ガイドブックの案内に従って、スパークリングカクテルを売っているワゴンやカフェを梯子して回り。
ついに、3軒目のカフェにやってきたその時。
「…あっ!」
見覚えのあるカチューシャと、見覚えのあるぬいぐるみを抱き。
二人分のドリンクのカップを持って、てくてくと歩く見覚えのある間抜け顔を見つけた。
「…寿々花さん!」
「…ほぇ?」
人混みで見失わないよう、俺は大きな声を出して寿々花さんを呼んだ。
周囲のお客さんが何人か、びっくりして何事かと振り向いていた。
済みません、大声出して。つい。
人混みを掻き分け掻き分け、寿々花さんのもとに駆けた。
見間違いだったら赤っ恥も良いところだが、それは間違いなく、寿々花さんだった。
「…今、悠理君の声が聞こえたような…?…空耳?」
空耳じゃねぇっての。
「俺だよ、馬鹿」
「ふわぁ。びっくりした」
寿々花さんの肩をポンと叩くと、寿々花さんはびくっ、としてこちらを振り向いた。
…良かった。変な奴に絡まれてる、とかじゃなくて。
何処も怪我してないよな。大丈夫だよな?
「…?悠理君、何でここにいるの?座って待ってるんじゃなかったの?」
…この野郎。
それはこっちの台詞だっての。
「あんたがなかなか戻らないから、心配して探しに来たんだろうが」
「えっ」
「散々探し回ったぞ。全く…」
腕時計を確認してみると、寿々花さんとベンチで別れてから、丁度一時間が経過していた。
はぐれていたのは一時間だが、俺の体感的にはもう、三時間以上経ってるような気がする。
ガイドブック片手に、あちこち駆け回っていたからな。
「一体、こんなところで何やってるんだ?」
「飲み物買いに来たの」
「こんなところにまで?」
「うん。さっき近いって言ってたお店は、青いジュースしか売ってないって言うから。私、緑のジュースが欲しかったの」
やっぱり、そういうことだったのか。
目的のメニューを売っているお店を探して、こんなところまで…。
「それならそうと、ちゃんと伝えてから言ってくれよ…。なかなか戻ってこないから、心配して肝を冷やしたんだぞ」
「えっ…」
何だよ。えっ、って。
「勝手にどっか行くんじゃねぇよ。分かったか?」
「…悠理君、心配してくれてたの?」
はぁ…?
「当たり前だろ」
いきなりいなくなったらびっくりするし、心配するし、探しにも行くだろ。
「探してくれてたの?ずっと?…どうして?」
「どうして…って言われても…」
…探すだろ?普通。
同伴者がいなくなったら、寿々花さんじゃなくても探すだろ。
それに、俺は寿々花さんの世話係なのであって…。
寿々花さんの身の安全を保証する義務がある訳で…。
…。
…義務じゃなくても、探すけどな。
「いなくなったら探すだろ、普通。見つかるまで」
「…」
「だから、あんたも勝手にどっか行くなよ。探す手間が増えるだろ」
「…うん。ごめんね」
「…良いよ、もう」
無事に見つかったから、とやかく言うまい。
やれやれ、見つかって良かった。
「…はぁ…」
心底ホッとして、俺は安堵の溜め息をついた。
しかし寿々花さんは、俺が溜め息をつくのを見て。
「…怒ってる?悠理君、怒ってる?」
と、聞いてきた。
え?いや…。別に。
「怒ってないけど…」
今の溜め息は、寿々花さんを責めるつもりじゃなくて。
ホッと一安心した、安堵の溜め息だからさ。
怒っていると言うならむしろ、寿々花さんよりも自分に対して腹が立つ。
自分の迂闊さを反省しているところだよ。
短い間でも、この人混みで、寿々花さんと別行動なんかするんじゃなかった。
「怒ってない?」
「怒ってないよ。無事に見つかって良かった」
「そ、そっか…」
…寿々花さん。ちょっと焦ってる?
え、マジで?タワー・オブ・ハムスターですら、全くビビってもないし焦ってもいなかったのに。
こんなことで焦る?
