(王太子ミケーレ視点)
余は物心ついたときから、この国の王となるべく育てられた。
「明日は母上に会える?」
幼いころ余はよく侍従に訊いていた。侍従は無表情のまま、
「お会いになれません」
と答える。
「明日の明日は?」
侍従が無言で首を振る。
「その次の明日は?」
「いつお会いになれるか決まっておりません」
昨日今日明日しか理解していなかったころ、毎日明日は母に会えるのではないかと期待していた記憶がうっすらと残っている。そのうち分別がついてきて、余はあきらめたのだ。
身の回りの世話は乳母や侍従がしてくれたから、何不自由なく暮らしているはずだった。自分でも何が不足しているのか、不満なのか分からなかった。寂しいという言葉さえ浮かばなかったが、弟カルロが生まれ、余と比べると幾分か自由に過ごしているのを見て、うらやましいとは感じた。
家臣たちはいつもうやうやしく頭を下げ、何を考えているか分からない。教育係は厳しく、法律の勉強に剣術、乗馬と休む間もなくしつけられた。心を許せる者は一人もいなかった。
王宮内の人間模様を観察するうちに、宰相や大臣たちが水面下で権力闘争を繰り広げていることに気が付いた。人間には表の顔と裏の顔があり、誰も信用できないことを学んだ。余の前で家来がこびへつらうのは魂胆があってのこと。友人役を演じる貴族令息たちも、道化でさえ本当のことは口にしない。
そんな殺伐とした生活の中で、余は三毛猫のディライラに出会った。余に愛情が育っていないと考えた教育係が、父に進言したらしい。
「ミケーレ殿下に動物を与えてはどうか」
と。小鳥や犬ではなく、なぜディライラが選ばれたのかは知らない。だが生まれて数ヶ月しか経たない彼女は母猫から引き離され、余のもとへ連れてこられたのだ。
初めて会った日、金色の檻の中にうずくまったディライラは、おびえた瞳で余を見上げた。彼女の美しい緑色の目は、シャンデリアの光を反射して時折金色に見えた。
どこかで見覚えがあるな――
それは何年も前、幼い日々に毎日鏡をはさんで相対していた子供の目だと気付いた。
「分かるよ。僕も両親の顔なんてめったに見られないから」
余が話しかけると、寂し気な目をした寄る辺ない彼女は、
「ニャ」
と返事をしてくれた。
ディライラと過ごすようになって初めて、今までの自分が孤独だったと知った。ディライラだけは本物の愛情を示してくれた。それは余がこの国の第一王子だからではない。ディライラはそんなこと気にしないのだ。
余が本を読んでいると決まって寄ってきて、足元にすりすりと首元をなすりつけてくる。
「ミャーオ」
かわいい声で余を呼びながら、ひらりとテーブルに飛び乗り、あろうことか余が読んでいる本の上にでんと座るのだ。
「遊んでほしいのか? 仕方ないな」
毎朝使用人が完璧に飾り付けてゆく花瓶から一本草を抜いてディライラの前で振ってやると、くるくる回ってジャンプして夢中になるくせに、しばらくするとふいっとどこかへ行ってしまう。
「え、もういいのか?」
余は拍子抜けして読書に戻るのだ。嫌なときは嫌、飽きたら寝るのがディライラだ。裏表のまったく無い気ままな彼女がいとおしかった。
いつの間にか余の知らないところで婚約が決まったが、人間の女を愛するつもりなどなかった。どうせ偽物の笑顔を向けるだけだ。余はディライラだけを愛して生きて行くのだ。彼女は決して嘘をつかないから――
ある日、婚約者が手作りだとかいうクッキーを持ってきた。誰にでもへらへらとよく笑う女だ。何を考えているのかまったく分からないが、人間の頭の中になど興味はない。どうせどろどろとした欲望がつまっているだけだ。
ちっとも甘くないまずいクッキーを二、三枚食べたとき、余の視界が変わった。周囲の家具がぐんぐんと伸び、巨大になってゆく。ディライラと視線の高さが同じになって、自分の身体が小さくなったのだと気が付いた。急に小さくなった余に驚いて、ディライラは身をひるがえして逃げてしまった。
あの女め、余に何を食べさせたのだ!? やはりあの笑顔には裏があったか―― しかしあの毒見役には何も起こらなかったぞ?
