「紗和子さんに、恋人はいないの?」
「は? なにそれ。喧嘩売ってるんですか? いるわけないじゃないですか」
「だからなんでそれが、喧嘩を売ることになるのか、よく分からないんだけど」
「いませんよ彼氏だなんて。じゃあ佐山CMOはどうなんですか?」
「俺も今はフリーだよ。詩織さんにフラれたばかりだからね」
何を言ってんだか。そんなの絶対ウソ。
佐山CMO自身が、そう言いながらにこにこ笑ってるくせに。
本人にその気がなくても、彼を狙ってる女の子は山ほどいるんだから。
「ま、詩織さんのお父さまとのメッセージに、胸がときめいていたくらいですからね。レベルが違いますよね」
「それを言うな!」
「あはは」
気づけば、私はすっかり泣き止んでいた。
もしかしてこれは、佐山CMOのおかげ?
車内では賑やかなおしゃべりが続く。
大変だったけど、楽しかった。
きっとこれもいい思い出になる。
私とおじいちゃんのカップに、新しい思い出が加わったんだ。
快適に走っていた車が、急に減速を始めた。
家の少し手前で止まる。
「あの、紗和子さんのお宅の前に、誰かいらっしゃるようですが」
運転手さんに言われて、シートの隙間から前方をのぞき込む。
門の前に、誰かがうずくまっていた。
「卓己? もしかして、卓己かも」
「お知り合いですか?」
「えぇ、そうです。大丈夫です。そのまま目の前で止めてください」
車が近づくと、うずくまっていた人物が顔を上げた。
やっぱり卓己だ。
私は車を降りる。
「卓己! あんた、こんなところでなにやってんの?」
「あぁ、紗和ちゃんお帰り。やっと帰ってきた」
ずいぶん温かくなった春先とはいえ、夜はまだ寒い。
「いつからここに座ってたのよ」
「あ……。紗和ちゃん……?」
彼は立ち上がると、私を頭の先から靴の先までをゆっくりとながめる。
「紗和ちゃん。そんなきれいな格好して、どこ行ってたの」
「え? どこって、えっと……」
彼はいつものように、両手に大きな買い物袋をぶら下げている。
「しかもタクシー? 使って? 終電、まだあるのに?」
「あ、そうだ!」
私は鞄の中から、おじいちゃんのカップを取りだした。
「ほら! 見てこれ! このカップ、私のものになったのよ。カップがもらえたの!」
「え? どういうこと? こんな時間まで、紗和ちゃんは、それをもらいに行ってたの?」
「そうなの! 凄くない?」
私は宇宙色のカップを春の夜空に高く掲げる。
「このカップが、うちに戻ってきたのよ!」
私はうれしすぎて、その場でくるりと一回転した。
卓己は混乱したまま、立ち尽くしている。
「戻ってきたって、そのカップはオークションで……」
バタンと車のドアの閉まる大きな音が、夜空に響いた。
「あー! 思い出した! 安藤卓己! 超有名な、現代アーティストじゃないですか!」
車から降りた佐山CMOは、興奮したように卓己に駆け寄る。
「いやぁ~、初めまして! 僕は佐山商事の佐山颯斗と申します!」
彼は卓己の手にあった牛丼屋のお持ち帰り袋を奪いとると、それを私に押しつける。
「僕、あなたのだいっファンなんですよ! この間も、雑誌に記事が載ってましたよね! それ読んで、すごく感動しました! 僕、いつも安藤さんの会社のポートフォリオサイト、見てるんですよ!」
「あぁ、ありがとうございます」
佐山CMOは卓己の手を勝手に握りしめると、ぶんぶんとそれを振り回した。
「こないだ初めて、ご自身の作品をデジタルアートのオークションに出しましたよね。その時もすっごい話題になってて! 実はあの時、僕も会場に見に行ってたんですけど……」
佐山CMOは卓己の手をしっかりと握りしめたまま、一人でずっと勢いよくしゃべり続けている。
「ねぇ、紗和ちゃん。この人、誰?」
「うちの会社のCMO」
「CMOって、偉い人?」
「たぶん」
彼は宝物を見つけた少年のように目をキラキラさせ、卓己の手をしっかりと握りしめたまま放そうとはしない。
卓己はそんなCMOに圧倒されながらも、早口でしゃべる彼の話に耳を傾けていた。
彼らの長話しになんて、つき合っていられない。
「じゃ、お先に。これはもらっておくね」
私は佐山CMOから受け取った牛丼の袋を、卓己に掲げて見せる。
「あ、え? ちょ、ちょっと待ってよ。さ、紗和ちゃん。ぼ、僕を置いてい、行かないで……」
まだまだ興奮冷めやらぬ佐山CMOを卓己の元に残したまま、傾きかけた門を抜ける。
「じゃ。おやすみ」
中に入ってもまだ、玄関の外から佐山CMOの声が響いていた。
私は二階に上がると、おじいちゃんのアトリエに入る。
いまはもう何もない、空っぽの部屋だ。
かつてここは、文字通り宝の山だった。
私にとってそれは金銭的な価値を示すものではなく、おもちゃ箱の中にいるみたいな、大きな宝箱の中にすっぽり自分が入り込んでしまったような感覚だった。
その記憶の中にしかなかった思い出が、ようやく戻ってきた。
私は空っぽの戸棚に、宇宙色のカップをコトリと置く。
おじいちゃんが作り、私が遊んだ大切な思い出。
たった一つだけだ。
私が取り戻せたのは。
いつの日かまた、この場所を夢の空間にしたい。
いつまでもにこにこと笑って見ていられるような、そこにいるだけで幸せに過ごせるような、楽しかった場所に戻したい。
ようやく始まった1歩に、私はその決意を新たにした。
「は? なにそれ。喧嘩売ってるんですか? いるわけないじゃないですか」
「だからなんでそれが、喧嘩を売ることになるのか、よく分からないんだけど」
「いませんよ彼氏だなんて。じゃあ佐山CMOはどうなんですか?」
「俺も今はフリーだよ。詩織さんにフラれたばかりだからね」
何を言ってんだか。そんなの絶対ウソ。
佐山CMO自身が、そう言いながらにこにこ笑ってるくせに。
本人にその気がなくても、彼を狙ってる女の子は山ほどいるんだから。
「ま、詩織さんのお父さまとのメッセージに、胸がときめいていたくらいですからね。レベルが違いますよね」
「それを言うな!」
「あはは」
気づけば、私はすっかり泣き止んでいた。
もしかしてこれは、佐山CMOのおかげ?
