階段に座ったまま、手をうしろにつく。
迫る彼に頬を赤くして、身を引こうとしても、段差が腰に当たって自由に動けない。
「なぁ、好きだって何回も言ったよな?それでも俺のところに来るのは、なにされてもいいっていう意味にしかとれねぇぞ?」
「ひゃっ…わ、わたしはそんなつもりはっ、全然なくて…っ!」
ただ最近、あなたを見かけないから、ここに来たら会えるかなって思っただけなのに…っ。
黒い髪が垂れて、目の横にかかる。
瞳を細めてわたしを見つめる姿は、国宝級の美しさ。
今でも信じられない。
みんなにモテモテの彼が、わたしを好いてくれているなんて。
「キスくらい、してもいいか?」
「だっ、ダメだよっ…!」
現実逃避してる場合じゃなかった…!
この状況…ど、どうにかしないと…っ。
視線を下げれば、白いYシャツに包まれた胸板が目の前にあって、紺色のネクタイが…あぁ、どうしてゆるめるの…っ!
「あ、あのっ、気持ちはうれしいんだけど、わたしまだっ…」
「“まだ”ってことは、可能性あるんだよな?いま、落ちろ。そんなかわいい顔見て我慢なんて、俺、できねぇし」
「えぇぇ…っ!」
そ、それは凡人のわたしがイケメンさんに落ちるのなんて、確定事項かもしれないけど…っ。
キスは好きな人としたい…っ!
「俺じゃダメか?」
頬を撫でられる。
横の髪を梳くように、指を通されて…。
わたしを見つめる瞳が、悲し気なものに変わった。
「うぅ…っ」
「大切にする。他の女も見ない」
迫ってくる顔に慌てふためいて、ぎゅっと目をつむると、まぶたに温かいものが触れる。
それが離れていったあとにうすく目を開けると、赤い唇が目に入って。
キス、された…っ?
「この瞳だけを、ずっと見つめる」
「っ…!」
彼が少し身を引くと、熱を持った瞳とちょうど視線が合う高さになった。
甘く、とろけてしまいそう。
そんな目で、見つめないで…っ。
「俺が見ていたいのも、話していたいのも、触れたいのも、手を繋ぎたいのも」
「ひぁ…っ」
「…キスしたいのも。お前だけだ」
背けた顔を前に戻されて、目元をほんのり赤く染めた彼と、強制的に見つめ合わされる。
頬からあごに滑り下りた指が、その先端をくい、と持ち上げた。
あぁ…。
ドキドキなんて言葉では、足りない。
甘い拍動が全身に広がる。
まぶたを下ろした彼を見て、目をつむりながら唇に神経を集中させてしまったわたしは、もうすっかり…。
落とされてしまったのかもしれない。
chu♪
fin.
「…さま…おじょう…」
んん…。
まぶしい…。
自然と眉根が寄る。
顔を右に背けるとだいぶ寝やすくなった。
「お嬢様、朝ですよ」
「ん…?」
誰だろう、この声…。
やわらかくて、聴き心地がいい…。
するりと頬を撫でられる感触がする。
「ふふ…そんなに心地いい夢を見ていらっしゃるんですか?こちらでも相応の環境を整えなければなりませんね」
「んぅ…」
「お嬢様は紅茶がお好きだと伺いました。角砂糖を2つ、ミルクも入れましょう」
紅茶…。
甘く、まろやかに…?
「フリルのついた、ライトイエローのワンピースをお召しになるのはいかがですか?」
それは、わたしのお気に入りの服…。
左の方で、髪を持ち上げられる感触がした。
「髪はハーフツインテールに。ピンクのリボンで結びましょう」
可愛い…。
それは絶対に可愛い…!
「そうそう、今日の朝食はフレンチトーストだそうですよ」
えっ、なんて素敵な日なの…!?
「ふふ…さぁ、お嬢様。お目覚めの時間ですよ」
そっとかけ布団がめくられる。
わたしはゆっくりとまぶたを持ち上げて、一度まばたきをした。
「あなたは…誰…?」
ベッドカーテンを開けて、背中に日差しを受けながら私を見下ろしていたのは、執事服を着た男の人。
左の髪を耳にかけて、長い前髪を右に流したその人は、にこりと微笑んでお辞儀した。
「槙野紳二と申します。本日付けでお嬢様の専属執事となりました。これからよろしくお願い致しますね」
「槙野…」
わたしに、専属の執事が?
「はい。…主人に仕えることができる日を心待ちにしていました。僕のお嬢様…」
槙野はかがんでわたしの手を取ると、ちゅっと甲にキスをした。
びっくりして体を起こせば、パッチリとした瞳を垂れ目と見紛うほどにやわらかく細めて、ひざまずいたままわたしを見上げる。
「精一杯ご奉仕致します。なんでもご下命くださいね」
どきん、と胸が高鳴る。
頬にじゅわりと熱が滲むのを感じた。
「おや…お顔が赤いですね。失礼致します」
「え…?あ、待っ…!」
立ち上がった槙野は、シーツに手をついて、こつんと額を重ね合わせた。
伏せられた目の下で、長いまつ毛がきれいにカールしていて。
「ふむ…やはり熱があるご様子。医者を呼んで参りましょう」
「わぁ、違うの!これは熱とかじゃなくて…っ!」
槙野にドキッとしただけなのに、先生まで呼ばれたら恥ずかしい!
そう思って必死に止めると、離れた槙野はわたしを観察するように見つめて、不意に微笑んだ。
「なるほど。では、“私”にときめいて?光栄です」
「!!」
「ですが、財閥の令嬢たるもの、そう簡単に本音を明かしてはいけませんよ。駆け引きのテクニックをお教えしなければなりませんね」
白い手袋に包まれた手が伸びてきて、わたしの両頬を包み込む。
近づいてくる槙野の顔に体温が上がって、ぎゅっと目をつむり顔をそらすと、「目をそらしてはいけません」とささやく声がした。
「お嬢様、私の顔を見てください。これから毎日を共にする顔です。決して目をそらさず、じっと見つめてください」
「っ…槙、野…」
「はい、お嬢様。そんなにかわいらしく頬を染めてはいけませんよ」
「む、無理よぉ…っ」
見れば見るほど、かっこいい顔。
ドキドキしすぎて目のやり場に困るのなんて初めて。
槙野が微笑んで目を伏せるから、わたしは恋人同士のキスを思い浮かべてしまって、とっさに顔を背ける。
初めてだもの…っ。
でも、訪れたのは、頬から温もりが離れる感触と、背中とひざ下が圧迫される感触。
気づいたら、わたしの体はふわりと浮いていた。
「お世話する度にそう赤面されては、私も変な気を起こしてしまいますので。私に慣れてくださいね、お嬢様」
「へ、変な気って…!」
「お嬢様は魅力的なレディですから。主人でなければ、口説いていました」
右目をつむってウィンクする槙野に、ばくばくと鼓動が速くなる。
「ふふ、いけませんよ、お嬢様。この程度、笑ってかわさなくては」
きれいに微笑む槙野を見て、そんなの無理に決まってるでしょう、と心の中で叫び返した。
この執事はわたしの心臓に、とても悪い気がする…っ。
fin.