイともなると、かなりのスキルを身につけているものなんだな」
「なるほど」
下を向いて肩を震わせながら、住谷が神妙に頷く。
「それで?副社長は彼女を一体どうするおつもりで?」
「うーん…。彼女の狙いがはっきり分かるまでは、様子を見るしかない。幸い向こうも、スパイだと俺に気づかれているとは思っていないみたいだし」
「そうですか。かしこまりました。私も今後の様子を楽しく…、いえ、注意深く見守っていきます」
「ああ、頼む。俺もなるべく彼女から目を離さないようにする」
「おおー、それはよろしいですね」
声が弾みそうになるのを必死で堪え、住谷は大きく頷いてみせた。
「それでは本日のご予定をお伝えいたします」
またいつもの朝を迎えた。
住谷の声を聞きながら、真里亜は自分のタブレットの予定表と一致しているかを確認する。
「…それから、19時からはコスモインターナショナルの新社長就任記念パーティーとなっております」
本日は以上です、と住谷がタブレットから顔を上げる。
確認を終えた真里亜も同じように顔を上げると、阿部さん、と住谷が声をかけてきた。
「はい、何でしょう」
「パーティーの支度があるので、阿部さんは16時にここを出発していただきたいです」
え?と真里亜は首を傾げる。
「私だけでしょうか?副社長は?」
「副社長は、その後17時半に合流していただきます。女性は身支度に時間がかかりますので、阿部さんだけ先に私が車でお送りしますね」
「あ、はい。ありがとうございます」
真里亜は、あまり深く考えずに頷いた。
その日の業務を順調に終え、やがて16時になると、真里亜は住谷の運転する車に乗り込む。
「では出発しますね」
「はい、よろしくお願いいたします」
走り出してしばらくすると、住谷が妙にニコニコと真里亜に話しかけてきた。
「阿部さん。最近の副社長の様子はどうですか?」
「あ、はい。それが、時折私に声をかけてくださるようになったんです。私の仕事上がりも遅くとも20時頃には、帰れ…いえ、帰りなさいと促してくださいます」
「へえー、あの副社長が?どうしたんでしょうね」
「ええ。私も最初は不思議で仕方なくて…。でもそれはやはり、プライベートが充実しているからなのではないかと思います」
プライベート?と、住谷はバックミラー越しに後部座席の真里亜に尋ねる。
「副社長のプライベートとは?何が充実しているのですか?」
「えっ!そ、それはやはり…。その、恋の行方が良い方向に…」
「恋?!」
住谷は大きな声を上げて目を見開く。
「ふ、副社長が恋を?!阿部さん、あなたは副社長の恋愛をご存知なんですか?」
「え、あ、はい。存じているというか、分かってしまったというか…。すみません、住谷さん」
「は?なぜ私に謝るのですか?」
「それはだって…。良い気分はしませんよね?あ!でもどうぞご心配なく。私、決して他言はいたしません。それだけはお約束します!」
はあ…と気の抜けた返事をしてから、住谷はジワジワと笑いが込み上げてきた。
(なんだなんだ?片やスパイで片や恋?おもしろくなってきたなー)
ワクワクした気持ちでハンドルを握り、住谷は行きつけのブティックの前で車を停めた。
「では阿部さん。あとで副社長をお連れしますね。先にお支度なさっていてください」
「はい、ありがとうございました」
住谷を見送ってから、真里亜はブティックのスタッフに案内されて中に入る。
「うわあ、なんて素敵なドレス」
ガラスのショーケースには、色とりどりの美しいドレスがズラリと並んでおり、真里亜は思わずうっとりと眺めた。
「お気に召したドレスはございますか?」
スタッフににこやかに尋ねられ、真里亜はええ?と驚く。
「このドレスを着るのですか?私が?」
「はい。パーティーのお支度をと、住谷様より仰せつかっております」
いやいや、なぜ私がドレスを?と、真里亜は首をひねる。
前回、企業懇親会に出席した時も自分はビジネススーツだったし、秘書ならそれが当たり前だ。
「あの、本当に私、こんなドレスを着るなんて…」
「まあ。でしたらわたくし共にお任せいただいても構いませんか?あまりゆっくりするお時間もありませんし…」
「あ、そうですよね。すみません。お願いいたします」
「かしこまりました」
ご迷惑になってはいけないと、真里亜は大人しく言われるがままになる。
促されてドレッサーの前に座ると、まずはヘアメイクを整えてもらった。
メイクは派手ではないのに目がぱっちりと大きく見え、チークやリップの色も優しい印象だ。
