「それでは、本日のご予定をお伝えいたします」
正式に副社長秘書となってから1週間が経った。
今朝も真里亜は、タブレットを見ながら文哉に予定を伝えることから業務を開始する。
「…本日のご予定は以上です」
「分かった。ありがとう」
真里亜はお辞儀をしてから給湯室に向かい、ドリップコーヒーを濃いめに淹れて文哉のデスクに置く。
「どうぞ」
「ありがとう」
すると、真里亜のデスクの内線電話が鳴った。
「はい、副社長室です」
「代表電話に、キュリアス ジャパンの社長秘書の方からお電話が入っております。お繋ぎしてもよろしいでしょうか?」
(キュリアスの社長秘書?もしかして!セキュリティシステムに不具合でも…)
内心青ざめながら「はい、繋いでください」と答える。
「もしもし、お世話になっております。キュリアス ジャパン 社長秘書の川上と申します」
「こちらこそ、大変お世話になっております。AMAGIコーポレーション 副社長秘書の阿部と申します」
電話ではあるが、真里亜は丁寧にお辞儀をしながら返事をした。
「突然お電話を差し上げて申し訳ありません。実は弊社の社長が、天城副社長と阿部様にお会いしたいと申しております。恐れ入りますが、ご都合をお聞かせいただけませんか?」
「かしこまりました。すぐに確認いたします。あの…、その前に。もしや弊社のセキュリティシステムに何か不具合でも生じたのでしょうか?」
「あ、いえいえ!そのようなことはございません。社長がお二人をお食事にお招きしたいと申しております。そこで、今後のお話もさせていただければと」
(今後の…?それは、つまりどういった?)
とは思うものの、これ以上この電話で秘書同士で話すべき内容ではないと思い、真里亜は、少々お待ちいただけますか?と保留音を流した。
「副社長。キュリアス ジャパンの社長秘書の方からお電話です。キュリアスの社長が、副社長をお食事に招いて、今後のお話もさせてもらいたい、とのことだそうです。ご都合は?と聞かれました」
「キュリアスの社長が?話って、もしやうちのシステムに何かあったのか?」
「いえ、そうではないようです」
「そうか。何だろうな…。とにかくこちらの都合はいつでも大丈夫だと伝えてくれ。優先してリスケ頼む」
「かしこまりました」
真里亜は保留音を止めてその旨を伝える。
すると今夜にでも、と言われ、驚きつつも文哉は頷いてみせた。
「やあ!これはこれは天城副社長。またお会い出来て嬉しいよ」
「社長。こちらこそ、またお目にかかれて光栄です。今夜はお招きいただき、ありがとうございます」
文哉の一歩後ろで、真里亜も深々と頭を下げる。
「アベ・マリアも、元気そうだね」
「はい、お陰様で。お気遣いありがとうございます」
声をかけられ、真里亜もにこやかに答えた。
招かれたのは、都内の高級ホテル最上階のフレンチレストラン。
文哉も真里亜も、いつものブティックで支度を整えてからホテルに向かった。
この時ばかりは何も言わずとも、住谷が送迎を買って出てくれた。
ワインで乾杯し、少し雑談したあと、おもむろに社長は切り出した。
「実はね、今日わざわざお呼び立てしたのは他でもない。アメリカの本社、キュリアス USAのCEOから連絡が来たんだ」
は…?と、文哉も真里亜も思わず手を止めて顔を上げる。
「キュリアスの、本社から、ですか?」
「そう。何でも、キュリアス ジャパンの新社屋に関して本社で報告された時に、CEOがAMAGIコーポレーションに興味を示したらしいんだよ。あの世界中を怯えさせていたハッカーを捕まえたのか?ってね」
「いえ、あの。捕まえたというより、正しくは侵入されたのですが…」
文哉が申し訳なさそうに言う。
「もちろん、そのこともご存知だ。だが結局は犯人逮捕に繋がっただろう?それで是非今後、AMAGIコーポレーションとキュリアスUSAが手を組んで、ハッカーに対するセキュリティシステムを新たに開発したいというんだ。ハッカーは国境など関係なく、どんな国の企業をも狙ってくる。特に日本のハッカーは能力が高い。ハッカーだけでなく、政府関係のスパイに探りを入れられている可能性もある。全ての国のハッカーやスパイから情報を守る為、各国の主要な企業とチームを組むことになった。そして日本からはAMAGIコーポレーションを招きたい、との話らしい」
「は、はあ…」
話の規模の大きさに、文哉も真里亜もポカーンとしてしまう。
「どうだい?一度話だけでも聞きに行ってくれないかな?ワシの顔を立てると思って。お願いするよ」
「そ、それはもちろん!社長のお役に立てるのなら、どんなことでもいたします」
「そうか!ありがとう。じゃあ早速、話を進めておくよ。また改めて連絡する。あ、パスポートだけは用意しておいてくれ」
アベ・マリアもな、と付け加えると、社長は満足そうに料理を食べ始める。
(パスポート…話を聞きに…。パスポート?)
