「あ、ジャム! そろそろできたかもしれません」

 コトコト煮ていたジャムの存在を思い出し、ベロニカはパタパタと作業を再開する。
 いい出来ですね、と味見をしたベロニカは満足気に頷く。

「いい匂いですね」

 匂いに釣られた伯爵が顔をのぞかせた。

「でしょ? ちょっとお待ち下さいね」

 伯爵へのお土産分を用意しようとベロニカは戸棚のドアを開け台に乗り背伸びをしてビンを探す。
 あった、っと手を伸ばしたところで、ベロニカの足が滑り、戸棚から鍋だの瓶だのと仕舞って置いたモノが大量に降ってくる。
 あっと思ったベロニカは反射的に目を閉じた。

 ガシャン、ガシャ、ガシャンと大きな音があたりに響く。

「…………?」

 痛みを覚悟したベロニカだったが、降ってきたはずの物がベロニカに当たる事はなく、足も挫いていない。

「……痛った、物の整理くらいしとけよ。全く」

 耳元でそんな声が聞こえ驚きながらベロニカは目を開ける。
 直ぐそこに伯爵の腕があり、足を滑らせたベロニカがそのまま転倒しないように支え、落下物から守ってくれたのだと知る。
 驚き過ぎて何度も目をパチパチさせて固まっているベロニカに、

「一応、落下物全部防いだつもりだけど、どこか痛む? ベロニカ様」

 それとも足捻った? といつもと何ら変わらない口調とテンポで伯爵が聞いてくる。
 おかしいとベロニカは思う。
 みんなが騒ぐロマンス小説では、もっとスマートに庇って相手を気遣い、歯の浮くような言葉をキラキラした笑顔で言っていた。
 みんな、そんな空想上のヒーローに黄色い悲鳴をあげながらときめいていたはずなのに。

「何フリーズしてんの、ベロニカ様」

 本に書いてあるようなシーンとはかけ離れた無愛想な伯爵に初めて名前を呼ばれて、心音が乱れたなんて。
 絶対、おかしい。
 そして、ひとつの結論を導き出す。

「はっ! 伯爵、実は遅延性の毒か煮ると砂糖水が元の毒に戻るのかもしれません。心拍数が加速してます!!」

 バクバクと乱れる心音と、耳元を染める熱。今までの暗殺されかかった人生で、そんな事は一度もなかった。

「いや、ただ単純に音に驚いただけでは?」

 呆れたような顔の伯爵に、興奮気味に語るベロニカ。

「私、このまま毒殺できるかもしれません。なので、今日はここまでで!」

 上手く私が死んだらちゃんと褒賞受け取ってくださいねと、ベロニカはお礼を言うのも忘れて早々に疑問符だらけの伯爵を離宮から送り出す。
 パタンと戸を閉じたベロニカは、去って行った伯爵の足音を聞きながら、まだ引かない熱を確かめるように両手で頬を押さえる。

「……変な伯爵。殺しを依頼してる相手を庇うだなんて」

 放っておいても死なない呪いなのだから、大丈夫。万が一上手くいけば儲けもの。
 呪われ姫の自分なんて、そんな存在でしかないのに。

「毒、効いてるんでしょうか? まだバクバクいっています」

 初めて乱れた心音を確かめるように微笑んで、キッチンを片付けるために歩き出す。

「ふふ、今日は初めて記念日ですね」

 誰かに庇われたのも、母親以外から名前を呼ばれたのも、毒が効いたのも全て初めてで、特別で。

「ああ、今日死ねたらいいのになぁ」

 ベロニカは満足気に微笑んで独り言をつぶやいた。

 結局この日毒で死ぬ事がなかったベロニカが何度も試した後に伯爵にジャムをお裾分けできたも、あの時の心音の乱れの意味を解明できず途方にくれたのも、数日後のお話し。