車内では賑やかなおしゃべりが続く。
大変だったけど、楽しかった。
きっとこれもいい思い出になる。
私とおじいちゃんのカップに、新しい思い出が加わったんだ。
快適に走っていた車が、急に減速を始めた。
家の少し手前で止まる。
「あの、紗和子さんのお宅の前に、誰かいらっしゃるようですが」
運転手さんに言われて、シートの隙間から前方をのぞき込む。
門の前に、誰かがうずくまっていた。
「卓己? もしかして、卓己かも」
「お知り合いですか?」
「えぇ、そうです。大丈夫です。そのまま目の前で止めてください」
車が近づくと、うずくまっていた人物が顔を上げた。
やっぱり卓己だ。
私は車を降りる。
「卓己! あんた、こんなところでなにやってんの?」
「あぁ、紗和ちゃんお帰り。やっと帰ってきた」
ずいぶん温かくなった春先とはいえ、夜はまだ寒い。
「いつからここに座ってたのよ」
「あ……。紗和ちゃん……?」
彼は立ち上がると、私を頭の先から靴の先までをゆっくりとながめる。
「紗和ちゃん。そんなきれいな格好して、どこ行ってたの」
「え? どこって、えっと……」
彼はいつものように、両手に大きな買い物袋をぶら下げている。
「しかもタクシー? 使って? 終電、まだあるのに?」
「あ、そうだ!」
私は鞄の中から、おじいちゃんのカップを取りだした。
「ほら! 見てこれ! このカップ、私のものになったのよ。カップがもらえたの!」
「え? どういうこと? こんな時間まで、紗和ちゃんは、それをもらいに行ってたの?」
「そうなの! 凄くない?」
私は宇宙色のカップを春の夜空に高く掲げる。
「このカップが、うちに戻ってきたのよ!」
私はうれしすぎて、その場でくるりと一回転した。
卓己は混乱したまま、立ち尽くしている。
「戻ってきたって、そのカップはオークションで……」
バタンと車のドアの閉まる大きな音が、夜空に響いた。
「あー! 思い出した! 安藤卓己! 超有名な、現代アーティストじゃないですか!」
車から降りた佐山CMOは、興奮したように卓己に駆け寄る。
「いやぁ~、初めまして! 僕は佐山商事の佐山颯斗と申します!」
彼は卓己の手にあった牛丼屋のお持ち帰り袋を奪いとると、それを私に押しつける。
「僕、あなたのだいっファンなんですよ! この間も、雑誌に記事が載ってましたよね! それ読んで、すごく感動しました! 僕、いつも安藤さんの会社のポートフォリオサイト、見てるんですよ!」
「あぁ、ありがとうございます」
佐山CMOは卓己の手を勝手に握りしめると、ぶんぶんとそれを振り回した。
「こないだ初めて、ご自身の作品をデジタルアートのオークションに出しましたよね。その時もすっごい話題になってて! 実はあの時、僕も会場に見に行ってたんですけど……」
佐山CMOは卓己の手をしっかりと握りしめたまま、一人でずっと勢いよくしゃべり続けている。
「ねぇ、紗和ちゃん。この人、誰?」
「うちの会社のCMO」
「CMOって、偉い人?」
「たぶん」
彼は宝物を見つけた少年のように目をキラキラさせ、卓己の手をしっかりと握りしめたまま放そうとはしない。
卓己はそんなCMOに圧倒されながらも、早口でしゃべる彼の話に耳を傾けていた。
彼らの長話しになんて、つき合っていられない。
「じゃ、お先に。これはもらっておくね」
私は佐山CMOから受け取った牛丼の袋を、卓己に掲げて見せる。
「あ、え? ちょ、ちょっと待ってよ。さ、紗和ちゃん。ぼ、僕を置いてい、行かないで……」
まだまだ興奮冷めやらぬ佐山CMOを卓己の元に残したまま、傾きかけた門を抜ける。
「じゃ。おやすみ」
中に入ってもまだ、玄関の外から佐山CMOの声が響いていた。
私は二階に上がると、おじいちゃんのアトリエに入る。
いまはもう何もない、空っぽの部屋だ。
かつてここは、文字通り宝の山だった。
私にとってそれは金銭的な価値を示すものではなく、おもちゃ箱の中にいるみたいな、大きな宝箱の中にすっぽり自分が入り込んでしまったような感覚だった。
その記憶の中にしかなかった思い出が、ようやく戻ってきた。
私は空っぽの戸棚に、宇宙色のカップをコトリと置く。
おじいちゃんが作り、私が遊んだ大切な思い出。
たった一つだけだ。
私が取り戻せたのは。
いつの日かまた、この場所を夢の空間にしたい。
いつまでもにこにこと笑って見ていられるような、そこにいるだけで幸せに過ごせるような、楽しかった場所に戻したい。
ようやく始まった1歩に、私はその決意を新たにした。