レインが海鈴の手を引いて歩き出す。そのとき、二人の足元に小さな水煙が立った。驚いた海鈴はレインの手を離してしまった。
「な、なに!?」
「ナイトメアたちの起こした渦だ」
「渦?」
「まずいな……海鈴、早くこちらに!」
レインが海鈴の名を呼ぶ。海鈴も慌ててレインに駆け寄ろうとするが、二人の間に渦が割り込んだ。
「きゃっ……!」
小さかった水煙は見る間に大きくなり、やがて巨大な渦巻きになった。本や棚、星屑たちを巻き込みながら、ぐるぐるととぐろを巻く渦。それはついに海鈴をまるごと飲み込もうとした。
「海鈴!」
レインが手を伸ばしながら叫ぶ。しかし、海鈴はあっという間に渦の中に閉じ込められてしまった。激しい渦に巻き上げられながら、海鈴はうっすらと目を開けて鏡界を見下ろした。
大きなツインタワーや、花壇の中で咲き乱れる植物たち。灰色の森や、それから動物の形をした公園の遊具も、みんな目を閉じてじっとしている。
水の中に沈んだ世界はすべてがモノトーンで、本当に眠っているらしかった。
「レイン……レイン! どこ……?」
水の中、渦の中で、海鈴は必死にレインを探した。けれど、いくら叫んでも返事はない。レインの姿は、もうどこにもなかった。
ふわりふわり、頬を撫でられるような感覚に海鈴は目を覚ます。頬を撫でていたのは、いつの間にポケットから落ちたのか、ステラからもらった筆だった。渦に巻き込まれたときにポケットから落ちてしまったのかもしれない。幸いすぐ近くに落ちていたことに安堵して、海鈴はもう一度たしかにポケットに筆をしまった。
「ここは、どこ?」
自分の声なのに、どこか遠くに感じる。海鈴が倒れていたのは、暗闇の中。すると突然ぴかんと天井が光り、ネオンの中に文字が浮かび上がった。
『記憶焼却場』とある。
どこからかどんどんと激しく響く音楽。いつも鳴っている時計の音とは違う、ひどく不安を煽るような音だった。
「記憶……焼却場……?」
海鈴は、看板の真下にいた。不吉な文字に、息を呑む。文字とは裏腹に、輝くネオンはまるで華やかなライトアップを施された遊園地のようだった。
ここはどこなのだろうか。レインとはぐれた場所からどれくらい飛ばされたのだろう。逃げ出そうにも、暗すぎてどこに歩いていけばいいのか分からない。蹲ったまま困惑していると、遠くから声がした。
『消さなきゃ消さなきゃ』
『早くしないと、この世界が眠っちゃう』
『その前に、早く夢を見つけなくっちゃ!』
異様に高い声だった。子供の声というより、小動物の鳴き声のような高さだ。
「なに……? 一体、なにを消すの?」
どこかで話し合いをする声の主たちに訊ねてみるが、
『消さなきゃ消さなきゃ』
『眠っちゃう前に』
『消さなきゃ消さなきゃ』
『邪魔な過去を消さなきゃ』
海鈴は天井の文字を見上げる。
「まさか……私の記憶を消すの? どうして?」
もう一度訊ねると、今度は返事のようなものが返ってきた。
『消さなきゃ消さなきゃ。だって、過去は君をがんじがらめにするから』
『消さなきゃ消さなきゃ。だって過去は、大好きなあの日がずっと続けばいいと、君に淡い幻想を抱かせるから』
『消さなきゃ消さなきゃ。だって過去は、君を停滞させるから』
『消さなきゃ消さなきゃ。最初から、過去なんて捨ててしまえばいいんだ』
『消さなきゃ消さなきゃ。過去は邪魔なんだ』
『消さなきゃ消さなきゃ。君にとって、過去は不必要なもの』
ガタン、と大きな音がした。同時に床が流れ出す。
「きゃっ! な、なに!?」
海鈴はベルトコンベアのような自動で動く床の上に座っていた。動く床の少し先には、大きな大きな赤黒い穴がある。穴の奥からは、ときおりぼぉっと大きな音と黒煙とともに火花が散った。
「うそ……本当に燃やされちゃう」
海鈴は青ざめた。ベルトコンベアは、ゆっくりと海鈴を深い闇と炎の中へ誘っていく。不気味な炎がどんどん迫ってくる。頬に触れる空気が熱い。焦げ臭い匂いと、どこかから聞こえる『消さなきゃ消さなきゃ』、『急げ急げ』という高い声。どくどくと心臓が音を立てた。
たしかに、過去を捨てれば、一切の迷いや恐怖は消えるのかもしれない。でも、本当にそれでいいのだろうか。
ミレイはコルクボードの写真を、素敵な写真だと言ってくれた。銀河鉄道のビロードの腰掛けで、レインの手の中で丁寧にめくられていく、海鈴の記憶。
