「まだお前は詩織につきまとっていたのか! 勝手に入ってくるんじゃない! 出て行け!」
「えぇ、もちろん出て行くわ!」

 詩織さんはその男の子としっかりと手を繋ぐ。
テーブルに置かれたカップを手にすると、それを私に渡した。

「紗和子さん。私、このカップはいりません。あなたにあげる」
「え?」

 彼女は毅然と父親を仰ぎ見た。

「お父さん。私は自分の本当に好きな人と、透さんと幸せになります!」
「許さん! あれほどこの男とは、もう連絡をとるなと言ったのに!」
「お父さん。私はね、もう子供じゃないのよ」

 詩織さんはポケットから携帯を取りだすと、それを高々と空に掲げた。

「大学を卒業して社会人となったいま、自分でスマホも契約できるようになったんだから!」
「なんだって!?」

 透さんは、最愛の彼女である詩織さんの手をしっかりと握り返す。

「行こう! 詩織!」
「お父さん、ごめんなさい!」

 二人は勢いよくリビングから走り去った。

「待ちなさい! 詩織!!」
「兄さん、あの二人を追いかけよう!」

 篤広氏が走りだし、孝良氏も慌てて後を追いかけた。
ドタバタの喧騒は廊下の奥から玄関の外へ移行し、賑やかな声はやがて聞こえなくなる……。

 あーびっくりした。なんだあれ。
走り出したおっさん二人の背に、私は何とも言い難い哀愁を感じてしまう。
自我のある大人になった娘を、いつまでも幼い自分の所有物だと思っている困ったおじさん達だ。
若い娘が父と叔父さんに自分の携帯をいいように勝手に扱われて、大人しく黙っているワケがない。
そんな気持ち悪い携帯なんか、自分の携帯じゃない。

 詩織さんの掲げたそのスマホが、父から買い与えられた高性能最新機種ではなく、一世代前の古い機種だったことに、彼女の本気度がうかがえる。
彼女は自分で契約した携帯で、本当に好きな人と連絡をとりあっていたんだね。
よかった。
彼女がただ弱いだけの、泣いてばかりの女の子じゃなくて。

「えーっと。どうしましょうか」

 佐山CMOが、部屋の雰囲気を戻すように口を開いた。
てゆーか、どさくさに紛れて、あの叔父さんは逃げたな。
申し訳なさそうな顔で、残された兄の学さんが頭を下げる。

「お二人には、大変なご迷惑をおかけしましたね。そのカップを、最終的に紗和子さんの鞄に入れたのは僕です」
「あなた方の叔父さんはこっそりカップを持って二階にあがり、そのまま僕と詩織さんが上がって来るのを待っていた」
「その時僕は、二階の自分の部屋にいました」

 学さんは申し訳なさそうに私を見る。

「颯斗くんと詩織、叔父の篤広が二階に上がって行くのを見送って、紗和子さんが父とお別れの挨拶をしていた時です。叔父がカップを持って詩織の部屋に入ったのを見て、下に降りて行った隙にそれを取り戻しました。今思うと、叔父はそのカップを割ってしまおうと思っていたのですね」

 学さんは大きく息を吐き出した。

「なんでこんなものを二階に持って上がったんだろう。なくなったってまた大騒ぎするのにと、一階へ戻しに下りてきたのはいいものの、どこに置こうか迷ったあげく、すぐ目の前にあった鞄に……。それが、紗和子さんのものと知りつつ中に突っ込んでしまいました。僕もこれでも一応、妹の心配はしていたんです。詩織があなたの鞄に最初にカップを入れたとき、僕も父と一緒に見ていたんです。どうして詩織はそんなことをするんだろうって思いましたよ。父は怒ってカップを元の木箱に戻しましたが、僕は詩織には詩織の考えがあって、そうしたんだと思ったんです」

 彼は手の平でごしごしと額をこすった。

「だから事情はどうあれ、一番最初の詩織の望み通りに、元に戻しておこうと思ったんです」
「私の鞄にカップが入っていたことを知っていたから、あなたはすぐにカップを取りだしたんですね」
「まぁ、うちの家族のしたことを誤魔化そうとしたのも事実です。他に隠し場所も見当たらなかったし。とっさにって感じですかね。詩織が本当に、紗和子さんに言いくるめられて動いているのではないという、確信もなかったですし」

 そんなことで、私は悪者にされようとしていたの? 
カップが欲しかったのは事実だけど、そんな風に思われていたなんて。

「私は……。詩織さんと話したのは、今日が初めてです」

 この人達にとっては、私も詩織さんも、所詮都合のいい道具に過ぎないんだ。
学さんはもう一度私に頭を下げた。

「すみませんでした。紗和子さんを信じますよ。僕はもう、あなたを疑ったりなんかしていません」
「そ……んな。だ、だからって……」

 悔しくて言葉が出ない。
私の代わりに、佐山CMOは宇宙色のカップを手に取った。

「では詩織さんの望み通り、このカップは彼女に譲ります。僕もそうしたいと思っていますし、学さんもそれでよろしいですね?」
「はい。そのカップは、紗和子さんにお譲りします。それでお詫びになるのなら」

 佐山CMOは鞄にカップを入れると、私の腰に手を回した。

「さぁ、一緒に帰ろう」

 学さんの見送りをうけながら、廊下を進む。
とにかくここを出るまではと、こぼれ落ちそうな涙をぐっと我慢して、背筋はしっかりと伸ばす。
真っ直ぐに前を向いて歩いた。
私は誰にも恥じることなく、一番正々堂々としているべきだ。
玄関を出ようとしたとき、学さんは何も言わずもう一度深く頭を下げた。
佐山CMOの用意した車に、すぐに乗り込む。
車が屋敷の門を抜けたところで、ずっと我慢していた涙があふれ出した。