(落ちる――)

 目をつむった次の瞬間、

「猫ちゃん!」

 やわらかい両腕に、余は抱きとめられた。深い海のように美しい瞳が余を見下ろす。

「かわいそうに、怖かったわね」

(余の婚約者――)

 ロミルダは人差し指で、余の小さな額をなでてくれた。それからぎゅっと胸に抱き寄せて、余を自分の部屋に連れて行った。余の小さな頬にロミルダの胸が当たっている。母親の胸にすら一度も抱かれたことのない余が―― 猫でいるって最高なのでは!?

 しかし侍女は曲者だった。あろうことか余の両脚をつかむとひっくり返して、余のデリケートな部分を白昼の元にさらしたのだ!

「にゃ、にゃぁぁぁっ!!」
(や、やめろぉぉぉっ!!)

「ご覧ください。タマタマがついてるでしょう?」

「にゃ、にゃっ! にゃにゃあああ!」
(余の……余の―― ニャン玉があああ!)

 とんでもない女だ! 不敬罪で投獄してやりたい!

 すっかりすねて一人で毛づくろいしていると、ロミルダが飲み水を持ってきてくれた。この女は優しい。

 舌を出してぺちゃぺちゃと水を飲む余を、いとおしそうに見下ろしている。

「まあ、喉が渇いていたのね。かわいそうに」

 余の背中を彼女の大きな手のひらがすべってゆく。水を飲んでいるときはさわらないで欲しいと思いつつ、生まれてこの方誰かになでられたことなどない余にしてみれば、貴重な体験である。うむ、悪くない。

「ミケくん、かわいい!」

 しかしロミルダめ、暴走しおった。余の背中に顔をうずめスーハー呼吸している。

「にゃあっ!」
(やめたまえ!)

「ロミルダ様、猫が迷惑してますよ」

 侍女、よくぞ言った。と思ったらロミルダさらっと、

「してないわよ」

 している。思いっきり迷惑であるっ!

 なんだか背中がムズムズする。余はぶるぶるっと全身を震わせてロミルダの鼻息を振るい落としてから、身をくねらせて彼女が顔をくっつけたところをなめて毛並みを整えた。まったく余の高貴な毛皮に鼻息を吹きかけるとはけしからん!

 背中のついでに腰のあたりもなめ終わってロミルダのひざの上でくつろいでいると、彼女の細い指先が余のあごの下をさすってくれる。自分の舌が届かない場所なので実に気持ちが良いのだ。うっとり目を細めていると、

「あら、お耳の中がよごれていますわね?」

 と、余の尊い耳を引っ張ってのぞいた。

「にゃにゃ?」
(やめてくれないか?)

 見上げると、相好を崩す。

「かっわいい! 耳掃除してあげましょ」

「にゃぁぁ」
(やめろと言ったのだが)

「お返事できて偉いわね!」

 抗議しているのだがな? もしかしたらディライラも、余に文句を言っていたのかもしれない。意外なほど猫の言葉は通じぬものだな。

 だがロミルダの耳掃除は格別だった。耳の中だけでなく耳の周りも指先でさすってくれるのだが、これが最高に気持ちいい。鼻から額にかけて指先でなぞられると、恍惚として昇天しそうだ。

 半分眠っているうちに、侍女が余の食事を用意するため部屋を出て行った。いかん、猫の身体はすぐに眠くなるようだ。目を覚まそうとフルフル首を振って、ふとロミルダを見ると物思いに沈んでいる。

「にゃ?」
(どうした?)

 王宮からどのような沙汰が下るか不安なのであろう。余がなぐさめてやってもよいぞ。

「ミケくん、心配してくれてるの?」

 ロミルダは余の両脇に手を入れると軽々と抱き上げた。

「一人物思いにふけってしまってごめんなさいね」

 優しい声でささやくと、余を抱きしめ頬ずりする。迷惑――でもないかな。なんだろう、この気持は…… 不思議と満たされてゆく―― 安堵のため息をついたはずが、余の喉が猫のようにゴロゴロと鳴った。あ、今の余は猫なのだった。

「うれしい! ミケくんったらまだ会ったばかりの私を受け入れてくれるのね!」

 ロミルダは顔を輝かせて、いきなり唇を突き出して余に迫って来た。また吸われてはかなわん!

「にゃんにゃっ」
(それは好かぬ)

 片手でロミルダの顔を押し戻す。しかしロミルダめ、

「きゃぁっ、私のほっぺにミケくんの肉球が!」

 感動しておるだと? 余の拒絶を理解しておらぬのか?

「肉球っ! ぷにっ!」

 意味不明なうわごとを口走って余の手のひらを指先でつつくのだが、これが無性に不愉快だ。余が手を引っ込めても、

「かわいい! はぁはぁ」

 よだれを垂らしたロミルダが正気に戻る気配は無し。これが余の婚約者なのか? 色々と思っていたのと違うのだが…… 一ヶ月に一回、使用人がずらっと並んだ応接間で茶会をするだけでは、互いのことなど分からなかったようだ。こうして感情をあらわにする彼女は将来の王妃にふさわしいかは別にして―― かわいらしい女性ではある。

「ロミルダ様、猫のエサ作ってもらいましたよ」

 侍女が戻ってきて、余は解放された。銀食器から漂う、これまでに嗅いだことのないほど食欲をそそる香りに思わず伸びあがって侍女のスカートに爪を引っかけたら、冷たい目で見降ろされてしまった。まったく無礼である!

「お食事ですよぉ」

 一方のロミルダは愛情がこぼれ落ちそうなほほ笑みを浮かべ、木のさじでとろっとした食べ物を余の口まで運んでくれる。

 香りと食感から察するにささみと細切れの野菜を煮込んだものだと思うのだが、こんなに香り高い鶏肉は初めてだ。猫は嗅覚が鋭いせいだろうか。

 ロミルダは不器用なのか、断じて余の食べ方が下手なわけではないと信じているのだが、彼女の手にもおいしいものがたくさんついている。思わずぺろりとなめたら、

「きゃぁ、ミケくんの舌の感触ザラっとして最高ですわ!」

 歓喜の声を上げた。よほど余のことがかわいいのだな。

 あまりの旨さに完食しそうになったが、高貴な人間――いや、高貴な猫のすることではないので一口だけ残しておいた。

 食べ終わって見上げると、ここへどうぞと言わんばかりにロミルダが自分のひざをぽんぽんとたたいている。彼女の身体はやわらかくて気持ちいいので、遠慮なく乗らせていただく。優しく撫でられると眠くなってきて、毛づくろいもそこそこに目をつむった。 

「はぁぁ。かわいい……」

 よだれを垂らしそうな声で絶賛された。これほど人間の女に愛されたのは初めてだ。余の背中をすべる手のひらはやわらかくて、あたたかくて彼女の愛が伝わって来た。余は生まれて初めて、人間と心が通じたと感じた。余はもう人の言葉は話せないが、こんなふうに愛されるならずっと猫でいるのも悪くないかもしれぬ。