連れて行かれた先は敷地内の水車小屋だった。
こんな怪しい連中が王家の別荘敷地内に侵入しているのは大問題だ。だが魔法を使う連中に、常識的な警備が通用するとも思えない。離宮には、護衛の騎士や衛兵を連れて来てはいるものの、人数の少ない宮廷魔術師は父上と共に王都に残っている。この土地で魔女に狙われるのは厄介だ。
「お母様、『まやかしの粉』洗い流していいでしょう?」
家に入る前に、余をつかまえた藤色の髪の女が小川の前で立ち止まった。振り返った老婆がにらみつけて、
「誰が見ているか分からないんだ。そのままにしておきなさい」
「嫌よ! 仮にも婚約者だったカルロ様の前で、こんなみっともないオバサンの姿をしているなんて!」
カルロの婚約者だっただと!?
「馬鹿! 第二王子の名前を出すんじゃないよ!」
老婆は走り寄って娘の口をふさぐと、声をひそめて、
「ここは王家の敷地内なんだよ!? 王家の使用人がうろついているかも知れない」
「とにかく私は、若くて美しい姿に戻りますから!」
「懐中時計になったら、目も耳もついてないんだ。彼がお前の姿を認識するわけないだろう」
老婆の言葉が聞こえているのかいないのか、藤色の髪の中年女は小川の水を片手ですくって自分の頭にかけた。
「にゃおぅっ、にゃーっ! にゃん!」
(ぎゃっ、余にかけるな! 愚か者め!)
猫になったとたん水が不快になるのは不思議なものだが、人間が潜在的に暗い森を恐怖するように、水が恐ろしいものと感じられるのだ。愛しのロミルダがやわらかい胸に余を抱きながら丁寧に洗ってくれるなら我慢もしようが、網の中に放り込まれたまま水しぶきを浴びるなんて辛抱ならぬ!
「うるさい猫ねぇ。丸焼きにして食べてしまうわよ?」
恐ろしいことを言う中年女――ではない。小川の水で身を清めた彼女は、若い女の姿に変わっていた。この顔はカルロの婚約者だった魔女の娘ドラベッラではないか? 猫の視力はあまりよくないが、声から判断するに間違いないだろう。魔法薬で年齢を偽っていたのだ。
「にゃにゃー!」
(振り回すな!)
袋状にした網をぶんぶん振るドラベッラに抗議すると、
「うるさいって言ってるでしょ! いちいち鳴かないでよ」
なんという薄情な娘だ。猫の声はかわいいではないか! 余の小さな愛嬌ある鳴き声に愛情をかき立てられないなんて、この女、心というものがないのか!
「ドラベッラ、『まやかしの粉』を洗い流してしまったのかい? まったくどうしてお前は母の言うことが聞けないのだろうねえ……」
暗い室内に入ると、老婆がドラベッラを振り返ってため息をついた。なるほど、この老婆も魔法薬で年齢を変えてはいるが、魔女アルチーナ自身なのだな。
「お母様の言うこと聞いてるわよ? 魔笛を吹いて犬たちを操ったのも私だし。大体こんな汚らしい粉まみれの廃屋に、侯爵令嬢たる私が立っているだけで驚きだわ!」
「ここは廃屋などではないのよ、ドラベッラ。毎年秋には人が住むんだから」
「身分の低い者でしょう? 高貴な私のいるべき場所ではないの!」
ドラベッラの言葉には答えず、魔女はガラスの花瓶に懐中時計を入れると、胸元から鎖を出した。それを花瓶に巻きつけながら、ブツブツと呪文を唱えている。おそらく、宮廷魔術師たちが使う遠隔転移魔法に対抗するための結界なのだろう。
「第二王子が時計になってくれたのは助かったよ。運べないようなものに変身されたら困るからね」
「だってお母様、都合の悪いものにはならないように、魔法薬を作るとき呪文をかけていたじゃない」
「除外術式のことを言っているのかい?」
「…………」
沈黙するドラベッラ。この馬鹿娘、意味が分からぬのだろう! ハッハッハ! ……余はもちろん魔女ではないから意味不明だがな!
