あずみから廉が年上女性と歩いていたという噂を聞いたのは、数学の先生が病欠し自習になった今日の3時限目のことだった。
私が数学の教科書を開き予習をしていると、後ろの席のあずみが私の肩を叩いた。
私は少し不機嫌そうな顔を作りながら、あずみの方へ身体を向けた。
「なあに?今は自習の時間よ?」
「大変!数学の問題なんて解いてる場合じゃないわよ。スキャンダルよお!」
話したくてたまらない様子のあずみの顔を見て、私は大きくため息をつき、しぶしぶ話を聞くポーズを取る。
クラス委員たるもの、自らすすんで噂話に耳を傾けるわけにはいかない。
けれど内心私の心は好奇心で一杯だった。
あずみの噂話はソースがしっかりしていて信憑性があるのだ。
もちろんあずみもそんな私の心の内などお見通しで、決して話を止めたりなどしない。
「で?どうしたの?」
私が話を聞く体勢を取ると、あずみは目を輝かせながら口を開いた。
「皐月、有坂って知ってる?」
「うん。知ってるよ。あの背の高い子でしょ?」
「そう。バレー部でセッターの。」
あずみもバレー部に入っていて、エースアタッカーだ。
同じバレー部同士、部活帰りにファーストフードへ寄った時に、その噂が話題に出たらしかった。
「有坂がね、従姉と隣町のショッピングセンターへ、お祖母ちゃんの誕生日プレゼントを買いに行ったんだって。その時に目撃したらしいよ。五代君が綺麗な黒髪ロングの女性と一緒に歩いているところをさ。」
私の胸がどきんと大きく高鳴り、そしてじわじわと痛みが広がっていった。
「そう・・・なんだ。」
廉と義姉弟になる前にもその噂は私の耳にも入っていたから、覚悟はできていた。
でも知り合いの確かな目撃証言ともなると、やはり衝撃は隠せなかった。
私はつとめて冷静に聞こえる様に言った。
「その噂、けっこう前からあったじゃない?今更って感じ。」
「そうだけど・・・前は都市伝説?みたいにおぼろげな噂だったけど、今回は違うじゃない?知り合いがばっちり見ちゃったんだもん。皐月、五代君とそういう話、しないの?」
「しないよ。そんなの。」
「あーあ。五代君くらいイケメンだと、同年代の女子なんて対象外なのかもネ。」
「・・・そうかもね。」
「心配?」
あずみが私の顔を覗き込んだ。
「それはそうだよ。だって仮にも家族だもん。それに校則違反だわ。」
「ほんとにそれだけ?」
「そうよ。それ以外なにがあるっていうの?」
「ふーん。ま、いいけど。そんなに心配なら直接聞いてみなよ。五代君本人に。」
「・・・・・・。」
あずみの言葉に私は答えることが出来なかった。
簡単に聞けるならとっくにそうしてる。
でも、それは廉のプライバシーを暴くことになる。
家族とはいえ、まだ私と廉は知り合ったばかりだ。
それなのにそんなことまで口出ししていいものなのだろうか?