真里亜の頭の中には、その言葉がグルグルと回り続けていた。
真里亜の頭の中の疑問がはっきりしたのは、それから3日後のことだった。
「キュリアス USAの本社ビルで12月20日にミーティングが行われます。CEOも顔を出すとのことですので、その日にAMAGIさんも参加していただきたいのですが、ご都合いかがでしょう?」
またしても社長秘書から電話を受け、真里亜は半分頭が働かない状態で文哉に尋ねる。
「分かった、伺うよ」
「かしこまりました」
それを伝えると、先方の秘書は良かった!と声を弾ませ、早速詳細をメールで送ると言って電話を切った。
そしてすぐさまメールで日程表が送られてきた。
12月19日に日本を出発し、20日に本社でミーティング。
21日は社内を案内し、22日は観光にお連れする、とあった。
飛行機の帰りの便は23日を予約したが、もしそのままクリスマスホリデイを向こうで楽しみたいのなら、別の日に変更も可能だと書かれている。
(いやいやいやいや。ちょっと待って。何がなんだか…)
真里亜は文哉と二人でソファに座り、しばし無言でメールを見つめる。
「ふ、副社長」
「なんだ?」
「これは、副社長と私が12月にアメリカに行くことになってますね?」
「そうだな」
「キュリアス USAのCEOにお会いすることになってますが」
「そうらしいな」
どこか他人事のように、二人でボーッと日程表を眺める。
「リスケ、大丈夫そうか?」
「はい、それは何とか」
「お前の都合は?」
「私ですか?何も予定はないので大丈夫です」
「そうか。じゃあ、行くか」
「はい、そうですね」
そんな感じで、どこか現実味がないまま、二人は12月19日にアメリカへと飛び立った。
「着いた!ニューヨーク!!」
無事にジョン・F・ケネディ空港に着き、外に出ると真里亜は両手を上げて空気を胸いっぱいに吸い込む。
「ケホッ。なんだか空気が美味しくないですね」
「当たり前だ。大都会だぞ?」
それでも真里亜はテンション高めだった。
キュリアスが用意してくれた飛行機のチケットは、なんとファーストクラスだったのだ。
ゆったりと優雅な雰囲気の空間に、本当にここは飛行機の中?と真里亜はキョロキョロ落ち着かなかったが、フルフラットで横になるとぐっすり眠れ、存分に空の旅を満喫してニューヨークに下り立った。
真冬のニューヨークは想像以上に寒く、クシュン!と真里亜はくしゃみをする。
白いロングコートにブーツ、手袋もはめていたが、暖かい建物から外に出たばかりで、身体が温度差についていけない。
すると上品なチェスターコート姿の文哉が、巻いていたカシミヤのマフラーを外して真里亜に差し出す。
「いえ、あの。大丈夫ですから」
「いいから巻いてろ。風邪でも引いたらどうする」
文哉は真里亜の首にマフラーを巻くと、首元をしっかり覆うように整えた。
「あ、ありがとうございます…」
真里亜は小さくなって礼を言う。
そうこうしていると、二人の前にリムジンが滑るように横付けされた。
「Hi ! もしかしてAMAGIコーポレーションの方?」
リムジンから、はつらつとした30代くらいの日本人女性が降りてきて、二人に声をかける。
「あ、はい!そうですが…」
「やっぱり!良かったわあ、すぐに見つけられて。私はキュリアス USAの日高 カレンです」
「初めまして、天城 文哉です」
「阿部 真里亜と申します。よろしくお願いいたします」
真里亜が名乗ると、カレンは、え?!と目を見開く。
「アベ・マリアさん?ワオ!素敵な名前ねー」
「あ、すみません。ありがとうございます」
つい癖で謝ってしまう。
「あら、もっと自信持って!その名前はアメリカだと強みになるわよ。誰だって一度であなたのことを覚えてくれるわ。さ、寒いから早く乗って」
「はい、ありがとうございます」
促されて二人はリムジンに乗り込む。
「えーっと、まず彼は運転手のサムね。サム、フミヤとマリアよ」
「ハジメマシテ」
運転席から後ろを振り返り、大柄な男性がにこやかに日本語で笑いかけてくれた。
