兵士たちの猛(たけ)々(だけ)しい声によって、くじけかけていた村人たちの胸に希望の火が灯る。
村を去り、国境へ向かう隊列を、少年と村人たちは祈るような気持ちで見送った。
§
白い雲が、青く澄んだ空をぷかぷかと泳いでいる。
鳥たちは木々の合間で愛の歌を歌い、蝶は花から花へと蜜を求めて飛び移る、そんなうららからな春のある日。
(ああ、今日もいいお天気です ね……。絶好の畑仕事日和です)
暖かな日差しが降り注ぐ中、クラリスはスコップを携え、勢いよく畑の土を掘り起こしていた。
「せーのっ!」
土が巻き上げられ、埋もれていた茎が地表に姿を現す。
すると傍らにいた老下女のマーサが、これまた威勢のいい声を上げてすかさず茎を引っ張った。
「あ、どっこいしょぉ!」
ごろごろと大ぶりのジャガイモが茎に連なって出てきた。
立派なジャガイモを前に、クラリスはスミレ色の瞳をきらきらと輝かせながら、十八歳の娘らしく大はしゃぎする。
「ばあや、見てください! 立派なお芋ですわ! 去年のより大きいかもしれません!」
粗末なワンピースと土で汚れたエプロン、黒い髪をすっぽり覆い隠す頭巾という出で立ちだけ見れば、誰もが彼女を農家の娘と思っただろう。
実際、軍手を着けた手でジャガイモの泥を払う様子は、いかにも手慣れている。
しかし見る人が見れば、言葉使いや仕草の端々から、粗末な服装では隠しきれない品のよさが滲(にじ)み出ていることに気づくはずだ。
「ま、本当に立派に育って。お昼はお芋のグラタンでも作りましょうかねぇ」
「それなら、わたくしはスープを作りますね。ばあやほど美味(おい)しくは作れないかもしれないけれど……」
今日収獲した野菜は、アスパラガスにセロリ、ジャガイモにキャベツ。屋敷の裏庭につくった小さな家庭菜園ではあるが、農家出身であるマーサの指導のもと、クラリスも一生懸命育てた野菜だ。さぞかし楽しい食卓になることだろう。
収獲したばかりのジャガイモを籠に放り込んだ時、飛んできた小鳥たちがクラリスの頭や肩に止まった。
「まあ、いらっしゃい!」
つぶらな黒い瞳に、ふわふわの白い羽毛を持つ小さな生き物を前に、クラリスは声を弾ませた。
「今、ごはんをあげますからね」
慣れた手つきで小鳥たちに呼びかけたクラリスは、エプロンのポケットから麦を取り出し、手のひらにのせる。
すると小鳥たちは、警戒する様子もなくクラリスの手から麦を食べ始めた。
「ふふ、美味しいですか? いっぱい食べてくださいね」
小さなくちばしで餌をついばむ姿に、自然と笑みがこぼれる。
畑にやってきた小鳥に余った穀物類を与えているうちに、こうしてたくさんの小鳥がクラリスのもとに集まるようになったのだ。
動物を飼うことは固く禁止されているけれど、鳥たちが飛んでくることまで禁じることはできない。
「本当に、姫さまは動物がお好きでございますね」
「ええ! だって、とっても可愛(かわい)らしいんですもの。できれば、もっと大きな動物もモフモフしたいのですけれど」
小鳥の頭を指先で優しく撫でる。そんなクラリスを見るマーサの目には、どこか気の毒そうな色が浮かんでいた。
「お優しくて、気立てがよくて……。本当なら姫さまこそが、この国の王位継承者でしたのに」
先ほどからマーサが『姫さま』と呼んでいるとおり、クラリスはやんごとなき身分の姫君──それも、ここレビオン王国の王女だった。
──しかし、それも過去のこと。
今のクラリスは王女としての身分を失い、古びた屋敷に半ば幽閉される形で、なんとか生かされているという状況だ。
発端は十五年前、レビオン王国をある悲劇が襲ったことだ。
かねてより王の座に執着していた王弟──つまりクラリスの叔(お)父(じ)が、国王と王妃を殺し、王位を簒(さん)奪(だつ)したのだ。
両親の死は表向きには急な病死という形で処理され、叔父を疑った人々は次々と怪死を遂げた。
唯一、幼かったクラリスだけは見逃され、その身分を公女に落とされた。
公女といっても名ばかりで、実態は酷(ひど)いものだった。
叔父はクラリスの持ち物をすべて取り上げ、侍女たちも解雇した。そして住み慣れた王宮を追い出し、たったひとりの老下女──つまりマーサと共に、敷地の片隅に建つ古びた屋敷に押し込めたのだ。
屋敷は四方を高い壁で囲まれ、唯一の門は外からでないと鍵が開錠できない、実質牢(ろう)獄(ごく)のような造りである。
食料は一週間に一度、最低限の物しか与えられず、衣服も季節ごとの節目に、粗末な布地が届くばかりだ。毎朝神官が祈(き)祷(とう)のためにやってきてはくれるものの、クラリスが正式な礼拝に参加したことは一度もない。
それでも、クラリスはこの生活に満足していた。自分の育てた野菜が大きく育つのを見るのは楽しかったし、マーサは畑のことならなんでも知っているので心強い。そして、可愛い小鳥たちとも触れ合える。