それに・・・真実を知りたくない自分がいる。
本当のことを知ってしまったら、どう廉に接したらいいのかわからなくなるような気がしてそれが怖いのだ。
あずみの強い視線を感じ、私は顔をあげた。
「なあに?」
私がそう聞くとあずみは「ごめん。皐月の気持ちも考えないではしゃいじゃって。」と頭を下げた。
「ううん。教えてくれてありがと。あずみ。」
私はあずみの目をみて微笑んだ。
一人で歩く学校からの帰り道、家に向かう足取りが重くなる。
どんな顔をして廉と話せばいいのかわからない。
気持ちの整理がつかないまま、玄関の扉をあけ茶色のローファーを脱ぎ、靴箱へ揃えていれた。
廉の白いスニーカーが靴箱のいつもの場所に置かれている。
廉が家に帰っていることを確認し、私は大きく息を吸った。
大丈夫・・・いつも通り接することが出来るはず。
階段を上り自室へ入ろうとすると、隣の部屋から廉の苛立った声が廊下にも漏れ聞こえてきた。
どうやら廉は携帯で誰かと通話しているようだった。
「そんな急に言われても、俺にだって都合があるんだけど。」
「泣くなよ。泣かれると俺もどうしていいかわからない。」
「・・・わかったよ。これから行くから待ってて。待ち合わせ場所はどこ?」
そんな言葉が断片的に聞こえてきて、気が付くと私は思わず廉の部屋のドアに耳を当てていた。
通話が終わり、しばらくすると廉がドアから出て来た。
ショルダーバッグを持った廉は私に気付き、少しバツの悪い顔をしてみせた。
「お帰り。皐月。」
「うん。ただいま。」
ぎこちない沈黙が私達の間を支配した。
廉がその沈黙を破って軽く私に尋ねた。
「今日は遅かったんだな。」
「うん。委員会があって。廉は早かったね。部活は?」
「ああ。顧問が出張で自主練だったから早く終わった。」
「ふーん。」
私は意を決すると思い切り勇気を出して、廉に聞いた。
「こんな時間からどこに行くの?」
「・・・どこだっていいだろ?皐月には関係ないところ。」
いつになく冷たい声でそう告げられ、私はさっと青ざめた。
そんな私の表情に気付いた廉は、すぐにいつもの口調に戻った。
「なに?もしかしてさっきの俺の声、聞こえてたとか?」
私がためらいがちにこくりと頷くと、廉は少し微笑んでみせた。
「ちょっと口喧嘩しただけだよ。前の学校の友達から急に呼び出されてさ。なるべく早く帰るよ。母さん達にもそう言っといて。」
「うん。」
そう頷いたけれど、本当は廉の言葉をまったく信じていない自分がいた。
そんなの嘘だ。
そんなことくらい私にだってわかる。
そう言い返したいのに言葉が出てこない。
気が付くと私はすがるような目で廉をみつめていた。
行かないで・・・そんな言葉を発してしまいそうな自分を必死で抑える。
「皐月、なんて顔してんだよ。」
「だって・・・廉が遠くへ行ってしまいそうで。」
「大袈裟だな。すぐに帰ってくるって。」
廉が私の頬をそっと撫でた。
いつになく優しいその仕草に、私の頬が熱くなる。
「じゃあな。」
それだけ言い残し、廉は駆け足で階段を降りていった。
玄関の扉がバタンと閉まる音を、私はただぼんやりと聞いていた。
その日の夕飯は半分も喉を通らなかった。
私は冬実さんに尋ねた。
「廉君って・・・夜遅くに帰ってくることもあるんですか?」
肉じゃがに箸を伸ばしていた冬実さんが少し考えるような仕草をした。
「そうね・・・。たまに遅く帰ってくることがあるかな。多分友達と遊んでいて盛り上がってるんじゃない?でも12時までには帰ってくるから心配しなくても大丈夫よ?」
「別に心配なんか・・・」
「ふふふっ。じゃあそういうことにしといてあげる。過保護なお義姉さん。」
冬実さんはそう言って笑うと、ジャガイモを口の中に入れた。
その日、廉は深夜に帰宅した。
廉・・・こんな遅くまでどこで何をしていたの?