「お二人の滞在中は、私とサムがお世話をするわね。じゃあ早速ホテルに行きましょう」
「はい、よろしくお願いします」
動き出したリムジンの中で、カレンは早速手にしたファイルから次々と書類を取り出す。
「えーっと、これは簡単なスケジュールね。今日はゆっくり休んでもらって、明日、朝10時にホテルにお迎えに上がります。11時頃から本社の会議室でランチミーティング。CEOも参加するわ。夜は他のお客様も招いてホテルで立食パーティーね」
ひえっと真里亜は肩をすくめる。
「大丈夫よ。日本と違ってこっちはフランクだから。楽しんでね!それと、明後日は社内をゆっくりご案内します。そこからはお二人の自由よ。ニューヨークを思う存分満喫して。えーっと、大体のところは押さえてあるの。これが美術館と展望台のチケット、こっちはロックフェラーセンターのスケートのVIPチケットね。それから、ミュージカルは何がお好みかしら?」
真里亜は話のテンポについて行けず、目を白黒させる。
「ご希望がないなら、適当に選んでもいい?オペラ座の怪人とか?」
真里亜が、はいと頷きかけた時、横から文哉の声がした。
「ウエスト・サイド・ストーリーはやってますか?」
「ええ、やってるわよ。あっ!なるほどー。そうよね、それがいいわ。じゃあそうしましょう。あとは、何か手配するものはある?」
「いえ、もう充分です。ありがとうございます」
「お安い御用よ。これ、私の携帯の番号。いつでも電話してきてね」
そう言ってビジネスカードを差し出す。
文哉も携帯番号を載せた名刺を渡した。
「ホテルのチェックインは終わってるから。これがルームキー。お部屋までご案内しましょうか?」
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございました」
ホテルに着くと、文哉と真里亜はカレンとサムに礼を言って見送った。
ホテルのロビーを横切りエレベーターで部屋に向かうと、文哉と真里亜の部屋は隣同士で、広々としたダブルベッドの部屋だった。
窓からは、ニューヨークの景色が一望出来る。
「わあ、素敵」
荷物の整理を終えた真里亜が、しばらく外を眺めていると、コンコンとノックの音がした。
「はい…って、ん?」
ノックの音は入口のドアではなく、ベッドの横にあるドアから聞こえてきた。
(何?このドア)
そう思いながら開けてみると、コートを脱いでラフな私服に着替えた文哉が立っていた。
「副社長!どこにいるんですか?」
「ん?俺の部屋」
え?と、真里亜は文哉の背後を覗き込む。
そこには真里亜の部屋と同じ光景が広がっていた。
「このドア、副社長の部屋と繋がってるんですか?」
「そうらしいな。コネクティングルームだろう」
「へえ…って、ちょっと待ってください」
真里亜は、手をかけていたドアノブを確かめる。
「あ、良かった。ちゃんと鍵がついてる」
「分からんぞ?壊れてるかもしれん。アメリカのホテルでは結構よくある」
「ええ?!」
「安心しろ。誰もお前を襲ったりせん」
「ひっどーい!いいもん。もう絶対にこのドア開けませんから」
「分かった。ゴキブリが出ても幽霊が出ても、絶対お前の部屋には入らないようにする」
え…と、途端に真里亜は泣きそうな顔になる。
「あの、やっぱり鍵、開けておきます。何かあったらすぐ助けてくださいね?」
「調子いいな、まったく」
文哉はやれやれと両腕を組む。
「それより、腹減ってないか?」
「あ、空きました」
「じゃあ、散歩がてら食べに行こうか。時差ボケは平気か?」
「はい。ファーストクラスの飛行機は、自宅よりぐっすり眠れましたから」
「ははは!確かに。大いびきかいてたもんな」
「う、嘘でしょ?!」
「ほら、早く着替えて支度しろ」
そう言って文哉はバタンとドアを閉めた。
「絶対嘘だもんね。私、大いびきなんてかいてないもん。もしかいてたら、CAさんが起してくれたはず。いや、そんなことないか?」
ブツブツ呟きながら、真里亜はスーツケースから私服を取り出して着替える。