「『他の人間に姿を変える薬ではない』と否定構文を唱えながら作ったけれどね。変身後の大きさを指定するような構文は文献に見つからなかったのよ」
おそらく『他の人間に姿を変える薬である』という呪文なら古代から存在するのだろう。その言葉を否定文に変えることはできても、まったく新しい呪文を創り出すことはできぬというわけか。
勉強不足のいら立ちをぶつけるように、ドラベッラは網に捕らえられたふりをする余をにらみつけた。
「お母様、猫はどうするの? かまどにでもくべてしまう?」
あり得ん! ドラベッラは人間の皮をかぶった悪魔だな。余が人間に戻ったら、お前を暖炉に放り込んで火あぶりにしてやろう!
「殺してしまってはもったいない。薄汚い野良猫になって、一生さまよってもらうのさ。ひもじい思いをして路頭に迷う苦しみを味わわせてやる!」
老婆が黄色い歯を見せて笑い、麻袋を裂いた布に炭で魔法陣を描いた。
「だが今じゃない。王太子が湖で溺死したと判断されるまでは、おとなしくしていてもらおう」
言うなり余の入った網の上に魔法陣の書かれた麻の布をかけた。む……、小麦の匂いがするな。悪くない―― 布に覆われるとなぜだかとっても安心する。眠くなってきたぞ……
ハッ! すっかり寝落ちしていた。猫の身体はしょっちゅう眠くなるとはいえ、敵のアジトで丸くなって寝てしまうとは、なんたる不覚! 布をかぶせられてはいるが、辺りが暗くなったことは分かる。
神経を研ぎ澄まして聴覚に集中する。外から響く蛙の鳴き声に混じって、部屋の中で人間二人の寝息が聞こえる。そろそろ逃げ出す頃合いだ。
余は鋭い爪を出して網を簡単に破ると、魔法陣の描かれた布の下から這い出した。暗い室内を見上げると、木組みの棚の一番上に懐中時計の入った花瓶が置いてある。
上まで登って行って落とすか? 石の床に落とせば、花瓶は割れて中から時計が飛び出すはずだ。それをくわえて離宮まで帰ろう。
眠っている魔女親子は物音で目を覚ますだろうが、人間の目は暗闇では利かない。もたもたしているうちに、かわいい猫ちゃんである余はさっさと逃げおおせるのさ。
計画を立てると余はすぐに飛び上がり、棚の真ん中あたりの段に着地した。そこから足を踏ん張って、上の段へとよじ登る。猫は縦に伸びると意外と長いのだ。
ほどなくして棚の一番上に到着した。魔女親子のどちらかが、寝返りをうった気配がする。
余は片方の前脚を振り上げると、ガラスの花瓶に強烈な猫パンチをお見舞いした。
ガシャン、パリーン!
石床に落ちた花瓶が派手な音を立てて割れる。余はすぐに床へ下りた。
だが鎖でがんじがらめになった花瓶は割れても砕け散ることはなく、懐中時計は中に引っ掛かったまま。前脚で割れたガラスを取り除こうにも、猫の手はあまり器用ではない。大体余のかわいいピンクの肉球が傷付いたりしたら大変にゃ!
「なんの音!?」
ちっ。魔女アルチーナめ、目を覚ましたか。
跳ね起きた彼女は枕元の燭台に火を灯すと、靴も履かずにぺたぺたと冷たい石の床を走ってきた。
仕方ない。カルロ救出はあきらめよう。
「いまいましい猫め!」
アルチーナの怒声と同時に、反射的に身を低くした余の頭上を箒の先がかすめる。
かわいい余を箒で叩くだと!? 許せん!