廉の部屋のドアが閉まる音を聞いてからも、私はしばらく寝付けなかった。
「ふーん。それは女だね。間違いない。」
今日はママと月に一度のディナーの日。
黄色いツイードのスーツ姿のママは今日もカッコ良い。
耳に光る金色のピアスも決まってる。
たまには銀座にあるフランス料理屋でフレンチでも食べない?とママに誘われた時から私は廉のことをママに相談しようと決めていた。
ママは出版社で恋愛エッセイを書く小説家の担当になったこともあるらしいし、こういった問題に的確なアドバイスをくれる気がしたのだ。
ママは仔牛のモモ肉ポアレ・キノコのクリームソースを綺麗に切り分けながら、一通り私の話を聞いてそう断じた。
「・・・だよね。」
「で?皐月はどうしたいの?」
私は冷水が入ったコップをみつめながらしどろもどろに言った。
「うん・・・廉の問題だから口出ししない方がいいことは判ってる。でも・・・なんだか心配なの。本当に好き合ってるならいいけど、この前の電話の様子がおかしくて・・・」
「はあっ!」
ママが大きな声でため息をつくと、一気にまくしたてた。
「なんかもどかしいなあ!もう廉君にはっきりと問い質してみるしかないんじゃない?皐月は仮にも家族だし義姉なんだからそれくらい突っ込んでもいいと思う。でもこのまま静観するのもひとつの方法だよ?どちらを選ぶかは皐月次第。」
「うん・・・。」
私の冴えない顔を見て、何故かママが微笑んだ。
「なに?」
「皐月、廉君が好きなのね。」
ママの思いがけない言葉に私はうろたえた。
「好きじゃないよ!ただ家族として心配なだけで。」
「皐月はいつも自分以外の人に対しては割とドライじゃない?私と圭亮の離婚のときもどこか他人事のように眺めていたし。」
ママにそんな風に思われていたのだと初めて知った私は、声を荒げた。
「そんなことないよ!私はすごくショックだったよ!」
「そっか。ごめんごめん。でも今回のあんたはいつもとちょっと違うなって思ってさ。」
「・・・・・・。」
たしかにママの言う通りかもしれない。
今までの私は他人の問題に首を突っ込むなんて面倒な真似を避けてきた。
でも・・・廉の事をもっと知りたいと切実に願う自分がいる。
「いっそ廉君を尾行してみるとか。」
ママがふとそんなことをつぶやいた。
「尾行・・・?」
「そう。ふたりの様子を影から観察するの。」
ママがいたずらっぽく笑った。
「なーんて冗談。そんな探偵みたいな真似、危ないからしちゃ駄目だよ?」
そう言ってグラスの赤ワインを飲むママに私も軽く尋ねた。
「そういうママは?彼氏出来た?」
「仕事が忙しくてそれどころじゃないわよ。」
ママが大きく片手を振った。
「パパが再婚して、ショックじゃない?」
尚も言い募る私に、ママは少し困った顔をした。
「うーん。ショックと言えばショックだけど、安心している自分もいるのよねえ。」
「安心?」
「だって圭亮は淋しがり屋だからこの先もひとりで生きていけないと思うし。皐月だっていつかは圭亮の元を旅立っていくわけだしね。これでやっと肩の重荷が降りた気がする。」
「ふーん。そんなものなのね。」
私のドライな性格はこの母から譲り受けたに違いない。
「冬実さんって人、私と正反対なんでしょ?」
「そうね。ママが赤色なら冬実さんは青色、ママがひまわりなら冬実さんは百合って感じかな?」
「じゃあ私も圭亮と正反対の男性と恋しようっと。」
「うん。そうしなよ。私、ママにも幸せになってもらいたい。」
「じゃあ彼氏が出来たら、まず皐月に紹介するね。」
「うん。約束。」
ママは小指を出してウインクをした。
花曇りの日曜日の午後、私は深く黒いキャップを被りショルダーバッグを持って外出する廉の後をつけることにした。
廉は白いTシャツにGパンという気負わない普段着で、誰にも何も言わずふらっと家を出て行った。
私はいつもだったら着ないような黄色い派手なTシャツにめったに履かないオーバーオールを身につけて変装しそっと家を出た。
髪型はツインテール、そして丸ブチの伊達眼鏡。
この恰好なら絶対に廉に気付かれない自信がある。
昨夜の夕食時、廉の元に電話の着信があった。
廉はあわてて席を外し、別の部屋でその電話の対応をしていた。
戻って来た廉の表情を見て、私はその電話の相手が先日の女性からだとすぐにわかった。
廉のその少し疲れたような顔・・・それは年上女性との恋に浮かれる男の顔ではないように思えた。
尾行してなにかが判るとは思えない。
仮に判ったとしてもそれから自分がどうしたいのかも、何が出来るのかも判らない。