さっきの文哉は、紺のシャツにアイボリーのざっくりしたニットを重ねていたから、同じようにカジュアルな感じでいいか、と、真里亜はオフホワイトのパンツに、トップスは水色のニットにした。
ブーツを履いて斜め掛けのバッグを肩に掛け、紺色のミディアム丈のコートを羽織る。
「あ、そうそう!」
先程、文哉に借りていたマフラーを手にすると、壁のドアをノックした。
「副社長、支度出来ました」
「よし、行くか」
ドアを開けると、文哉がコートを羽織りながら出口に進む。
「これ、ありがとうございました」
「ん」
廊下を歩きながら真里亜からマフラーを受け取ると、文哉はそれを広げてまた真里亜の首に巻いた。
「え?あの、もう大丈夫ですから」
「俺もいらない。邪魔だから着けてて」
「あ、そうだったんですね。持って来てしまってすみません。お部屋に戻ったらお返ししますね」
「ああ」
二人はホテルの外に出る。
「とりあえずブラブラして、良さそうなカフェでも探すか」
「はい」
ホテルはマンハッタンの中心部。
ぐるっと見渡しただけでも、いくつかカフェがあるのが見える。
なんとなく歩き始めると、人が多くて思いのほか歩きづらい。
それにすぐ横の車道も、車がひしめき合っていて危なかった。
「アメリカってゆったり広いイメージでしたけど、なんだか日本よりも人混みがすごいですね」
「マンハッタンのクリスマスシーズンだからな。ほら、危ないぞ」
前から歩いてきた大柄な男性とぶつかりそうになり、文哉が真里亜の肩を抱き寄せる。
そのまま真里亜を自分の反対側に連れてきて、文哉は真里亜と立ち位置を変えた。
いつの間にか車道側を文哉が歩いてくれていることに気づいて、真里亜はそのスマートさに感心する。
(わー、なんか副社長、アメリカのジェントルメンにも負けてないわあ)
肩を抱いたまま自分を守って歩いてくれる文哉に、真里亜はなんだか照れくさく、そして嬉しくなった。
「ここはどうだ?」
ふいに足を止めて文哉が尋ねる。
そこは木のぬくもりが感じられるゆったりとしたカフェで、外にあるメニューのブラックボードも、手描きのイラストでおしゃれな感じだった。
サンドイッチやスコーン、マフィン、サラダやスープなど、どれも美味しそうだ。
「いいですね!」
二人で店内に足を踏み入れる。
あったかーい、と真里亜がホッとしていると、
「Hi ! How are you doing today ?」
とカウンターのスタッフが笑顔で声をかけてきた。
わっ、英語だ!と真里亜が面食らっていると、文哉が軽く「Good, thank you」と答えている。
「For here or to go ?」
「For here, please」
そして文哉は真里亜を振り返る。
「どれがいい?」
「えーっと…」
真里亜は横文字だらけのメニューをじっと見つめる。
「アボカドとかサーモン、チーズなんかのサンドイッチ、ありますかね?」
文哉はスタッフに何やらペラペラと話しかける。
「アボカドサーモンのホットサンドがあるから、それにエキストラチーズを頼めばいいって」
「あ、はい。じゃあそうします」
文哉はスタッフと会話したあと、また真里亜に尋ねる。
「チーズは何がいい?チェダー、モッツアレラ、ゴーダ、ゴルゴンゾーラ、ブルーチーズ…」
「じゃあ、チェダーでお願いします」
「OK. 備え付けはベーコン、ソーセージ、ハッシュブラウン、それと、何だっけ?」
もう一度スタッフに確かめようとする文哉に、慌てて真里亜が答える。
「じゃあ、ベーコンで」
「分かった。飲み物は?」
「ホットの、んー、カフェラテで」
「ミルクは?ノンファット、ローファット…」
「あ、いえ、普通ので」
日本語で聞かれるだけでもクラクラしてしまうほど細かいオーダーを、文哉は難なくスムーズにこなし、クレジットカードでサッと会計まで済ませた。
「すみません。あとでお支払いします」
「バカ。こんなところでお前が財布出したら、俺は大ひんしゅくだ。恥をかかせないでくれ」
