そのとき、カサリ、と音がした。海鈴はびくりとして振り向く。その瞬間、取り囲んでいた泡が弾け飛んで消えた。泡の瞬きの残像の隙間から見えたのは、ぬめっとした物体。
海洋生物だった。一度都会の水族館で見たことがあるジュゴンそのものだ。ジュゴンらしき生き物は背中にバーガンディ色のヴァイオリンケースを背負い、海鈴をじっと見つめていた。
背中を冷たい汗がつたう。
ほんの少し横にずれてみると、ジュゴンもどきの黒々とした目も同じように横にずれた。やはり、ジュゴンもどきは海鈴を見ているようだ。
「どうしたの? 君、ひとり?」
ジュゴンもどきはパチパチと目を瞬いて首を傾げた。海鈴はよく分からないその生き物をじっと見つめた。
「くんくん、あれ。なんだかいい匂いがするよ。もしかしてボクのマヨ持ってる?」
ジュゴンもどきは呆気に取られる海鈴をそっちのけにして、マイペースに鼻をひくつかせている。
スースーハー。
いつもはまったく気にならないはずなのに、なぜだか自分の呼吸の音がよく聞こえた。
「ん? 君、どうして固まってるの?」
スースーハ―。
これは、ヤバい。海鈴は脱兎のごとく逃げ出した。
「えっ!? ちょ、待ってよ、どこ行くのさ!?」
背後でジュゴンもどきの声がするが、そんなものは構っていられない。
「ななな、なに!? なんなの、あの化け物……!! ジュゴンが喋るとか聞いたことない!!」
いや、冷静に考えれば、そもそもこの目に映っている空間自体がヤバいのだが。
びちゃびちゃと足元の水が跳ねる。弾け飛んだ飛沫はふわふわとカラフルに煌めき、宙に浮く。海鈴が走れば走るほど、飛沫は天の川のように煌めくラインを作っていた。
それからどれくらい走ったか。とうとう体力が限界になり、足を止める。
膝に手を付き呼吸を整えていると、突然肩にぽんと柔らかな感触が広がり、海鈴は飛び上がった。
そのまま、まるで油を差し忘れたブリキ人形のようにぎこちない動作で振り返ると、そこにはやはりというべきか、あの化け物。ジュゴンもどきがいた。
「きゃー!!」
海鈴が叫びながら飛び上がる。
「ぎゃー!!」
なぜかジュゴンもどきも叫んだ。
「化け物ー!!」
「えぇー!? ちょ、ひどいよ! なんてこと言うの!」
ジュゴンもどきはうるうると涙をためて訴えてくる。海鈴はとうとう困り果てた。いきなりこんな不可思議な世界に迷い込んで、泣きたいのはこっちの方だ。
「すんすん、ひどいよぉ」
目の前で、ジュゴンもどきが泣きべそをかいている。しかし、おかげでほんの少し冷静を取り戻した海鈴は、おずおずとジュゴンもどきへ声をかけた。
「あの……ご、ごめんね。君はえっと……何者?」
まあるい目がぱちくりと瞬いた。
「ボクはナノ。君は?」
「私は……海鈴だけど……ねぇ、この世界はなんなの?」
「なんなのって……え、もしかして君、迷子?」
ジュゴンもどきはのほほんとした口調で、海鈴の走ってきた道を振り返りながら言った。
「ま、まぁ、そんなところかな」
「でも、君すごいね。道を作れるんだ」
「道?」
海鈴は眉を寄せる。
「うん、道。普通こんな立派な道しるべなんて作れないよ?」
ジュゴンもどきの視線を辿ると、そこにはたしかにてんてんと淡い光の川ができていた。海鈴はぼんやりと光の粒たちを見つめる。
どういうことだろう。限られた人物にしか、光を生み出すことはできないのだろうか。
ナノはコロコロとした声をしていた。たとえるなら、音符そのもののような声だ。
「さっきは驚かせてごめんよ」
「私こそごめん。いきなり海洋生物が喋ったから、驚いちゃって」
海鈴の「海洋生物」という言葉に、ナノがぴん、と反応した。
「海洋生物だって!? だからボクはナノだってば!」
ナノは、ぷっくりと頬をふくらませる。
「ナノね、ナノ。ごめんごめん」
ナノは海鈴が放り出していたおつかいのビニール袋を拾うと、その中のマヨネーズを目ざとく見つけ、せがんできた。
「ナノはマヨネーズが好きなの?」
ジュゴンがマヨラーだなんて話は聞いたことがない。
「うん! 好き!」
「でもこれ、調味料だよ?」
なんだかもう、よく分からない。ナノはマヨネーズを前に目をぐるぐるさせているし、奇抜な服装になってるし、そもそもここはどこなんだ。
「……殴っちゃったお詫びにあげる」
どうせ暑い中に置きっぱなしにしていたから悪くなってそうだし、とは言わないでおく。
「うわぁ、ありがとう!」
ナノは小躍りしながら、マヨネーズの袋を早速開封する。そしてやはりと言うべきか、マヨネーズをまるでチューブ型アイスのようにちゅうちゅうと吸い出した。