両サイドの髪を編み込んでからアップにまとめたヘアスタイルも、どこぞのお嬢様のような雰囲気で、真里亜はまじまじと鏡の中の自分を見つめる。
「さあ、ではこちらにお着替えを」
用意されていたのは、薄いピンクでスカートがふんわり広がるロングドレス。
「いやいやいや。私、こんな色絶対似合いませんから!」
「そうおっしゃらずに、さあ。お時間も迫ってますし」
それを言われると仕方ない。
渋々着替えると、ヒールの高いシューズを履いてフィッティングルームを出る。
「まあ!なんてお美しい」
スタッフの言葉に、いや、それはお世辞でしょうと思いながら、真里亜はとにかく足元に気をつける。
「あの、もう少しヒールの低いシューズはありませんか?」
「あら、よくお似合いですのに。それに天城 文哉様の隣に並ばれるのですよね?でしたら、これくらいの高さはあった方がよろしいかと」
「ですが、履き慣れていないので転びそうで…」
「それは大丈夫ですわ。天城様がエスコートしてくださいますから」
は?!と真里亜は声を上げる。
(副社長がエスコート?!そんな恐ろしい。腕をひねり上げられるか、もしくは足を踏みつけられるか…。あ、そう言えば私、副社長の足を踏んづけたことあったっけ)
企業懇親会で名前を間違われ、思わず足を踏んだことを思い出す。
今思うと恐ろしい、と両手で頬を押さえていると、スタッフがネックレスやイヤリングも着けてくれた。
その時コンコンとノックの音がして、スタッフが開けたドアから住谷が入って来た。
「失礼します。阿部さん、いかがです…おお!」
真里亜をひと目見ると、住谷は驚いたように固まっている。
「あの、住谷さん。大丈夫でしょうか?私」
「え?ああ、もちろん。大丈夫ですとも。いやー、これは楽しみですね。さあ、参りましょう」
何が楽しみなんだ?と思いながら、真里亜は住谷に続いて部屋を出た。
「副社長。阿部さんのお支度整いました」
住谷の言葉に顔を上げた文哉が、真里亜を見て目を見開く。
と次の瞬間、キョロキョロと辺りを見回し始めた。
「おい、文哉。人違いじゃないぞ。正真正銘、この人が阿部さんだ」
ん?どういうこと?と眉根を寄せる真里亜の前で、二人はなにやら小声で話し始めた。
「お前、ドキッとしたんだろ?いつもの阿部さんからは想像つかないもんな」
「べ、別にそういう訳じゃ…」
「おお?珍しいなー、お前がそんなにドギマギするなんて」
「だから、してねえっつーの!」
「おやおや、そんなにムキにならなくても。顔が赤いですよ?副社長殿」
「おまっ…、もう黙ってろ!」
「はいはい」
二人が顔を寄せ合ってヒソヒソとやり取りしているのを、真里亜は真っ赤になって見守る。
(やだ!副社長も住谷さんも、あんなに顔をくっつけてイチャイチャして。見てるこっちが照れちゃう)
でも、と真里亜は真顔に戻って考える。
(応援したいな、お二人のこと。よし!私がカモフラージュとしてがんばろう!社長と住谷さんが恋人同士だってことは、他の人には気づかれないように)
真里亜は小さく自分に頷いた。
その後、文哉もスリーピースの仕立ての良いスーツに着替え、真里亜のドレスと見比べながらスタッフがネクタイやチーフの色を選んでいた。
二人の準備が整うと、車に乗り込む。
まず後部座席に文哉が座り、真里亜が助手席に座ろうとドアに手をかけると、住谷が止めた。
「阿部さん。副社長のお隣にどうぞ」
「は?いえ、秘書の分際でそんな…」
「今日のあなたの装いは、どう見ても単なる秘書ではありませんよ」
「いえ、秘書は秘書ですから。あ、それでしたら私、やっぱりビジネススーツに着替えて来ます」
真里亜が踵を返そうとすると、おい、と低い声で文哉が呼び止める。
「早く乗れ。遅れる」
「は、はい」
ヘビに睨まれたカエルのように、真里亜は首をすくめて後部座席の端に小さく座る。
やれやれとため息をついてから、住谷は運転席に回って車を走らせ始めた。
「阿部さん。今日は私が副社長の秘書を務めますから、どうぞご心配なく。阿部さんは副社長の隣にいてくださいね」
ハンドルを握りながら住谷が優しく話しかけると、真里亜は恐縮して頷く。
「はい、すみませんがよろしくお願いいたします」
「あなたが謝ることはないですよ。こちらこそ、あなたに副社長の同伴女性をお願いする形になってしまって、申し訳ありません」
「いえ、大丈夫です。お役に立てる自信はありませんが、精一杯努めます」
(そうよ。お二人の恋のお手伝いをがんばらなくちゃ!)