ただ湧き上がる衝動に身を任せて、こんな真似をしている自分に自分自身が一番驚いていた。
廉は私の尾行に気付かないまま、バス通りを迷いなくまっすぐに歩く。
駅前の繁華街を目指しているのは明らかだった。
街の中心部であるその繁華街は、映画館、ショッピングモール、カラオケ屋に各種飲食店がずらりと揃っている。
だから大人はもちろん学生も遊ぶときはもっぱらここを利用する。
こんな人の目があるところで待ち合わせなどしたら、誰に見られてもおかしくない。
廉もそれはよくわかっているのだろう。
廉はさりげなく小綺麗なビジネスホテルの中へ入っていった。
学生が入るにはまだ少し早いと思われる、そのビジネスホテルのロビーにしつあえられた革張りのソファで、廉は私の知らない誰かを待っている。
私はそのホテルの真向いにあるファミレスの窓から、廉の様子を眺めていた。
廉は背を丸くして両手を組み、ただ一点だけをみつめている。
その姿はまるで疲れたサラリーマンみたいで痛々しかった。
ふいに廉に近づくサングラスをかけた女性が視界に入った。
真っ直ぐなロングの黒髪に白い肌、スレンダーな身体を黒いワンピースで包んでいるその女性は20代後半くらいに見えた。
女性が廉の肩に手を添えなにかを話しかけると、廉もすぐに立ち上がった。
廉の方が女性より頭一つ大きく、二人の後姿がロビーの奥にあるエレベーターの方へと消えていった。
廉の噂は事実だった、ということを自分の目で確認した私は、オレンジジュースの入ったグラスをただみつめ、大きく息を吐いた。
男と女がホテルの部屋でなにをするかが判らないほど、もう私は子供じゃない。
頭が真っ白になった私はそれ以降の意識が途切れ、ただ呆然としたまま時間が過ぎていった。
気が付くと窓の外から見える景色は、いつのまにか夕暮れを映しだしていた。
街で遊びに興じた人々も、もう家路につく時間だ。
ふと我に返り、心で自嘲する。
私はいったいなにをしているのだろう。
こんなところでコソコソと、人のプライバシーを覗いたりして。
廉が校則を破っていることを糾弾したいわけじゃない。
廉のことを義姉として心配だという気持ちも嘘じゃない。
ただそれだけじゃなく・・・どうしようもないくらい胸が痛いのは何故だろう。
「・・・もう帰ろう。」
そう席を立ちかけた時だった。
ホテルのエントランスから廉が出てくるのが見えた。
私はあわてて席を立ち、レジで会計を済ますとファミレスを出た。
一緒にホテルから出てくるのは躊躇われるのだろう。
廉がホテルから遠ざかっていく背中をみつめていると、しばらくして今度は廉と一緒にいた女性がホテルから出て来た。
ヒールの音をコツコツと響かせながら、女性が駅の方へ向かって歩いて行く。
私はなんの考えもなく、女性の背中を追った。
女性は途中コンビニで買い物をし、再び駅へ向かう。
駅に近づくにつれ行きかう人が増え、尾行しづらくなり、つい近づきすぎてしまったのがいけなかったのかもしれない。
女性は改札を抜けようとしたところをくるりと回れ右をし、今来た道を戻っていく。
そして柱の影に隠れていた私の目の前に立ち、サングラスを外してみせた。
初めて真正面から見たその女性の顔は、美しさとともに歪ななにかを感じさせた。
女性の強い視線を受け戸惑う私の耳に、冷たく低い声が響いた。
「あなた、誰?」
「・・・・・・。」
押し黙る私に女性はイライラした口調で言い募った。
「私のこと、つけてきたのよね?」
「・・・はい。」
私は観念してそう頷いた。
女性は私を頭の先からつま先まで眺め、鼻で息をした。
「興信所の人間にしては若すぎるし、一体誰よ。私に何か用があるわけ?」
私は意を決して告げた。
「私は五代廉の・・・家族です。」
女性はプッと吹き出して笑った。
「廉の家族?何それ。変なこというのやめてよ。あなた妄想癖があるんじゃないの?あ、もしかして廉のストーカー?廉と同じ学校の子?廉、イケメンだし、あなたみたいな頭のおかしいファンがいても不思議じゃないものね。」
「本当です!家族になったのはつい最近ですけど・・・。」
「じゃあ廉の両親の名前、言ってみなさいよ。家族ならわかるはずよね?」
私は間髪入れずに言った。
「廉のご両親の名前は誠一郎さんと冬実さんです。」
「・・・・・・。」
「そして冬実さんは私の父である一宮圭亮と今年の春再婚して・・・現在私の義母です。」
その言葉に女性が大きな衝撃を受けているのが判った。
女性は大きく目を見開き、私の顔を穴があくほどみつめた後、ぽつんとつぶやいた。
「じゃあ・・・あの女、再婚したの?」
この女性は冬実さんを知っている?