我が身に何が起こったのか確かめるため、自分の着ていた服の中からするりと抜け出すと、姿見の前へ歩いた。
――ディライラ……!?
鏡に映った三毛猫の姿に余は息をのんだ。余の姿は、彼女そっくりの美しいお猫様になっていたのだ!! これは素晴らしい! 人間には飽き飽きしていたところだ。猫なら気ままに生きられる。
しかも愛するディライラと結婚できるかも知れない。余は心を躍らせて、お気に入りのキャットタワーで寝ているディライラのもとへ走った。
「にゃにゃ、にゃにゃにゃ」
(ディライラ。余が分かるかい?)
人間の言葉を話しているのに、すべてニャになってしまう。でも猫同士、ディライラには通じるはず。しかし――
「シャーッ」
ディライラはキャットタワーの上から余を威嚇した。耳はイカ耳になり、全身の毛が逆立っている。
そんな―― ディライラと心が通じないなんて……!
そのとき部屋の扉がノックされた。
「にゃ」
(入れ)
いかん。人間の言葉がしゃべれない。
「ミケーレ殿下、いらっしゃらないのですか?」
侍従がゆっくりと扉を開け、すき間から室内をのぞいている。
「あれ? 殿下、あんなところにお召し物を脱ぎ捨てられて――」
ぶつぶつ言いながら余の服をたたみ始める侍従の足元へ、余はすり寄ってみる。
「みゃあ、にゃーお?」
(余だ。分からぬか?)
侍従が見上げる余に視線を落とした。
「ディライラ様?」
しかしキャットタワーの上で毛づくろいする本物と見比べて、
「ああ、金箔の首輪をしていらっしゃるから、あっちがディライラ様だな。まったくディライラ様、野良猫を連れ込んではだめですよ」
使用人は腰をかがめると、余の首根っこをつかんだ。
「にゃーっ!」
(何をする、無礼者め!)
驚くことに使用人は窓から余を放り投げた! 余の小さな身体は風に乗り、庭園の大きな木の上に乗っかった。と思ったら枝をすべって通りのほうへ――
――落ちる!
王宮の正門から出た馬車がこちらへ向かってくるのが見えて、余は思わず恐怖に目をつぶった。
余は物心ついたときから、この国の王となるべく育てられた。
「明日は母上に会える?」
幼いころ余はよく侍従に訊いていた。侍従は無表情のまま、
「お会いになれません」
と答える。
「明日の明日は?」
侍従が無言で首を振る。
「その次の明日は?」
「いつお会いになれるか決まっておりません」
昨日今日明日しか理解していなかったころ、毎日明日は母に会えるのではないかと期待していた記憶がうっすらと残っている。そのうち分別がついてきて、余はあきらめたのだ。
身の回りの世話は乳母や侍従がしてくれたから、何不自由なく暮らしているはずだった。自分でも何が不足しているのか、不満なのか分からなかった。寂しいという言葉さえ浮かばなかったが、弟カルロが生まれ、余と比べると幾分か自由に過ごしているのを見て、うらやましいとは感じた。
家臣たちはいつもうやうやしく頭を下げ、何を考えているか分からない。教育係は厳しく、法律の勉強に剣術、乗馬と休む間もなくしつけられた。心を許せる者は一人もいなかった。
王宮内の人間模様を観察するうちに、宰相や大臣たちが水面下で権力闘争を繰り広げていることに気が付いた。人間には表の顔と裏の顔があり、誰も信用できないことを学んだ。余の前で家来がこびへつらうのは魂胆があってのこと。友人役を演じる貴族令息たちも、道化でさえ本当のことは口にしない。
そんな殺伐とした生活の中で、余は三毛猫のディライラに出会った。余に愛情が育っていないと考えた教育係が、父に進言したらしい。
「ミケーレ殿下に動物を与えてはどうか」
と。小鳥や犬ではなく、なぜディライラが選ばれたのかは知らない。だが生まれて数ヶ月しか経たない彼女は母猫から引き離され、余のもとへ連れてこられたのだ。
初めて会った日、金色の檻の中にうずくまったディライラは、おびえた瞳で余を見上げた。彼女の美しい緑色の目は、シャンデリアの光を反射して時折金色に見えた。
どこかで見覚えがあるな――
それは何年も前、幼い日々に毎日鏡をはさんで相対していた子供の目だと気付いた。