幼稚園で両親と離れて寂しかった思い出。ゆっこと翠と友達になった日の記憶。日が暮れるまで遊んで、怪我をして、親に怒られて、それでも一緒にいるだけで楽しかった十四年間の思い出。ヴァイオリンのコンクールで失敗した恥ずかしい過去。三条女史の呆れたようなため息。夏の暑さ、汗の匂い、冬に吐く息、湊の笑顔――。
海鈴にとっては、どれも大切な思い出。かけがえのない過去だ。それを捨てるなんて……。
「……嫌!」
ガコンと、ベルトコンベアが静止する。
『なぜ?』
『過去なんて、君を惑わすだけなのに』
『そうだ。ずっと君を惑わせていたじゃないか』
『いらないいらない』
『捨てちゃえ捨てちゃえ』
「それでも、大切なものなの。過去がなかったら、今の私はいないの」
海鈴は立ち上がって、声の主たちへ言った。
『過去なんて、今の君になんの役に立つの?』
ベルトコンベアのはるか遠くで、なにかがきらりと揺らめいた。
「分からない。分からないけど、嫌なの。絶対に失いたくないの!」
『ダメダメ。そんなこと言ったって、君ってば全然未来を考えないんだもの』
『躊躇う子には強制執行!』
『消しちゃえ消しちゃえ! さぁ早く!』
ベルトコンベアが大きな音を立てて、再び動き出す。
「きゃあっ!」
海鈴はバランスを崩し、倒れ込んだ。動くスピードがどんどん上がっていった。視界が赤黒い炎に侵食されていく。
『痛くないよ』
『ただ記憶がちょこっと燃えるだけさ』
『そうそう。ちょこっと焦げ臭くなるだけさ』
「誰か……誰か助けて……」
ベルトコンベアの端にかかった足が落ちる。炎に触れた足が輝き出し、淡い光が水面へ昇っていく。光の粒となったそれは、海鈴の大切な記憶の欠片だった。
海鈴の瞳に涙が滲んでいく。ぼやける視界とは対照的に、唇はかさかさに乾いていた。
「やだっ……取らないで」
うまく口が回らない。立ち上がろうとしても、足が固まって動けない。光の粒は立ち昇っては消えていく。
「やだっ! 待って……嫌だっ!」
海鈴が叫ぶと、
「海鈴!」頭上から、声がした。赤黒い世界の中、一筋の光がまっすぐに海鈴へ伸びる。
「レイン……!」
「海鈴、手を伸ばして!」
レインが手を伸ばした。海鈴がしっかりとその手を握ると、まるで強い磁石に引き寄せられるように、海鈴の体は宙に浮いた。
その瞬間、再び現れた巨大な渦が炎を巻き上げ、暗闇を赤褐色に覆った。ベルトコンベアが大きな音を立てて崩壊する。
「な、なに!?」
「ナイトメアたちの起こした渦だ」
「渦?」
「まずいな……海鈴、早くこちらに!」
レインが海鈴の名を呼ぶ。海鈴も慌ててレインに駆け寄ろうとするが、二人の間に渦が割り込んだ。
「きゃっ……!」
小さかった水煙は見る間に大きくなり、やがて巨大な渦巻きになった。本や棚、星屑たちを巻き込みながら、ぐるぐるととぐろを巻く渦。それはついに海鈴をまるごと飲み込もうとした。
「海鈴!」
レインが手を伸ばしながら叫ぶ。しかし、海鈴はあっという間に渦の中に閉じ込められてしまった。激しい渦に巻き上げられながら、海鈴はうっすらと目を開けて鏡界を見下ろした。
大きなツインタワーや、花壇の中で咲き乱れる植物たち。灰色の森や、それから動物の形をした公園の遊具も、みんな目を閉じてじっとしている。
水の中に沈んだ世界はすべてがモノトーンで、本当に眠っているらしかった。
「レイン……レイン! どこ……?」
水の中、渦の中で、海鈴は必死にレインを探した。けれど、いくら叫んでも返事はない。レインの姿は、もうどこにもなかった。
ふわりふわり、頬を撫でられるような感覚に海鈴は目を覚ます。頬を撫でていたのは、いつの間にポケットから落ちたのか、ステラからもらった筆だった。渦に巻き込まれたときにポケットから落ちてしまったのかもしれない。幸いすぐ近くに落ちていたことに安堵して、海鈴はもう一度たしかにポケットに筆をしまった。
「ここは、どこ?」
自分の声なのに、どこか遠くに感じる。海鈴が倒れていたのは、暗闇の中。すると突然ぴかんと天井が光り、ネオンの中に文字が浮かび上がった。
『記憶焼却場』とある。
どこからかどんどんと激しく響く音楽。いつも鳴っている時計の音とは違う、ひどく不安を煽るような音だった。
「記憶……焼却場……?」
海鈴は、看板の真下にいた。不吉な文字に、息を呑む。文字とは裏腹に、輝くネオンはまるで華やかなライトアップを施された遊園地のようだった。
ここはどこなのだろうか。レインとはぐれた場所からどれくらい飛ばされたのだろう。逃げ出そうにも、暗すぎてどこに歩いていけばいいのか分からない。蹲ったまま困惑していると、遠くから声がした。