「冬実さんが再婚したのは、誠一郎さんが亡くなったからで」
「そんなこと私が一番よく知ってるわよ!」
女性は泣きそうな声でそう叫び、その声に周りを歩く通行人が何人か振り返る。
私の言葉が本当だと信じた女性は、さきほどまでの馬鹿にした様子からは打って変わり、真面目な目で私を見て言った。
「ねえ。どこかで少し話さない?」
先ほどまでいたファミレスとは打って変わり、モダンでモノトーンのインテリアが洒落ているカフェのテーブルで私と女性は向かい合って座った。
女性は軽く手を挙げてカフェスタッフを呼び、すばやくアイスコーヒーを頼んだ。
「あなたは?」
そう促され、私もアイスミルクティ―を頼む。
注文した品が届くまでの沈黙の時間が長く感じられ、やっと目の前に飲み物が届くと思わず大きく息を吐き出した。
女性はストローでアイスコーヒーを一口飲むと、やっと言葉を発した。
「とりあえず自己紹介しない?名前も知らない人間同士じゃ腹を割って話せないでしょ?」
女性は余裕たっぷりにそう言って微笑んだ。
「私は神原奈美子。あなたの名前は?」
「私は・・・一宮皐月といいます。よろしくお願いします。」
そう奈美子さんに頭を下げながら、こんな状況なのに低姿勢に出てしまう優等生な自分が嫌になる。
「で?さっきの話は本当なの?あなたの父親と五代冬実が結婚したって・・・。」
「はい。事実婚なので苗字はそのままですが。」
「私を納得させる証拠になるもの、あるかしら?」
それでもまだ疑いの目を向ける奈美子さんに、私はスマホの写真フォルダに保存しているパパと冬実さん、廉、そして私の4人で写した画像を見せた。
パパは冬実さんの肩を抱き、冬実さんはパパに寄り添い、柔らかい笑みを浮かべている。
奈美子さんはその画像を、ただ氷のような眼差しでじっとみつめていた。
「あの・・・信じて頂けたでしょうか。」
奈美子さんは私の問いに答えずに、プッと息を噴き出したかと思うと、大きな声で笑い出した。
「あーはははっ!」
その目には涙がにじんでいる。
しばらく笑い続けた奈美子さんは、その後真顔になりハンカチで目元を拭いた。
「何にも知らずにあの女、幸せになったんだ。可哀想な廉君。」
廉が可哀想・・・?
あの女って冬実さんのことだよね。
「あの・・・奈美子さんは冬実さんのお友達、ですか?」
だとしたら廉は母親の友人とお付き合いしているの?