「…」
寿々花さんはしばし、気まずそうに視線を彷徨わせ。
そして、はっと思い出したように、緑色のスパークリングカクテルを差し出した。
「そうだ、これ…。さっき、悠理君の分も買ってきたの。はい」
「あぁ。ありがとう…」
これが欲しかったんだよな。この緑色のカクテルが。
…メロンソーダ?
緑色の飲み物って言ったら、メロンソーダか青汁くらいしか出てこないけど…。
一口飲んでみたら、よく冷えていて、爽やかな甘みが口いっぱいに広がった。
疲れた身体に染み渡る。
寿々花さんが見つからなかったらどうしようって、焦ったよ。
この二日間、どのアトラクションに乗ったときよりも緊張した。
「…ねぇ、悠理君」
「どうした?」
寿々花さんは、叱られた子供のようにしおらしい顔をして。
「心配かけてごめんね」
と、謝ってきた。
…え。何それ。
そんな改まって言われると…反応に困るんだけど。
「いや、その…。俺の方こそ、目を離して…一人にさせてごめんな」
釣られて俺も謝ったが、寿々花さんは、ふるふる、と首を横に振った。
…なんか、しんみりした空気になったな。
「…もう良い。この話はやめにしよう」
見つかったんだから、それで良いんだよ。
迷子の子供を探すときだってそうだろ。探してるときは焦って、迂闊に目を離した自分に腹が立って。
でも、いざ見つかって再会して、相手の顔を見たら…一瞬にして、そんなのどうでも良くなる。
あぁ良かった、また会えて良かったって。頭の中はそれだけだろ?
そういうことだよ。
…しかし、ここで安心しきって、反省点を活かさないのは愚か者だからな。
「一応聞いておくんだが、寿々花さん。あんた…スマホの電話番号は?」
「…すまっほ?」
きょとん、と首を傾げる寿々花お嬢さん。
「携帯電話だよ」
「携帯?…持ってない」
「…」
やっぱり持ってないんだ。
…な?言わんこっちゃない。
今時、スマホどころか携帯電話すら持ってない女子高生がいたとは。
ますます、目を離す訳にはいかなくなったな。
二人で、スパークリングカクテルを飲み干してから。
「悠理君、帰る前にパレード見たい。パレード」
と、寿々花さんのおねだりである。
パレードか…。そういや、今日はまだ見てないな…。
「良いよ。見に行こうか」
「やったー。行こー」
すくっと立ち上がって、今にも駆け出しそうになった寿々花さんの肩を、ガシッと掴んで止めた。
「ちょっと待て」
「ふぇ?」
ふぇ、じゃないんだって。
この人混みだ。パレードが行われる広場周辺は、きっとこの場所よりずっと人口密度が高いはず。
何も対策せず向かったら、またはぐれてしまう可能性がある。
俺も、この人混みの中で寿々花さんを見失わない自信がない。
またはぐれて、寿々花さんを探し回ることになるかもしれない。
それだけは避けなくては。
そうならない為には…。
「…手を」
「手?」
「手を繋ぐんだよ。そうしたら、はぐれずに済むだろ」
「…」
ぽやーんとした表情で、寿々花さんは俺の顔を見つめていた。
…何だよ、その顔は。
俺、何か変なこと言ったか?
「どうした?何か問題があるか?」
「…問題…って言うか…」
「…言うか?」
「…ううん、ない。良いよ。手を繋いでいこう」
よし、それで良い。
さすがに手を繋いで歩けば、はぐれずに済むだろう。
手綱を握ったような気分。
「あ、でも…」
ぴた、と寿々花さんが制止した。
「どうした?」
「ハムトーニちゃん抱っこしてるから、手が埋まっちゃってる。どうしよう?」
…そういや、俺も片手にぬいぐるみ抱いてるんだった。
焦りまくってたから忘れてた。
もしかして俺、ぬいぐるみを抱いたまま園内を走り待ってたのか?