「ねぇ、教えてくれる? ナノ。この世界はなんなの? 夢? 現実じゃないよね?」
海鈴の問いに、ナノはこてんと首を傾げた。
「現実って、なに?」
海鈴は息を呑んだ。違和感が海鈴の心を支配する。これまでの自分の概念が、すべて崩されていく気がした。
自分は今、一体どこにいるのだろう。
「よく分かんないけど……君はどうやらなにかを失くしてるんだね。大丈夫! 迷子なら、友達のボクが一緒にいてあげる。だから安心して」
黙り込んだ海鈴を励ますように、ナノがひときわ明るい声を上げた。
「友達……?」
「そうだよ。だって、ボクは君にマヨネーズをもらった。もう立派な親友だろ?」
「ふふっ……なにそれ。ナノって面白い」
ナノは照れくさそうに笑っている。どうやらこの世界では、マヨネーズをあげたら友達になれるらしい。
「ボクを頼ってよ! 君が知りたいこと、なんでも教えてあげるよ。君が失くしたものだって、きっと見つけてあげる!」
そう言って、ナノはにっこりと笑った。
「私が失くしたもの……?」
ナノの話によれば、この世界は鏡の世界『鏡界』と呼ばれているらしい。
「この世界は夢と希望に満ち溢れてるんだ。ここに住む住人たちは、みんなとっても好奇心旺盛で好きなものがたくさんなんだよ」
なににも縛られず、なんのしがらみもなく、ただ自由に、好きなことをする世界。ナノの話を聞きながら、海鈴は不思議な世界を見渡す。
「ここは、なんでもあって、なんにもないんだ」
「なんでもあって、なんにもない?」
どういうことだろう。
正直まったくよく分からない。しかしこれ以上訊ねても、海鈴の望んだ答えが返ってはこないだろう。
「それで、ナノの好きなものはなんなの?」
「ボクは音楽!」
ナノは嬉しそうに声を弾ませた。背負っていたヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出し、姿勢を正す。海鈴はじっとその様子を見守った。
弓を引くと、びぃんと響いた音が銀色の音符となって現れた。それらは鏡のように周りの風景を反射させながらふわふわと空中を漂っている。
「ほら、ミレイ。触ってみて」
ナノに言われるまま、海鈴がそれを人差し指でちょんと触ってみれば、先程とは違ってぽろろんと転がるような涼やかな音を発した。
海洋生物だった。一度都会の水族館で見たことがあるジュゴンそのものだ。ジュゴンらしき生き物は背中にバーガンディ色のヴァイオリンケースを背負い、海鈴をじっと見つめていた。
背中を冷たい汗がつたう。
ほんの少し横にずれてみると、ジュゴンもどきの黒々とした目も同じように横にずれた。やはり、ジュゴンもどきは海鈴を見ているようだ。
「どうしたの? 君、ひとり?」
ジュゴンもどきはパチパチと目を瞬いて首を傾げた。海鈴はよく分からないその生き物をじっと見つめた。
「くんくん、あれ。なんだかいい匂いがするよ。もしかしてボクのマヨ持ってる?」
ジュゴンもどきは呆気に取られる海鈴をそっちのけにして、マイペースに鼻をひくつかせている。
スースーハー。
いつもはまったく気にならないはずなのに、なぜだか自分の呼吸の音がよく聞こえた。
「ん? 君、どうして固まってるの?」
スースーハ―。
これは、ヤバい。海鈴は脱兎のごとく逃げ出した。
「えっ!? ちょ、待ってよ、どこ行くのさ!?」
背後でジュゴンもどきの声がするが、そんなものは構っていられない。
「ななな、なに!? なんなの、あの化け物……!! ジュゴンが喋るとか聞いたことない!!」
いや、冷静に考えれば、そもそもこの目に映っている空間自体がヤバいのだが。
びちゃびちゃと足元の水が跳ねる。弾け飛んだ飛沫はふわふわとカラフルに煌めき、宙に浮く。海鈴が走れば走るほど、飛沫は天の川のように煌めくラインを作っていた。
それからどれくらい走ったか。とうとう体力が限界になり、足を止める。
膝に手を付き呼吸を整えていると、突然肩にぽんと柔らかな感触が広がり、海鈴は飛び上がった。
そのまま、まるで油を差し忘れたブリキ人形のようにぎこちない動作で振り返ると、そこにはやはりというべきか、あの化け物。ジュゴンもどきがいた。
「きゃー!!」
海鈴が叫びながら飛び上がる。
「ぎゃー!!」
なぜかジュゴンもどきも叫んだ。
「化け物ー!!」
「えぇー!? ちょ、ひどいよ! なんてこと言うの!」
ジュゴンもどきはうるうると涙をためて訴えてくる。海鈴はとうとう困り果てた。いきなりこんな不可思議な世界に迷い込んで、泣きたいのはこっちの方だ。