でもそれはあまりにも不自然に思えた。
すると奈美子さんは私を鋭い目で睨み、吐き捨てた。
「ふん。お友達?笑わせないでよ。私はあの女が大嫌いなの。どうせならあの女が逝けば良かったのよ。どうして誠一郎さんが・・・」
そう語尾を弱めた奈美子さんは泣きそうな顔をした。
まだ話が見えず混乱している私の表情に、奈美子さんは再びアイスコーヒーを口に含むと、口元を歪めた。
「皐月ちゃんだっけ。あなた彼氏いる?」
何故そんなことを聞かれるのかも判らないまま答える。
「いません。」
「そっか。じゃあ好きな男の子は?」
頭に浮かび上がった廉の顔をあわてて打ち消す。
「いません。」
「そう。」
自分から聞いておきながら、次の瞬間まったく興味のないようなそぶりを見せる。
そして急に核心にせまった言葉を吐いた。
「皐月ちゃん、廉と私の関係を知りたいのよね?」
「それは言われなくてもわかっています。恋人、ですよね。」
自分の口から飛び出た恋人、という言葉に打ちのめされる。
「違う違う。廉は私のことなんか全然好きじゃないの。」
「じゃあ、なんで・・・」
「いいこと教えてあげる。」
奈美子さんがローズピンクの唇を引き上げた。
「廉は身代わりなの。」
「身代わり・・・?」
「私が愛しているのはこれまでもこの先も、ずっと誠一郎さんだけ。私は誠一郎さんと付き合っていたの。いわゆる不倫の関係ってやつ。」
「廉のお父さんとあなたが不倫・・・?」
冬実さんが今も大切な想いを持ち続けている誠一郎さんが、廉の良き父親だった誠一郎さんが・・・不倫?
にわかには信じがたく、私はただ呆然としていた。
そんな私の様子など気にもとめず、奈美子さんは話し続けた。
「誠一郎さんは私の会社の上司だったの。優しくて頼もしくて、私はすぐに誠一郎さんを好きになった。でも誠一郎さんはすでにほかの女性のものだった。」
「・・・・・・。」
「ある日、仕事でミスをして落ち込んだ私を慰めるために、誠一郎さんは食事に誘ってくれたの。私はあふれる想いを隠し切れなくなって駄目もとで告白した。あなたが好きですって。最初は困惑していたけれど、誠一郎さんは私の想いに応えてくれた。嬉しかったな。」
奈美子さんは当時を思い出したのか、穏やかに微笑んでみせた。
「不倫とは言っても、誠一郎さんは心から私を愛してくれていたわ。時期を見てあの女と別れるって、私と結婚するって、そう誓ってくれていたの。」
「・・・・・・。」
「誠一郎さんは星が好きでね。夜のデートで空を見上げながら星座を教えてくれたわ。そのあとは必ず私のマンションへ寄って、キスをして抱き合ってベッドで深く愛し合った。そして」
「もうやめてください!」
これ以上、こんな話聞きたくない。
冬実さんと廉が誠一郎さんに裏切られていたなんてこと・・・ふたりには絶対に聞かせたくない。
「ごめんね。バージンで潔癖な皐月ちゃんには少し刺激が強すぎたかしら。」
バージンだと馬鹿にされ、私の耳が燃えるように熱くなる。
「だから誠一郎さんが亡くなった時、私の世界は終ったと思った。ううん。今でも思ってる。誠一郎さんは私の全てだったの。」
「・・・・・・。」
「でも・・・私はお葬式にも行けなかった。辛くて悲しくてやりきれなくて。」
奈美子さんはそう言ったあと、人が変わったように目をギラつかせた。
「だからね。私のこの地獄のような心を、あの女にも分けてあげようと思ったの。」
「え・・・?」
「葬式が終わった翌日の午後、あの女と廉が暮らすアパートを訪ねたわ。誠一郎さんと私の仲を教えてあげようと思ってね。」
「!!」
「けど、あの女不在だったのよ。ほんと悪運の強い女!で、そのとき初めて会ったの。廉に。」
「まさか・・・」
私の嫌な予感は的中した。