何よりクラリスは、王宮で暮らした三年間のことなんてほとんど覚えていない。薄情と言われるかもしれないが、もう両親の顔も思い出せないのだ。
「わたくし、今のままでも十分満ち足りていますわ」
励ますように笑うと、マーサが目を潤ませながら、悔しげに唇を噛(か)む。
「そうはおっしゃっても、このばあや、悔しゅうございます。あの簒奪者めが、自分たちばかり贅沢をし、姫さまにこんな貧しい生活をさせるなんて……」
放っておくと、いつまでもクラリスの不遇を嘆き続ける。それがマーサの癖だ。
「滅多なことを言うものではありませんわ。もし叔父さまの耳に入ったら、ばあやがどんな目に遭うかもわかりませんもの」
はっとしたようにマーサが口を噤(つぐ)む。己の迂(う)闊(かつ)な発言を恥じているような表情だった。
「申し訳ございません。軽率なことを……」
「いいえ、いいのですよ。むしろばあやには不便な生活を強いてしまって、申し訳なく思っています」
「なんの、姫さまにお仕えできるだけで、ばあやは幸せなのですよ」
目を潤ませたマーサは、気を取り直したように明るい表情を浮かべた。
「私は先にお屋敷に戻って、お食事の準備をしてまいりますね」
「ありがとう。わたくしもすぐに戻ります」
野菜が大量に入った籠をひょい、と背負い、マーサが屋敷のほうへ歩いていく。もう六十代だというのに、なんて力持ちなのだろう。
「ばあやに比べたら、わたくしもまだまだですわね……」
まくった袖から覗(のぞ)く、自身のひょろひょろとした二の腕を凝視しながら、ふぅとため息をつく。日々の畑仕事でそれなりに力はついたと思っていたが、逞(たくま)しいマーサの腕と比べればまだまだだ。
マーサはいつも「姫さまは筋肉なんてつけなくともいいんですよ」と言う。そもそも家庭菜園の手伝いも、クラリスが無理を言って始めたことだ。
しかし、筋肉はあればあるだけ生活の助けになるのだから、それでいいではないかとクラリスは思っている。
「やはり筋力をつけるにはお肉でしょうか。そうですわ、まだ食料庫に塩漬けの豚肉も残っていたはず……! 明日は週に一度の食料配給日ですし、今日の晩ご飯で使いきってしまいましょう」
小鳥たちが飛び立った後、倉庫にスコップや他の農具やらをしまいながら、クラリスはほくほくと今晩の献立について思いを馳(は)せる。ついでに足下に咲いていた野花をいくつか摘み、食卓の花瓶に飾ろうと考えた。
(ばあやは黄色が好きですから、黄色いお花を中心に選ぼうかしら)
しゃがみながら、花を選別する。白やピンク色の花も添え、春らしい彩りでまとめた。
ささやかな花束だが、マーサはきっと喜んでくれるだろう。
「うん、我ながらいい感じですね」
──ガチャガチャッ。
門のほうから金属の擦れるような音が聞こえてきたのは、花を摘み終え、屋敷に戻るため踵(きびす)を返したその時だった。
鍵を開ける音だ、と瞬時に理解する。この屋敷の門は、外からしか鍵が開かないようになっているのだ。
(どなたかしら……今日は来客の予定はなかったはずだけれど)
不審に思いながらも門のほうへ向かったクラリスは、どかどかと敷地内に踏み入る数名の男たちと出くわした。
(兵士さんと──神官さま……?)
男たちの出で立ちからそう判断し、戸惑いながら声をかけようとした、その瞬間。
「──────!」
神官のうちのひとりが、何か呪文のような言葉を口にしながらクラリスに向かって杖の先端を突きつける。
(神聖魔法……!)
まずい、と咄(とっ)嗟(さ)に背を向けようとした時にはもう遅かった。たとえ背を向けたところで、神官の放つ魔法から逃れることはできなかっただろうけれど。
杖の先から放たれた光が無抵抗な少女を包む。にわかに視界が歪(ゆが)み、身体が大きく傾くのが自分でもわかった。
(倒れる──……)
遠ざかる意識の中で、力の抜けた手のひらからパラパラと、摘んだばかりの花がこぼれていく。兵士たちが容赦なく、その花をぐしゃぐしゃに踏みつけるのが見えた。
(ああっ、せっかくばあやのために摘んだお花ですのに……)
どう考えても、そんなことを考えている場合ではないのだが、世間擦れしているクラリスに普通の反応を求めるほうが酷というものだろう。
(綺(き)麗(れい)に咲いていたのに……ごめんなさい……)
潰れた花を惜しむクラリスの耳に、兵士たちの会話が飛び込んでくる。
「しかし、陛下も酷なことをなさる」
「まさか、この娘を身代わり花嫁に仕立てようとは」
「しかも行き先はあの野蛮なダルア王国。命はあるまい」
(身代わり花嫁……? ダルア……? って、あの獣人の国のことでしょうか……?)
彼らが一体何を言っているのか、クラリスは理解できなかった。
問いかけようにも、身体中が痺(しび)れて声が出ない。
やがて瞼(まぶた)が落ち、兵士たちの声が遠のいていく。そのまま、クラリスは完全に意識を手放したのだった。