多分、すげー滑稽な姿だったろうなぁ…。
必死になり過ぎてて、全然そんなこと気づかなかった。
手を繋いで歩くなら、ぬいぐるみは邪魔だな。
「…仕方ない。ぬいぐるみ達には、カバンの中で我慢してもらおうぜ」
「そうだね。ごめんねハムトーニちゃん」
俺は、お土産袋の中にぬいぐるみをしまい。
寿々花さんも、カバンの中にハムトーニのぬいぐるみを入れた。
これで、お互い片手がフリーになったな。
「ほら、手」
「うん。行こー」
ぎゅっと手を繋いで、俺と寿々花さんはパレードの行われる広場に向かった。
寿々花さんの手はぽかぽかと温かくて、子供体温だなぁ、と思った。
案の定、広場は大勢の人がパレードを見物しに来ていて、凄まじい人混みだった。
手ぇ繋いできて良かった。
おまけに、寿々花さんは大はしゃぎで。
パレードの間中、着ぐるみ達にぶんぶんと手を振っていた。
繋いでない方の片手を。
あんまり勢いよく手を振るから、肘の先が取れるんじゃないか心配になるくらい。
楽しそうで何より。
今日は天気も良いし、絶好のパレード日和だったな。
そして。はぐれることなく、パレードが無事に終わった後。
「はー…。何だかいっぱいはしゃいだね」
「そうだな」
はしゃいでいたのは、主にあんただけだけどな。
「寿々花さん、そろそろ帰ろうか」
と、俺は言った。
そろそろ現実に帰る頃だ。
帰り道も、また電車を乗り継いで帰らなきゃいけないし。
忘れてるかもしれないけど、実は明日学校なんだぜ。
起きられるかなぁ…明日…。
「そっかー…。帰らなきゃいけない時間だね」
「名残惜しいけどな」
「でも、凄く楽しかった」
…そうか。
嬉しそうな顔して、そう言えるんだから。
奮発してチケットを送ってくれた椿姫お嬢さんも、満足していることだろう。
「また来ようね、悠理君。今度また来よう」
「はいはい、分かった」
「絶対だよ。絶対また来ようね。…来週来よう」
「…来週は早ぇだろ…」
また今度な。幸い、ハムスターリゾートは余程のことがない限り、なくなったりしないだろうから。
さすがに今度来るときは、優待チケットは買えないだろうなぁ。
今回は特別だよ。
でも、無月院家の財力なら…次もインチキ優待チケット、買おうと思えば買えるかも。
一回インチキチケットでインチキしたら、もう律儀に順番待ちなんかしていられないよな。
だって、見てみろよ。人気のアトラクション、軒並み180分待ちだってよ。
180分って、つまり三時間だろ?
俺が寿々花さんを探して、パーク内を駆けずり回っていたのも、精々一時間の出来事だったのに。
あれの三倍だと思うと、並ぶのに相当勇気が要る。
三時間並ぼうと思ってみ?地獄みたいに長いぞ。
しかし、それも含めてハムスターリゾートの醍醐味なのかね。
…それはともかく。
今日のところは、そろそろ撤収だ。
「さぁ、帰ろうか、寿々花さん。家に」
「うん、帰ろ」
パークから一歩でも出たら、もう手を繋いでいる必要はなかったのだが。
何だかんだ、家の玄関の扉を開ける時までずっと、握った手を離さないままだった。
一泊二日のハムスターリゾート旅行から帰った、翌日の朝。
俺はこの日、朝からとんでもないミスを犯した。
…と、いうのも。
「…」
目を覚まして、枕元の時計を見て、一瞬時が止まった。
寝惚け眼でぼんやりと時計を見つめ、そして我に返った。
「…やばっ!?」
恐れていたことが起きてしまった。
そう、寝坊である。
普段は目覚まし時計に頼らず、自力で起きていたものだから。
ついうっかり、目ざまし時計をセットして寝るのを忘れていた。
と言うか、昨日帰ってきて、荷物を片付けて洗濯をして。
ベッドに横になるなり、そのまま寝ちゃったんだよ。
スイートルームのふかふかベッドも良いけど、やっぱり自宅の、自分のベッドが一番快適だよなぁ…って。
そんなこと考えてたら、そのまま寝落ち。
俺はアホか。
昨日の夜、旅行の疲れで寝過ごしたら困るから、明日は目ざまし時計セットしておこうと思ってたのに。
案の定。案の定寝過ごしたぞ。
いつもは、朝にお弁当作ってるけど。
今日はとてもじゃないけど、そんな余裕はなかった。
申し訳ないが、寿々花さんには昼休み、カフェテリアを利用してもらうとして…。
つーか、寿々花さんは何やってんの?
もしかして、あの人もまだ寝てる?