「すんすん、ひどいよぉ」
目の前で、ジュゴンもどきが泣きべそをかいている。しかし、おかげでほんの少し冷静を取り戻した海鈴は、おずおずとジュゴンもどきへ声をかけた。
「あの……ご、ごめんね。君はえっと……何者?」
まあるい目がぱちくりと瞬いた。
「ボクはナノ。君は?」
「私は……海鈴だけど……ねぇ、この世界はなんなの?」
「なんなのって……え、もしかして君、迷子?」
ジュゴンもどきはのほほんとした口調で、海鈴の走ってきた道を振り返りながら言った。
「ま、まぁ、そんなところかな」
「でも、君すごいね。道を作れるんだ」
「道?」
海鈴は眉を寄せる。
「うん、道。普通こんな立派な道しるべなんて作れないよ?」
ジュゴンもどきの視線を辿ると、そこにはたしかにてんてんと淡い光の川ができていた。海鈴はぼんやりと光の粒たちを見つめる。
どういうことだろう。限られた人物にしか、光を生み出すことはできないのだろうか。
ナノはコロコロとした声をしていた。たとえるなら、音符そのもののような声だ。
「さっきは驚かせてごめんよ」
「私こそごめん。いきなり海洋生物が喋ったから、驚いちゃって」
海鈴の「海洋生物」という言葉に、ナノがぴん、と反応した。
「海洋生物だって!? だからボクはナノだってば!」
ナノは、ぷっくりと頬をふくらませる。
「ナノね、ナノ。ごめんごめん」
ナノは海鈴が放り出していたおつかいのビニール袋を拾うと、その中のマヨネーズを目ざとく見つけ、せがんできた。
「ナノはマヨネーズが好きなの?」
ジュゴンがマヨラーだなんて話は聞いたことがない。
「うん! 好き!」
「でもこれ、調味料だよ?」
なんだかもう、よく分からない。ナノはマヨネーズを前に目をぐるぐるさせているし、奇抜な服装になってるし、そもそもここはどこなんだ。
「……殴っちゃったお詫びにあげる」
どうせ暑い中に置きっぱなしにしていたから悪くなってそうだし、とは言わないでおく。
「うわぁ、ありがとう!」
ナノは小躍りしながら、マヨネーズの袋を早速開封する。そしてやはりと言うべきか、マヨネーズをまるでチューブ型アイスのようにちゅうちゅうと吸い出した。
「ねぇ、教えてくれる? ナノ。この世界はなんなの? 夢? 現実じゃないよね?」
海鈴の問いに、ナノはこてんと首を傾げた。
「現実って、なに?」
海鈴は息を呑んだ。違和感が海鈴の心を支配する。これまでの自分の概念が、すべて崩されていく気がした。
自分は今、一体どこにいるのだろう。
「よく分かんないけど……君はどうやらなにかを失くしてるんだね。大丈夫! 迷子なら、友達のボクが一緒にいてあげる。だから安心して」
黙り込んだ海鈴を励ますように、ナノがひときわ明るい声を上げた。
「友達……?」
「そうだよ。だって、ボクは君にマヨネーズをもらった。もう立派な親友だろ?」
「ふふっ……なにそれ。ナノって面白い」
ナノは照れくさそうに笑っている。どうやらこの世界では、マヨネーズをあげたら友達になれるらしい。
「ボクを頼ってよ! 君が知りたいこと、なんでも教えてあげるよ。君が失くしたものだって、きっと見つけてあげる!」
そう言って、ナノはにっこりと笑った。
「私が失くしたもの……?」
ナノの話によれば、この世界は鏡の世界『鏡界』と呼ばれているらしい。
「この世界は夢と希望に満ち溢れてるんだ。ここに住む住人たちは、みんなとっても好奇心旺盛で好きなものがたくさんなんだよ」
なににも縛られず、なんのしがらみもなく、ただ自由に、好きなことをする世界。ナノの話を聞きながら、海鈴は不思議な世界を見渡す。
「ここは、なんでもあって、なんにもないんだ」
「なんでもあって、なんにもない?」
どういうことだろう。
正直まったくよく分からない。しかしこれ以上訊ねても、海鈴の望んだ答えが返ってはこないだろう。
「それで、ナノの好きなものはなんなの?」
「ボクは音楽!」
ナノは嬉しそうに声を弾ませた。背負っていたヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出し、姿勢を正す。海鈴はじっとその様子を見守った。
弓を引くと、びぃんと響いた音が銀色の音符となって現れた。それらは鏡のように周りの風景を反射させながらふわふわと空中を漂っている。
「ほら、ミレイ。触ってみて」
ナノに言われるまま、海鈴がそれを人差し指でちょんと触ってみれば、先程とは違ってぽろろんと転がるような涼やかな音を発した。