気がつけば私の周囲には、もの凄い人数の人垣が出来上がっていた。
すっかり見世物になってしまっていたことに、急に恥ずかしくなる。
その中をかき分け、佐山CMOが現れた。

「なにこれ、なんの騒ぎだ」
「いえ、別に……」
「あのさ、君に困ったことがあったら、俺に何でも相談しろと言っただろ」

 彼は私の持つペーパーウェイトに気づいて、ため息をつく。

「今度はその作品のために、走り回っていたのか」
「はい。そうなんです。すいませんでした」
「三上恭平絶頂期に作られたもので、対偶のペーパーウェイトと呼ばれているものだけど、謎の多い作品だ。対偶というわりには、5つしかない奇数であるし、画伯の作品にしては、なんというか……。その、ずいぶん稚拙な作品だ。彩色の仕方は斬新なんだけど、なんというか……。まぁ、彼の新境地を目指そうとする実験的な意味合いが、よく現れているものではあるよね」

 彼の語る幅広い知識に、私はついおかしくなって、くすくす笑ってしまう。

「さすが。よくご存じですね」
「カタログで見たんだ。まぁ、この作品自体に、あまり商業的な価値はつけられていない。君にとっては、そんなことは関係ないんだろうけど」
「実はこれ、おじいちゃんが作ったものではないんです」
「えっ、どういうこと?」
「確かに、この押し型をデザインして、型抜きして焼いたのはおじいちゃんですけど、色をつけたのは、おじいちゃんじゃないんです。それに、元々はペーパーウェイトなんかじゃなくて、単なる遊び道具の、おもちゃでした」
「おもちゃ? 置きもの的な?」
「まぁ、そんな感じですね」

 ふいに会場全体の空気が、ぐらりとざわついた。
新たな歓声と人の波がエントランスへ向かっている。

「紗和ちゃん!」

 その中心にいたのは、珍しくドレスアップした卓己だった。
黒に細い白のストラップが入った大きな衿付きのデザイナースーツは、卓己のすらりとしたスタイルの良さを十分に引き出していた。
卓己って、こんなにも手足が長かったっけ? 
いつものぼさぼさな頭は変わらないのに、着ているお洒落過ぎるスーツのおかげで、どこから見ても完璧なアーティストに見える。

「うわー、なにそのスーツ。カッコいい。そんな格好、初めて見た。卓己ってやっぱり、アーティストだったんだねー。しかもネクタイなんかしちゃって。ねぇ、どうしたの?」

 卓己はいつものように、もぞもぞしながら固まってしまった。
卓己の隣には、黒髪ストレートの、キリッとした美女までくっついている。
彼女もきっと、アーティスト仲間なのだろう。
お揃いではないけれども、色合いを合わせた2人の揃いの衣装と立ち居振る舞いからあふれ出るオーラは、明らかに一般参加者のそれとは違っていた。

「そ、そんな……。こ、こ……。紗和ちゃんだって……って。そ、そんな、見たことない服、着ちゃって。な、なんで……」

 卓己はすぐに、私の持つウェイトに気づいた。

「あ、あれ? それ、どうしたの?」
「もらっちゃった」
「誰に?」
「秘密」

 私はそれを丁寧にハンカチで包んでから、再びバッグにしまった。
卓己はなぜかいつも以上に、呂律が回らなくなっている。

「な、なん……、だよ、それ。ひ、秘密って……、なに?」

 卓己が食い下がろうとするのを、私はフンと鼻を鳴らして蹴散らした。

「な。な……。紗和ちゃん。さ……。僕は今日、紗和ちゃん、に、い、言いたい……こと、が、あ、あって……」

 卓己は佐山CMOを、おずおずと見つめた。

「あ、あの……。今日は、あなたと紗和ちゃんは……」
「あー!」

 その佐山CMOの突然の大きな声に、卓己が一番驚いてビクリと体を震わせる。

「も、もしかして、その焼き物に色をつけたのって、卓己くんなの?」

 卓己は返事に困ったようにうつむき、ちらりと私を見たあとで、また真っ赤になってうつむいた。

「えぇ、実はそうなんです」
「なんてことだ……」

 佐山CMOは言葉を失ったようにくらくらとよろけ、頭を抱えこんでしまった。
卓己はおそるおそる私を見下ろす。

「ね、ねぇ。そんな……。こと、より。紗和ちゃん。それ……は、どこでもらった、の?」
「秘密だって言ったでしょ。絶対に教えてあげない」

 怒りと悔しさと悲しみと他の何かも混じり合う表情で、卓己の目はみるみる涙でいっぱいになる。
だけどそんな顔されたって、教えてあげない。
卓己は私の実のお婆さんの存在を知らない。
卓己にだって、卓己の知らない私があっていい。