「分かるよ。僕も両親の顔なんてめったに見られないから」
余が話しかけると、寂し気な目をした寄る辺ない彼女は、
「ニャ」
と返事をしてくれた。
ディライラと過ごすようになって初めて、今までの自分が孤独だったと知った。ディライラだけは本物の愛情を示してくれた。それは余がこの国の第一王子だからではない。ディライラはそんなこと気にしないのだ。
余が本を読んでいると決まって寄ってきて、足元にすりすりと首元をなすりつけてくる。
「ミャーオ」
かわいい声で余を呼びながら、ひらりとテーブルに飛び乗り、あろうことか余が読んでいる本の上にでんと座るのだ。
「遊んでほしいのか? 仕方ないな」
毎朝使用人が完璧に飾り付けてゆく花瓶から一本草を抜いてディライラの前で振ってやると、くるくる回ってジャンプして夢中になるくせに、しばらくするとふいっとどこかへ行ってしまう。
「え、もういいのか?」
余は拍子抜けして読書に戻るのだ。嫌なときは嫌、飽きたら寝るのがディライラだ。裏表のまったく無い気ままな彼女がいとおしかった。
いつの間にか余の知らないところで婚約が決まったが、人間の女を愛するつもりなどなかった。どうせ偽物の笑顔を向けるだけだ。余はディライラだけを愛して生きて行くのだ。彼女は決して嘘をつかないから――
ある日、婚約者が手作りだとかいうクッキーを持ってきた。誰にでもへらへらとよく笑う女だ。何を考えているのかまったく分からないが、人間の頭の中になど興味はない。どうせどろどろとした欲望がつまっているだけだ。
ちっとも甘くないまずいクッキーを二、三枚食べたとき、余の視界が変わった。周囲の家具がぐんぐんと伸び、巨大になってゆく。ディライラと視線の高さが同じになって、自分の身体が小さくなったのだと気が付いた。急に小さくなった余に驚いて、ディライラは身をひるがえして逃げてしまった。
あの女め、余に何を食べさせたのだ!? やはりあの笑顔には裏があったか―― しかしあの毒見役には何も起こらなかったぞ?
我が身に何が起こったのか確かめるため、自分の着ていた服の中からするりと抜け出すと、姿見の前へ歩いた。
――ディライラ……!?
鏡に映った三毛猫の姿に余は息をのんだ。余の姿は、彼女そっくりの美しいお猫様になっていたのだ!! これは素晴らしい! 人間には飽き飽きしていたところだ。猫なら気ままに生きられる。
しかも愛するディライラと結婚できるかも知れない。余は心を躍らせて、お気に入りのキャットタワーで寝ているディライラのもとへ走った。
「にゃにゃ、にゃにゃにゃ」
(ディライラ。余が分かるかい?)
人間の言葉を話しているのに、すべてニャになってしまう。でも猫同士、ディライラには通じるはず。しかし――
「シャーッ」
ディライラはキャットタワーの上から余を威嚇した。耳はイカ耳になり、全身の毛が逆立っている。
そんな―― ディライラと心が通じないなんて……!
そのとき部屋の扉がノックされた。
「にゃ」
(入れ)
いかん。人間の言葉がしゃべれない。
「ミケーレ殿下、いらっしゃらないのですか?」
侍従がゆっくりと扉を開け、すき間から室内をのぞいている。
「あれ? 殿下、あんなところにお召し物を脱ぎ捨てられて――」
ぶつぶつ言いながら余の服をたたみ始める侍従の足元へ、余はすり寄ってみる。
「みゃあ、にゃーお?」
(余だ。分からぬか?)
侍従が見上げる余に視線を落とした。
「ディライラ様?」
しかしキャットタワーの上で毛づくろいする本物と見比べて、
「ああ、金箔の首輪をしていらっしゃるから、あっちがディライラ様だな。まったくディライラ様、野良猫を連れ込んではだめですよ」
使用人は腰をかがめると、余の首根っこをつかんだ。
「にゃーっ!」
(何をする、無礼者め!)
驚くことに使用人は窓から余を放り投げた! 余の小さな身体は風に乗り、庭園の大きな木の上に乗っかった。と思ったら枝をすべって通りのほうへ――
――落ちる!
王宮の正門から出た馬車がこちらへ向かってくるのが見えて、余は思わず恐怖に目をつぶった。