「『他の生き物に姿を変える薬ではない』にしとかなきゃダメだったね!」
余は割れた花瓶をひらりと飛び越え、火の消えたかまどの上に飛び上がる。
「待てーっ!」
箒を振り回すアルチーナの頭上を飛んで、無骨な木のテーブルへ。水がめの上から、何が入っているか分からない樽へ飛び移ったとき、
「ぎゃぁぁぁっ!」
余を追いかけていたアルチーナが悲鳴を上げた。素足でガラスの破片を踏んだらしい。ご愁傷様。
うずくまる彼女の背中に飛び移り、その頭をジャンプ台にして、余は出口近くへ舞い降りる。鍵の掛かっていない木戸を肩で押し、すき間から外へ出た。
こんな怪しい連中が王家の別荘敷地内に侵入しているのは大問題だ。だが魔法を使う連中に、常識的な警備が通用するとも思えない。離宮には、護衛の騎士や衛兵を連れて来てはいるものの、人数の少ない宮廷魔術師は父上と共に王都に残っている。この土地で魔女に狙われるのは厄介だ。
「お母様、『まやかしの粉』洗い流していいでしょう?」
家に入る前に、余をつかまえた藤色の髪の女が小川の前で立ち止まった。振り返った老婆がにらみつけて、
「誰が見ているか分からないんだ。そのままにしておきなさい」
「嫌よ! 仮にも婚約者だったカルロ様の前で、こんなみっともないオバサンの姿をしているなんて!」
カルロの婚約者だっただと!?
「馬鹿! 第二王子の名前を出すんじゃないよ!」
老婆は走り寄って娘の口をふさぐと、声をひそめて、
「ここは王家の敷地内なんだよ!? 王家の使用人がうろついているかも知れない」
「とにかく私は、若くて美しい姿に戻りますから!」
「懐中時計になったら、目も耳もついてないんだ。彼がお前の姿を認識するわけないだろう」
老婆の言葉が聞こえているのかいないのか、藤色の髪の中年女は小川の水を片手ですくって自分の頭にかけた。
「にゃおぅっ、にゃーっ! にゃん!」
(ぎゃっ、余にかけるな! 愚か者め!)
猫になったとたん水が不快になるのは不思議なものだが、人間が潜在的に暗い森を恐怖するように、水が恐ろしいものと感じられるのだ。愛しのロミルダがやわらかい胸に余を抱きながら丁寧に洗ってくれるなら我慢もしようが、網の中に放り込まれたまま水しぶきを浴びるなんて辛抱ならぬ!
「うるさい猫ねぇ。丸焼きにして食べてしまうわよ?」
恐ろしいことを言う中年女――ではない。小川の水で身を清めた彼女は、若い女の姿に変わっていた。この顔はカルロの婚約者だった魔女の娘ドラベッラではないか? 猫の視力はあまりよくないが、声から判断するに間違いないだろう。魔法薬で年齢を偽っていたのだ。
「にゃにゃー!」
(振り回すな!)
袋状にした網をぶんぶん振るドラベッラに抗議すると、
「うるさいって言ってるでしょ! いちいち鳴かないでよ」
なんという薄情な娘だ。猫の声はかわいいではないか! 余の小さな愛嬌ある鳴き声に愛情をかき立てられないなんて、この女、心というものがないのか!
「ドラベッラ、『まやかしの粉』を洗い流してしまったのかい? まったくどうしてお前は母の言うことが聞けないのだろうねえ……」
暗い室内に入ると、老婆がドラベッラを振り返ってため息をついた。なるほど、この老婆も魔法薬で年齢を変えてはいるが、魔女アルチーナ自身なのだな。
「お母様の言うこと聞いてるわよ? 魔笛を吹いて犬たちを操ったのも私だし。大体こんな汚らしい粉まみれの廃屋に、侯爵令嬢たる私が立っているだけで驚きだわ!」
「ここは廃屋などではないのよ、ドラベッラ。毎年秋には人が住むんだから」
「身分の低い者でしょう? 高貴な私のいるべき場所ではないの!」
ドラベッラの言葉には答えず、魔女はガラスの花瓶に懐中時計を入れると、胸元から鎖を出した。それを花瓶に巻きつけながら、ブツブツと呪文を唱えている。おそらく、宮廷魔術師たちが使う遠隔転移魔法に対抗するための結界なのだろう。
「第二王子が時計になってくれたのは助かったよ。運べないようなものに変身されたら困るからね」
「だってお母様、都合の悪いものにはならないように、魔法薬を作るとき呪文をかけていたじゃない」
「除外術式のことを言っているのかい?」
「…………」
沈黙するドラベッラ。この馬鹿娘、意味が分からぬのだろう! ハッハッハ! ……余はもちろん魔女ではないから意味不明だがな!