飛び起きて、寿々花さんの寝室に駆け込むと。
案の定寿々花さんも、すやすやと夢の中だった。
「起きろ!寿々花さん、遅刻するぞ!」
「ん〜、むにゃむにゃ…。ハムスターが一匹、ハムスターが二匹〜…」
何の夢を見てるんだよ。
どうやら、まだ旅行気分が抜けてないようだな?
「ハムスターは良いから、起きろって!遅刻!」
俺は強引に寝袋を揺さぶって、寿々花さんを叩き起こしたのだった。
…何とか、遅刻はギリギリ免れたものの。
昼休み。
「あれっ。星見の兄さん、今日コンビニパン?珍しー」
「…まぁな…」
とてもじゃないけど、お弁当作ってる余裕なくてさ。
学校に来る途中のコンビニに駆け込んで、値段も種類も見ずに、手近にあったパンを掴んでレジに持っていったよ。
新校舎の方だったら、学校の中にベーカリーやカフェテリアがあるから、お弁当なくても困らないんだろうけど。
旧校舎だと、そうも行かないからなぁ。
「抹茶メロンパンに、抹茶クリームパン、抹茶チョココロネですか…。悠理さん、抹茶好きでしたっけ?」
乙無が、俺の買ってきたパンを見ながら聞いてきた。
「…別に、そういう訳じゃねぇよ」
これは事故だよ。
コンビニのパンコーナーで、偶然抹茶フェアをやってただけ。
種類を選んでる暇がなかったら、適当に選んだら全部抹茶味だった。
別に抹茶が好きって訳じゃないのに。
「いつもの手作り真心弁当はどうしたよ?」
「ちょっと…今日は寝坊して、弁当作ってる時間がなかったんだ」
お陰で、寿々花さんも今日は今頃、久し振りにカフェテリアでランチしてるんだろうな。
誠に不甲斐ない。
「寝坊!星見の兄さんが寝坊とか、めっちゃ珍しいな。何々?昨日の晩えっちな映画でも観てた?」
この下衆野郎め。
「ちげーよ、勝手に変な誤解すんな。昨日一昨日と旅行に行ってて疲れてたから、うっかり寝過ごし…」
「え、旅行!?」
…しまった。失言だった。
いや、でもどうせ…雛堂と乙無にもお土産渡すつもりだったから、どっちみち隠してもバレるか…。
「もしかしてアレか。前言ってた。ハムスターランドか?お姉ちゃんと一緒に行ってきたのか?」
…姉じゃねーけど。
「…そうだよ。俺も一緒に来てくれ、って誘われて…それで」
「お姉ちゃんと仲良くハムスターランド旅行とか、おめーシスコンかよ?」
うるせー放っとけ。シスコンじゃねぇ。
仲が良かったら、姉と一緒に旅行くらい行く…もんじゃないの?
俺、兄弟いないから分からないけど…。
「しかも、ハムスターランドだと!?抜け駆けしよって、このー!ズルいぞ畜生!」
そんなこと言われても…。俺だって突然誘われたんだから。
この分じゃ、ランドホテルのスイートルームに泊まったことは言わない方が良さそうだな。
雛堂の嫉妬が爆発してしまう。
「良いなぁ、良いなぁ。楽しかった?」
「まぁ…それなりにな」
「やっぱ良いなぁー!」
…既に、嫉妬爆発してるようなもんだけど。
「それで旅行疲れで寝坊かよ!贅沢な奴め」
「そういえば今朝、珍しく遅刻ギリギリに教室に駆け込んでましたね。あれはそういうことだったんですか」
「あぁ…」
間に合って良かったよ。
あと5分でも長く寝過ごしてたら、確実にアウトだったな。
寿々花お嬢さんは間に合ったんだろうか。
俺が間に合ったんだから、多分寿々花さんも大丈夫だと思うけど…。
すると。
「抜け駆けしてハムスターデビューしてきたってことは、さぞや良いお土産を買ってきてくれたんだろうなぁ?」
超高圧的な雛堂。
何で偉そうなんだよ。お土産買ってきてもらう立場で。
「あんたの言う、良いお土産の基準は分からないけど…。一応買ってきたよ」
文句言われてもどうしようもないからな。
お土産のリクエスト、先に聞いておけば良かったかな。
俺は雛堂と乙無に、それぞれお土産の入った紙袋を渡した。
「おぉ、さんきゅ!」
「ありがとうございます。ハムスターランドは、紙袋もお洒落ですね」
だよな。
わざわざ小分けの袋までつけてくれるんだぜ。親切だな。
「で、中身は何だよ?」
雛堂は俺に断ることもなく、紙袋の中身を覗いた。
おい、ここで見るのかよ。
一応教室の中だぞ。他の生徒や教師に見られたら…。
しかし、雛堂は全く気にしていなかった。
俺が二人に買ってきたお土産は、まず洒落た缶に入ったチョコレートと。
ハムッフィーフレンズのハンドタオル、それからピンバッチである。
…どう?俺のお土産センス。
「…」
雛堂は無言で、紙袋の中を見つめていた。
「…何だよ、雛堂…。黙ってないで、言いたいことがあったら言えよ」
「あ、いや…。予想以上に豪華なお土産だったから、逆にリアクションに困ってた」
あ、そう…。気に入ってもらえたという解釈で良いんだな?