そんな真里亜の様子をバックミラー越しに見て、住谷は、おやおやと感心する。
(文哉の為に、ちょっと強引に利用させてもらったのに、阿部さんは健気だなあ。文哉の反応もやたらと初々しいし。こりゃ楽しみだ!)
またもやご機嫌で住谷は車を走らせていた。
今夜のパーティー会場は一流ホテルのバンケットホールで、以前の企業懇親会の時よりも遥かに広く、ゴージャスで優雅な雰囲気に包まれていた。
真里亜は思わず、わあ…と感嘆の声を上げて辺りを見渡す。
スタッフに案内されて、真っ白なクロスが敷かれた丸テーブルの席に、文哉と住谷、そして真里亜の三人で座った。
まずは主催者の挨拶から始まり、新社長のお披露目や乾杯など、パーティーは順調に進む。
やがて食事を楽しみながら歓談の時間になった。
美味しそうなフレンチのフルコースに真里亜は目を輝かせるが、文哉の元に次々と人が挨拶に来る為、呑気に味わってはいられなかった。
「これはこれは、天城副社長。ご無沙汰しております」
年配の男性に声をかけられ、文哉と共に真里亜や住谷も立ち上がる。
住谷が小さく、岡村ビジネスソリューションズの社長です、と文哉にささやいた。
「こちらこそ、ご無沙汰しております。岡村社長」
「いやー、相変わらずハンサムでいらっしゃいますな。いかがでしょう。先日のお話は考えていただけましたでしょうか?」
「先日のお話?…とは」
ご令嬢とのお見合いです、と、またしても住谷がささやく。
「岡村社長。実は今夜は、皆様に私の婚約者を紹介しようと連れて参りました」
文哉が真里亜の手を取って引き寄せる。
「阿部と申します。初めまして」
真里亜は控え目な笑みを浮かべながら、丁寧にお辞儀をした。
「えっ!副社長のフィアンセですか?いやはや、驚きましたな。なるほど、これはお似合いの美男美女だ。分かりました。娘の縁談は諦めますが、仕事面ではこれからもどうぞご贔屓に」
「こちらこそ。よろしくお願いいたします」
文哉と共に、真里亜も頭を下げて社長を見送った。
それからも同じようなやり取りを繰り返し、パーティーは無事にお開きとなる。
三人で挨拶回りをしてから、会場をあとにした。
「すみません、副社長よりも先に送っていただくなんて」
真里亜のマンションに着くと、ドアを開けてくれた住谷に頭を下げる。
「レディファーストなんですから、当然ですよ。どうぞお気になさらず」
「はい。ありがとうございました」
そして真里亜は、車の中の文哉を振り返った。
「副社長。送ってくださってありがとうございました」
文哉は肘をついて窓の外を見たまま、お疲れ、とボソッと呟く。
「お疲れ様でございました。それでは失礼いたします」
真里亜は、車が見えなくなるまでお辞儀をして見送った。