『消さなきゃ消さなきゃ』
『早くしないと、この世界が眠っちゃう』
『その前に、早く夢を見つけなくっちゃ!』
異様に高い声だった。子供の声というより、小動物の鳴き声のような高さだ。
「なに……? 一体、なにを消すの?」
どこかで話し合いをする声の主たちに訊ねてみるが、
『消さなきゃ消さなきゃ』
『眠っちゃう前に』
『消さなきゃ消さなきゃ』
『邪魔な過去を消さなきゃ』
海鈴は天井の文字を見上げる。
「まさか……私の記憶を消すの? どうして?」
もう一度訊ねると、今度は返事のようなものが返ってきた。
『消さなきゃ消さなきゃ。だって、過去は君をがんじがらめにするから』
『消さなきゃ消さなきゃ。だって過去は、大好きなあの日がずっと続けばいいと、君に淡い幻想を抱かせるから』
『消さなきゃ消さなきゃ。だって過去は、君を停滞させるから』
『消さなきゃ消さなきゃ。最初から、過去なんて捨ててしまえばいいんだ』
『消さなきゃ消さなきゃ。過去は邪魔なんだ』
『消さなきゃ消さなきゃ。君にとって、過去は不必要なもの』
ガタン、と大きな音がした。同時に床が流れ出す。
「きゃっ! な、なに!?」
海鈴はベルトコンベアのような自動で動く床の上に座っていた。動く床の少し先には、大きな大きな赤黒い穴がある。穴の奥からは、ときおりぼぉっと大きな音と黒煙とともに火花が散った。
「うそ……本当に燃やされちゃう」
海鈴は青ざめた。ベルトコンベアは、ゆっくりと海鈴を深い闇と炎の中へ誘っていく。不気味な炎がどんどん迫ってくる。頬に触れる空気が熱い。焦げ臭い匂いと、どこかから聞こえる『消さなきゃ消さなきゃ』、『急げ急げ』という高い声。どくどくと心臓が音を立てた。
たしかに、過去を捨てれば、一切の迷いや恐怖は消えるのかもしれない。でも、本当にそれでいいのだろうか。
ミレイはコルクボードの写真を、素敵な写真だと言ってくれた。銀河鉄道のビロードの腰掛けで、レインの手の中で丁寧にめくられていく、海鈴の記憶。
幼稚園で両親と離れて寂しかった思い出。ゆっこと翠と友達になった日の記憶。日が暮れるまで遊んで、怪我をして、親に怒られて、それでも一緒にいるだけで楽しかった十四年間の思い出。ヴァイオリンのコンクールで失敗した恥ずかしい過去。三条女史の呆れたようなため息。夏の暑さ、汗の匂い、冬に吐く息、湊の笑顔――。
海鈴にとっては、どれも大切な思い出。かけがえのない過去だ。それを捨てるなんて……。
「……嫌!」
ガコンと、ベルトコンベアが静止する。
『なぜ?』
『過去なんて、君を惑わすだけなのに』
『そうだ。ずっと君を惑わせていたじゃないか』
『いらないいらない』
『捨てちゃえ捨てちゃえ』
「それでも、大切なものなの。過去がなかったら、今の私はいないの」
海鈴は立ち上がって、声の主たちへ言った。
『過去なんて、今の君になんの役に立つの?』
ベルトコンベアのはるか遠くで、なにかがきらりと揺らめいた。
「分からない。分からないけど、嫌なの。絶対に失いたくないの!」
『ダメダメ。そんなこと言ったって、君ってば全然未来を考えないんだもの』
『躊躇う子には強制執行!』
『消しちゃえ消しちゃえ! さぁ早く!』
ベルトコンベアが大きな音を立てて、再び動き出す。
「きゃあっ!」
海鈴はバランスを崩し、倒れ込んだ。動くスピードがどんどん上がっていった。視界が赤黒い炎に侵食されていく。
『痛くないよ』
『ただ記憶がちょこっと燃えるだけさ』
『そうそう。ちょこっと焦げ臭くなるだけさ』
「誰か……誰か助けて……」
ベルトコンベアの端にかかった足が落ちる。炎に触れた足が輝き出し、淡い光が水面へ昇っていく。光の粒となったそれは、海鈴の大切な記憶の欠片だった。
海鈴の瞳に涙が滲んでいく。ぼやける視界とは対照的に、唇はかさかさに乾いていた。
「やだっ……取らないで」
うまく口が回らない。立ち上がろうとしても、足が固まって動けない。光の粒は立ち昇っては消えていく。
「やだっ! 待って……嫌だっ!」
海鈴が叫ぶと、
「海鈴!」頭上から、声がした。赤黒い世界の中、一筋の光がまっすぐに海鈴へ伸びる。
「レイン……!」
「海鈴、手を伸ばして!」
レインが手を伸ばした。海鈴がしっかりとその手を握ると、まるで強い磁石に引き寄せられるように、海鈴の体は宙に浮いた。
その瞬間、再び現れた巨大な渦が炎を巻き上げ、暗闇を赤褐色に覆った。ベルトコンベアが大きな音を立てて崩壊する。