「乙無は?」
「ありがとうございます。…女子みたいなお土産のセンスですね」
悪かったな。
あまりにも色んなお土産がたくさん売ってるから、段々何を買って良いのか分からなくなるんだよ。
寿々花さんから目を離す訳にもいかなかったし。じっくり選んでる暇もなくて。
ちなみに、母さんにはチョコレート缶とクッキー缶を買って、送っておいた。
明日頃には届くんじゃないかな。
「うへぁー、ハムスターランドのお土産だ!やったー。星見の兄さん、愛してる!」
「はいはい」
「羨ましいなぁ。自分も、仲良くハムスターランド旅行に連れてってくれる優しい姉が欲しいぜ」
…姉じゃないけどな。何度も言うけど。
本当に羨ましいのは、ハムスターランド旅行の優待チケットをフランスから送ってくれる姉だろ。
「星見の兄さんが優雅にハムスターデビューしてる間に、自分なんかなぁ、先週公開されたばっかの新作映画観に行ってたぜ」
「そうなのか?」
「おうよ。近くの映画館じゃやってねーから、わざわざ電車乗って行ったんだぞ」
それって、もしかして。
「土曜日のこと?」
「うん。めっちゃ雨降ってた日」
…成程。
雨男はあんたかよ。
「前評判めっちゃ良かったから、期待してたのにさぁ。雨ん中電車まで乗っていったのに、くっそつまんない映画だったんだわ」
「そうか…。それは気の毒だったな」
「全くだよ!畜生めと思ってたけど、星見の兄さんにハムスターランドのお土産もらったから、なんか元気出たわ」
良かったな。
喜んでもらえたようで、安心したよ。
一泊二日のハムスターランド旅行でさえ、俺にとっては大変贅沢な旅行だったが。
しかし、上には上がいるということを思い知らされる出来事があった。
その出来事が起きたのは、水曜日のこと。
その日の放課後、俺はいつも通り、園芸委員の仕事をする為に新校舎に向かった。
何回来ても、新校舎は慣れない。
まだ梅雨も明け切らないっていうのに、教室の中のみならず、廊下までエアコンが効いている。
必要か?このエアコン。
…それはともかく。
「あれ…。来てないな…」
園芸委員長の小花衣先輩のことである。
いつもなら大抵、俺より先に来てるんだけだな。
授業、長引いてるとか…?
まぁ良いや。作業してたら来るだろ。
俺は一人で新校舎の中庭に出て、花に水をやり始めた。
すると案の定、5分も経たないうちに。
「ごきげんよう、悠理さん」
「あ、小花衣先輩…」
ほら、来た。
…来た、けど。
「…なんか、お疲れですか?」
「あら。やっぱり分かるかしら?」
今日の小花衣先輩は、何だか疲れた様子だった。
珍しいことがあるもんだ。
いつも優雅に微笑んでる印象だったが。
いや、今日も優雅に微笑んでるんだけど。
でも、何だか疲労が滲み出ているような。
「体調が悪いんだったら、今日は帰って良いですよ。俺がやっておくので」
と、俺は言った。
別に、小花衣先輩を追い返して、自分もサボってさっさと帰ろうなんて姑息なことは考えてないぞ。
そういう姑息なことは、絶対後でバレるからな。
小花衣先輩がいなくても、やるべきことはちゃんとやるよ。
しかし。
「ありがとう。でも、大したことはないの。ただの時差ボケだから」
…時差ボケ?
