「着いたよ」

 卓己が車のドアを開けてくれて、私はその大切な絵を抱えて降りた。
門の扉も玄関のドアも、全部卓己が開けてくれる。
部屋の灯りだって、もちろん卓己がつけた。

「アトリエまで運べる?」
「うん」

 私は出来る限りそっけない返事をして、二階に上がった。
卓己はすぐ後ろをついてきて、アトリエの扉を先に開け、灯りをつける。

「よかったね。ちゃんと自分の手で取り戻せて」

 卓己が怒っていることに全く気づかないフリをするのなんて、私の一番の得意技だって、まだ気づいていないのかな。

「やったぁ! おじいちゃん。これでまた1つ、ここの風景が取り戻せたよ!」

 私はにっこにこの笑顔で、彼を振り返る。

「あははー。卓己もご苦労さま! 今日は助けてくれて、ありがとね」
「あ、う、うん……」

 卓己はもじもじと言葉を探し始め、私はそんな彼の腕に何気ないそぶりでそっと手を添える。

「ね、落ちたとき、本当に痛くなかった? 私は腰をぶつけたんだけど」

 彼がまだ話すべき言葉を見つけられない前で、痛くもない腰をさすった。

「やっだ。もしかしたらここの部分アザになってるかも。お風呂入ったら見てみよう」

 そう言って電気のスイッチに手をかけたら、この部屋から出て行く合図。

「ほら、卓己も雨が降り出す前に、家に帰ったら?」
「う、うん……」

 何度も何度も振り返りながら階段を下りる卓己を、私は口元にだけ笑顔を浮かべ見送る。

「お疲れさま。またね」
「あ、あのさ。こないだの……。その、考えといてって、お願い……した、件、なんだけど……」

 「またね」って私が言ったら、それは「帰れ」という確かな合図だったはずなのに。
今夜の卓己は、簡単にそこから動こうとしない。

「は? 何それ」
「な、何それじゃ、なくて!」

 卓己の顔が真っ赤になって、また怒りだしたから、私は愛想よく笑っておく。

「うそうそ。ちゃんと覚えてるよ。事務を手伝ってほしいって話しでしょ?」
「う、うん……」

 私は軽く息を吐いてから、元気よく腕組みをしてみせた。

「あのさぁ、私がなんのために高校から一生懸命勉強して、一流企業に入ったと思ってるの? 安定した生活がほしいからだって、知ってるじゃない」

 そして大げさなほど、呆れた顔を浮かべる。

「なのに、なんで立ち上げたばっかりのあんたのベンチャー企業に、お世話にならなきゃなんないの。卓己だって、私みたいなこんな余計なお荷物、抱える必要ないでしょ?」
「そ、そんな風に思ってるんじゃ、なくてさ……。俺は紗和ちゃんに……」
「はいはい。心配してもらわなくても、私は大丈夫だから。あんたは自分のことだけをきちんと考えて、やっていきなさい。お互いに大変なのは、分かってんだからさ。私もこうみえて、もうちゃんとした大人なんだよ?」

 腕を押しても、卓己は動かない。

「ほら、千鶴ちゃんにも言われちゃったじゃない。それでこの私が、珍しく反省してんだからさ。そんな反省、長くは続かないって、一番よく知ってるのは卓己じゃない。だから、私がちょっとでも塩らしくなってるうちに、今日はもうさっさと帰って。大切な明日のお仕事に備えてください」

 卓己の指先が伸びる。
私は触れられたくなくて、とっさに頭を90度に下げた。

「紗和ちゃん……」
「お願い。いま自分が情けなくて泣きそうなの。そんなとこ卓己に見られたくないから、早く帰って」
「ねぇ紗和ちゃん。一度さ、ちゃんと一回、お話しよ」

 卓己の手が髪に触れた。
その瞬間、私はその手をはねのける。
泣き顔なんて、今さら見られたくない。
卓巳になんて、甘えたくない。

「帰ってって、言ってるの!」
「だ、だけど紗和ちゃ……」
「帰って!」

 卓己はおろおろと言葉を探し続けている。
それでも私が頭を下げたままじっと動かずにいたら、ようやくあきらめたらしい。

「き、今日は……。じゃあ、もう帰る……けど、仕事手伝ってほしいって、話し……は、また絶対にするから、ね」
「はいはい。今の会社が倒産でもしたら、考えてあげるよ」

 うつむいたまま卓己を玄関の外に追いだした私は、閉めたドアから片目だけをのぞかせる。

「じゃ、おやすみ」

 鍵をかけ、彼の足音をドア越しに聞いている。
乗ってきた車の、走り去る音まで聞き届けたから、もう安心していい。
ようやくほどけた緊張に、その場にぐったりと座り込む。
自分の頬を何かが伝って流れ落ちたのを、私はなかったことにした。