国王の執務室――

 高い天井からはシャンデリアが下がっているが、立ち並ぶロウソクの火は消えている。代わりに開け放った窓から、午後の日差しと乾いた風がすべりこんでくる。

「先王陛下は――」

 前宰相であるブラーニ老侯爵は言いよどんだ。

 大きな執務机に両腕を置いた国王が、

「複数の愛妾と関係を持っていたのだな?」

 助け舟を出した。老侯爵はわずかに安堵して、

「はい。しかし先王陛下は生まれながらの狩人でして、難関不落の高級娼婦(クルチザンヌ)を我が物にするのが悦びなのです。手に入れて離宮に住まわせると、すぅっと熱が引くように冷めていかれ、次の獲物を見つけられる」

 いったん国王のお手付きになった娼婦は、(たまわ)った高額な贈り物を売って大金を手に故郷へ帰る者もいれば、その後も貴族相手に仕事を続ける者もいた。

「庶子が生まれたこともあったと――?」

 国王の問いにブラーニ老侯爵はうなずいた。男子の場合、跡継ぎのいない貴族に引き取らせたり貴族令嬢に嫁がせたりした。女子の場合は母親が娘を教育し高級娼婦に育て上げることもあれば、先王陛下が寄付金を持たせて修道院へ送ることもあったようだ。

「しかし―― 三十年前に病が大流行したのを覚えておいでですか」

「もちろんだとも。余も兄を二人失った」

 どこか遠くを見つめる国王は、若き日を思い出しているのだろうか。 

「おいたわしいことでございます」

 老侯爵は目を伏せた。

 ロミルダはもちろん三十年前にはまだ生まれていないから、王国がどれほど危機的状況にあったのか伝聞でしか知らない。幼いころから中年の使用人が、あばた面を指さしながら「これは病を生き延びた勲章さ!」なんて言うのを聞いて来たが、それゆえに嫁ぎ先がなくずっと侯爵邸で働いているのも知っていた。王妃教育を受ける中で、農村部での被害が特に甚大で、王国の税収は半減したと学んだ。

「お世継ぎを亡くされ先王陛下は大変悲しみ、喪に服しておられた。そこに一人の娼婦が現れ、今更のように娘を認知して欲しいと申し出たのです。もはや愛人を囲う金も、修道院へ寄付する金もない国王が私に命じたこと――」

 老侯爵の顔が歪んだ。

「毎日王宮に強請(ゆす)りに現れる元娼婦を消せとのご命令でした。私はなんとか予算をやりくりし、信頼できる侍従に命じたのです。暗殺者を雇い、その女を消すことを」

「娘さんの方はどうなったのですか?」

 ロミルダは思わず身を乗り出して尋ねた。

「娘について陛下は何も仰せではなかった。あの荒廃した王都で幼子(おさなご)が一人で生きていけるはずもない。だから私は、娘まで殺せとは命じなかったのです」

「その娘が――」

 ミケーレ王太子が冷たい緑の光を放つ瞳で、高い天井をにらんだ。

「――魔女アルチーナか」 

 両肘を執務机に乗せた国王は苦いため息をつき、両手をあごの下で組んだ。

「逃がしてしまったのは厄介だな。騎士団の連中には早急に捕らえてもらわねば」

「転移魔法を使うことはないそうですから、じきに見つかるでしょう」

 ミケーレの言葉を受けてモンターニャ侯爵が、

「それでしたら陛下、今年は例年より早めに湖畔の離宮へおいでになってはいかがでしょう? 街道沿いの宿場町に見張りを置けば、魔女は移動できません。王都にいらっしゃるより安全かと」

「うむ、確かにそうだな。余はまだ少し仕事が残っておる。先に妻と共にミケーレとカルロを旅立たせるか」

「それですが父上!」

 ミケーレが突然、椅子から立ち上がった。彼のひざで居眠りしていた三毛猫ディライラは、跳ね起きて執務机の下に走って行った。

「今年は魔女騒動のねぎらいのために、モンターニャ侯爵家の方々も招待してはいかがでしょう?」

 モンターニャ侯爵が薄くなりかけた髪を撫でつけながら、

「いや、私は仕事が――」

 と言いかけたのを、ミケーレはいかにも興味なさそうにさえぎって、

「ロミルダ、そなたはどうなのだ?」

「えっ」

 話を振られると予想していなかったロミルダは少し戸惑いつつ、

「わたくしの勉強はどこでもできますわ。それから趣味の読書も」

 と、ほほ笑んだ。

「離宮へは読書と勉強をしに行くのではないのだぞ? 余と親睦を深めるのだ!」

 やる気みなぎるミケーレ殿下に圧倒されながら、ロミルダは心の中で叫んでいた。

(やっぱりミケーレ様、昨日の夜から変よ! 以前はあんなにクールだったのに!!)

「張り切って婚約者と親睦を深めるのはよろしいかと存じますが」

 ブラーニ老侯爵が水を差した。

「不吉な事件が続いていますゆえ、出立(しゅったつ)の日取りについて宮廷占星術師に相談してはいかがでしょうかな?」

「それがよい」

 国王もうなずいた。二人でこれから占星術師の部屋へ行ってきなさい」

 というわけでロミルダはミケーレ殿下に案内されて、宮廷占星術師の部屋がある最上階に上がった。宮殿の最上階は天井が低いため、夏が近い今の時期はむっとする。だが鎧戸をほとんど閉めた占星術師の部屋はうす暗く、むしろひんやりとしていた。

 部屋の壁を埋め尽くす書物が物珍しくて、ロミルダはついきょろきょろと見回した。窓を背に座った占星術師は、

「ミケーレ殿下の誕生年月日と時間は……」

 ぶつぶつとつぶやきながら、真鍮製の天体計測盤(アストロラーベ)を操作する。羽ペンで綿紙(コットンペーパー)に複雑な計算式を書き込んでいたが、ややあって顔を上げた。

「天空の土星が、殿下の出生図の太陽に厳しい角度を取っております。土星から何らかの試練が与えられるでしょう」

「出発日をずらせばよいのか?」

 机の前で仁王立ちになったミケーレは、腕組みして占星術師を見下ろす。

「いいえ。土星はゆっくり進行する天体ですので、待っていたら夏が終わってしまいますよ」

「ではどうすればよいのだ?」

 声に苛立ちが混じる。だが占星術師はまったく表情を変えずに、

「用心深くお過ごしなさい。必要な試練なら避けられぬでしょうが、乗り越えた先には恩恵が与えられましょう」

「フン。ふわっとしたことを言いやがって。どんな試練かまるで分からぬではないか」

 ロミルダを促し部屋から出ようとしたミケーレの背中に、占星術師が声をかけた。

「今日は、ディライラ様はご一緒ではないのですね」

「彼女はお(ねむ)だったからな。今は余の部屋で休んでいる」

(お(ねむ)ですって! ミケーレ様ったらかわいい!)

 ロミルダはにんまりしたいのを何とかこらえた。

「現在水瓶座を運行している土星が、獅子座を逆行中の水星と(しょう)となります。獅子は猫科ですから、猫に関することで何か混乱が生じなければ良いのですが」

 愛猫の話を持ち出されて、ミケーレは足を止めた。

「ディライラの身に何かあるとでも?」

「現在逆行中の天体は水星ともう一つ、火星があります。火星は人と獣が結合したサインである射手座を逆行しています。ディライラ様の身に危険が迫るというより、人とひっくり返る? 入れ替わる?」

 一瞬、ミケーレの顔が青ざめた。だが占星術師は気付かず、すぐに首を振った。

「いやまさか。戯言(ざれごと)を失礼しました」