言葉は知ってるけど、俺自身は人生で一度も、時差ボケを経験したことがない。
「実は昨日まで、イギリス旅行に行っていたの」
「へぇー、イギリス…」
…え?イギリス?
「昨日帰ってきたばかりで、今日はお休みしようかと思ったのだけど…。旅行の為に何日もお休みしてしまったから、今日は登校しようと思って…。でも、やっぱり疲れてしまったようだわ」
うふふ、とにこやかに微笑む小花衣先輩。
…イギリス旅行だって?
海外旅行ってことだよな?
「す、凄いですね…」
「えぇ、植物園を見に行ったの。とっても素敵だったわ。私、一度見てみたかったの」
植物園を見に行く為に、わざわざ飛行機に乗ってイギリスまで行ってきたのか?
どういう感覚なんだ。
雛堂が足を伸ばして、電車に乗って映画を見に行く感覚で。
小花衣先輩は、飛行機に乗ってイギリスの植物園を見に行ったのかもしれない。
さすがお嬢様。旅行のスケールが違う。
「そうだ、悠理さんにもお土産を買ってきたの。これ、つまらないものだけど」
「えっ?」
小花衣先輩は、洒落たリボンの付いた小さな包みを、俺に差し出した。
お土産って…イギリス旅行のお土産?
「いや、そんな…。悪いですよ」
旅行のお土産を買ってきてもらう関係じゃないと思ってた。
たかが、同じ曜日に活動している委員会仲間にまで…。
「良いのよ、受け取ってちょうだい。悠理さんはお花が好きだって言ってたから、是非お土産を渡したかったの」
…そんなこと言ったっけ?俺…。
よく分からないけど…。小花衣先輩が俺の為に買ってきてくれたのなら、無下に断るのも申し訳なかった。
受け取る…しかないよなぁ。
恐悦至極。
「…済みません。ありがとうございます…」
「いいえ、どういたしまして」
「本当済みません…。何も返せるものがなくて…。俺もこの間、旅行行ってきたばかりなんですけど…」
などと、余計なことを口走ったのが間違いだった。
「良いのよ。私が勝手に買ってきたものだから、気にしなくて。…それより」
「…はい?」
「悠理さんも旅行に行ったのね。どちらに?」
…えっと。
…余計なこと言わなきゃ良かった。
「ヨーロッパかしら?それともアメリカ?オーストラリアとか?」
スケールが違う。スケールが。
済みません。ハムスターランドです。とも言い出せず。
ヨーロッパどころか、パスポートさえ持ってないよ。
「いや、あの…もっと近場ですから…」
「近場?アジア旅行かしら」
国内です、国内。
言えない。この本物のお嬢様に、電車でハムスターリゾート旅行に行ってきましたなんて言えない。
でも、俺と寿々花さんの旅行も、海外旅行に負けないくらいお金かかってると思うんだよ。
そりゃ、イギリス旅行ほどじゃないかもしれないけど。
優待チケットに、ハムスターランドホテルのスイートルームだからな?
それを二枚分だから、相当お高い旅行だったと思う。
だけど、「めっちゃ豪華なハムスターリゾート旅行です!」と言うのも…。
…なんか、張り合ってマウント取り合ってるような感じがして、言うに言えない。
「え、えっと…まぁ、はい…。近場です」
結果、俺は言葉を濁すことでこの場を乗り切ることにした。
情けない奴だよ。
「そうだったのね」
幸いなことに、小花衣先輩はにこにこ微笑むだけで。
それ以上は、何も追及してこなかった。
…ホッ。
俺にとっては、一泊二日のハムスターリゾート旅行だって充分贅沢だと思ってたけど。
新校舎のお嬢様達にとっては、海外旅行くらい珍しくも何ともないんだろうな。
つくづく、うちの寿々花お嬢さんは、お嬢様らしからぬお嬢様だよ。
…ちなみにお土産は、花の香りがするアロマオイルだった。
いかにも高そうだったから、使わずに、引き出しの中に封印しておくことにした。