「あ、はい。すみません」
トレーに載せたビッグサイズの飲み物とサンドイッチを持って、文哉は窓際のテーブルに真里亜を促した。
「わー、美味しそう!」
「どうぞ、召し上がれ」
「はい!いただきます」
真里亜は早速アツアツのホットサンドを頬張る。
「んー、美味しい!アボカドってこんなに美味しいんですね。サーモンも新鮮だし、チーズもとろけて最高です」
「それは良かった」
「副社長は?何を頼んだんですか?」
「ん?俺は、何だっけ。チキンとブルーチーズとサンドライドトマトのグリルサンドかな」
へえーと真里亜は文哉の手元をじっと見つめる。
文哉は、ふっと笑うと、ナイフで半分に切り分けた。
「はい、どうぞ」
「え、いいんですか?」
「物欲しそうにじーっと見ておいて何を言う」
「すみません。じゃあ、副社長も私のホットサンド、半分どうぞ」
半分に切ってあったサンドイッチを、真里亜は文哉の皿に載せた。
「おお、これうまいな」
「でしょう?もう大満足です」
大きな口を開けて頬張る真里亜を、文哉は呆れたように眺める。
「お前、子どもか?顎外れないようにな」
「ふふ、大丈夫でーす」
「やれやれ。彼氏の前ではもうちょっと上品に食べた方がいいぞ」
「そんなこと気にしなきゃいけないなら、彼氏なんていりませーん」
「色気より食い気か」
「何とでも言ってくださーい」
真里亜は、大きなサンドイッチもカフェラテもペロリと平らげて、満足そうな笑みを浮かべる。
「ふう。お腹いっぱい」
「だろうな。アメリカンサイズを食べ切って、まだ腹がいっぱいにならなかったらどうしようかと思ってた」
「えー、普通食べ切らないものなんですか?」
「ああ。あとでドギーバッグを渡すからってスタッフに言われていた。必要なかったな」
さてと、と文哉は立ち上がる。
「このあと、どこか行きたいところあるか?」
「いえ、特には。少し歩きたいです」
「じゃあ、俺の行きたいところにつき合ってもらってもいいか?」
「はい、もちろん」
文哉は頷くと、黙って歩き始めた。
(どこへ行くんだろう?)
真里亜は不思議に思いながらも、黙って文哉について行く。
「ここは…」
辿り着いた場所は、マンハッタン南部のグラウンド・ゼロ。
『National September 11 Memorial & Museum』
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の公式追悼施設だった。
ワールドトレードセンター跡地に設置されたリフレクティング・プール。
そのモニュメントには犠牲者の名前が彫られていて、それぞれの誕生日にはボランティア団体によってバラの花が飾られる。
「俺、小学3年生の夏休みに来たことがあるんだ。ワールドトレードセンターの展望台に。あのテロが起こったのは、そのすぐあとだった」
モニュメントを見つめながら、ポツリと文哉が呟く。
「今でも展望台のチケットは大事に取ってある。ずっとここに来たかった」
真里亜は黙って文哉の言葉を聞いていた。
あのテロ事件があった当時、真里亜はまだ3歳になったばかり。
もちろん記憶はない。
ニュースや記事でどんなに悲惨な事件だったかは知っているつもりだったが、実際にこうして現場に立ってみると、口を開くのもはばかられた。
二人は黙とうを捧げたあと、ミュージアムへと足を運んだ。
あの日に起こった事件の解説や展示、映像上映などが行われている。
(こんなにも綺麗に晴れ渡った青空で起きたんだ)
あの時間の真っ青な空の写真。
あの日全世界に流れたニュース番組。
目撃者の証言音声。
ビルが倒壊し、煙が人々を飲み込もうとする映像。
全てがリアルで、真里亜の胸に迫ってくる。
そして犠牲者の方々の写真…
真里亜は唇を噛みしめて必死に涙を堪える。
「大丈夫か?」
文哉が心配そうに真里亜の顔を覗き込んだ。
「大丈夫です。私はこの事実を知らなければいけない。ちゃんと心に刻み込まなければ」
文哉はそっと真里亜の肩を抱き寄せた。