「『他の人間に姿を変える薬ではない』と否定構文を唱えながら作ったけれどね。変身後の大きさを指定するような構文は文献に見つからなかったのよ」
おそらく『他の人間に姿を変える薬である』という呪文なら古代から存在するのだろう。その言葉を否定文に変えることはできても、まったく新しい呪文を創り出すことはできぬというわけか。
勉強不足のいら立ちをぶつけるように、ドラベッラは網に捕らえられたふりをする余をにらみつけた。
「お母様、猫はどうするの? かまどにでもくべてしまう?」
あり得ん! ドラベッラは人間の皮をかぶった悪魔だな。余が人間に戻ったら、お前を暖炉に放り込んで火あぶりにしてやろう!
「殺してしまってはもったいない。薄汚い野良猫になって、一生さまよってもらうのさ。ひもじい思いをして路頭に迷う苦しみを味わわせてやる!」
老婆が黄色い歯を見せて笑い、麻袋を裂いた布に炭で魔法陣を描いた。
「だが今じゃない。王太子が湖で溺死したと判断されるまでは、おとなしくしていてもらおう」
言うなり余の入った網の上に魔法陣の書かれた麻の布をかけた。む……、小麦の匂いがするな。悪くない―― 布に覆われるとなぜだかとっても安心する。眠くなってきたぞ……
ハッ! すっかり寝落ちしていた。猫の身体はしょっちゅう眠くなるとはいえ、敵のアジトで丸くなって寝てしまうとは、なんたる不覚! 布をかぶせられてはいるが、辺りが暗くなったことは分かる。
神経を研ぎ澄まして聴覚に集中する。外から響く蛙の鳴き声に混じって、部屋の中で人間二人の寝息が聞こえる。そろそろ逃げ出す頃合いだ。
余は鋭い爪を出して網を簡単に破ると、魔法陣の描かれた布の下から這い出した。暗い室内を見上げると、木組みの棚の一番上に懐中時計の入った花瓶が置いてある。
上まで登って行って落とすか? 石の床に落とせば、花瓶は割れて中から時計が飛び出すはずだ。それをくわえて離宮まで帰ろう。
眠っている魔女親子は物音で目を覚ますだろうが、人間の目は暗闇では利かない。もたもたしているうちに、かわいい猫ちゃんである余はさっさと逃げおおせるのさ。
計画を立てると余はすぐに飛び上がり、棚の真ん中あたりの段に着地した。そこから足を踏ん張って、上の段へとよじ登る。猫は縦に伸びると意外と長いのだ。
ほどなくして棚の一番上に到着した。魔女親子のどちらかが、寝返りをうった気配がする。
余は片方の前脚を振り上げると、ガラスの花瓶に強烈な猫パンチをお見舞いした。
ガシャン、パリーン!
石床に落ちた花瓶が派手な音を立てて割れる。余はすぐに床へ下りた。
だが鎖でがんじがらめになった花瓶は割れても砕け散ることはなく、懐中時計は中に引っ掛かったまま。前脚で割れたガラスを取り除こうにも、猫の手はあまり器用ではない。大体余のかわいいピンクの肉球が傷付いたりしたら大変にゃ!
「なんの音!?」
ちっ。魔女アルチーナめ、目を覚ましたか。
跳ね起きた彼女は枕元の燭台に火を灯すと、靴も履かずにぺたぺたと冷たい石の床を走ってきた。
仕方ない。カルロ救出はあきらめよう。
「いまいましい猫め!」
アルチーナの怒声と同時に、反射的に身を低くした余の頭上を箒の先がかすめる。
かわいい余を箒で叩くだと!? 許せん!
「『他の生き物に姿を変える薬ではない』にしとかなきゃダメだったね!」
余は割れた花瓶をひらりと飛び越え、火の消えたかまどの上に飛び上がる。
「待てーっ!」
箒を振り回すアルチーナの頭上を飛んで、無骨な木のテーブルへ。水がめの上から、何が入っているか分からない樽へ飛び移ったとき、
「ぎゃぁぁぁっ!」
余を追いかけていたアルチーナが悲鳴を上げた。素足でガラスの破片を踏んだらしい。ご愁傷様。
うずくまる彼女の背中に飛び移り、その頭をジャンプ台にして、余は出口近くへ舞い降りる。鍵の掛かっていない木戸を肩で押し、すき間から外へ出た。