「廉にあなたと誠一郎さんとのことを話したのですか?!」
「ええ。話したわ。」
奈美子さんはケロッとした顔で言った。
「廉はなんて・・・。」
「ええ。冷静だったわよ?黙って私の話を聞き終えて、私に一言だけ告げたの。このことを母には話さないで欲しいって。冗談じゃない。私はあの女の苦しむ顔が見たかったのに。でも・・・そのときもっといい復讐を思いついたの。」
奈美子さんは悪魔のような微笑みでつぶやいた。
「あの女の大事なものを奪ってやろうってね。私、廉に取引を持ち掛けたの。ねえキミ、私と付き合わない?私と付き合えるなら、お母さんにはこのこと黙っててあげるわよって。」
もう何も聞きたくなかった。
けれどここまで来た以上、最後まで聞かなければならない。
真実を知りたがったのは他の誰でもない私なのだから。
「廉は即答したわ。わかった・・・俺はあなたと付き合いますってね。」
「酷い・・・どうして・・・どうしてそんな真似が出来るんですか!」
私の叫び声に、奈美子さんが不思議そうに笑った。
「ふふふ。あなた何言ってるの?」
「廉はあなたとの付き合いに疲れてる。もういい加減、廉を解放してください。」
私の絞り出すような声を聞きながら、奈美子さんは頬杖をついて珍しい生き物を見る目をした。
「さっきからなんなの?私と廉は合意の上で付き合ってるの。家族だかなんだか知らないけど、最近知り合ったばかりのあなたが口出しする権利なんてないと思うけど。」
「私は廉の義姉です。廉を守る義務があるんです。」
「義弟が誰と付き合おうがあなたには関係ないでしょ?」
「関係あります。」
私は息を大きく吸ってハッキリと宣言した。
「私は廉が好きだから。」
奈美子さんは右眉をぴくりと動かして私をまじまじとみつめた。
「それは家族愛?それとも男として廉が好きなの?」
「・・・わかりません。でも廉が辛い思いをするのは耐えられない。」
「失礼ね。廉もけっこう楽しんでいると思うわよ?」
その言葉の意味に、私は青ざめた。
「でも・・・そうね。そろそろ廉を解放してあげてもいいかもね。」
「お願いします!」
私は必死の思いで頭を下げ続けた。
「やめてよ。まるで私が悪者みたいじゃない。」
奈美子さんが急に猫なで声を出した。
「わかった。あなたに免じて廉を解放してあげる。もう廉には連絡しない。」
「ありがとう・・・ございます。」
「でも・・・もちろんタダではないわよ。」
奈美子さんの意地悪そうな眼差しが私を射抜いた。
「もちろん、その代償はあなたが払ってくれるのよね?」
「え・・・?」
私の笑顔が凍り付き、奈美子さんは妖艶に微笑んだ。
「今度はあなたが私を楽しませてよ。」
「それは・・・どういう意味ですか?」
「私の男友達でね、女子高生と付き合いたいっていう変態がいるの。男ってほんと若い子が好きなのね。」
「・・・・・・。」
「あなたみたいに清楚で可愛い子、きっと気に入るはずよ。あなた、そいつと付き合ってよ。皐月ちゃんの心意気に免じて、そうね・・・一回だけでいいわ。そうすればもう廉には二度と会わないと約束するわ。どう?」
「・・・・・・。」
固まってしまった私に、奈美子さんがバッグから自らの名刺を取り出してそれを差し出した。
「そんなすぐには決められないわよね。もし決意が固まったら連絡頂戴。もちろんその名刺を捨てて私との取引を忘れてしまうのもアリだと思うわ。その場合、廉との付き合いは続けさせてもらうけどね。すべては貴女次第。」
「・・・・・・。」
「じゃ。あ、ここの支払い、よろしくね。」
奈美子さんはそう言って手を小さく振ると、すばやく店を出て行った。
残された私は、ただ小刻みに震える身体を両手で抑えながら、必死にこれから自分がどうすればいいのか、そればかりを考えていた。