記された文字を見たジョシュアは微笑む。
 これで契約は成立した。

「さて、そろそろ寝るか。明日は早くから仕事がある」
「ええ、おやすみなさいませ」
「おやすみ」

 挨拶を交わし、ジョシュアは部屋を出た。
 残されたマイアは一人、椅子の上で身悶える。

(あ、あんなに優しい言葉をかけてくださるとは……!)

 マイアにとって、ジョシュアの優しさは劇薬だった。
 こんなにも優しくされたことがないので、どうすればいいのかわからない。

「でも、悪い気はしないわ」

 こうして、婚約から二人の生活が始まったのであった。



 マイアは部屋を出て、まっすぐに自室へと向かう。
 どこか浮立った心で。

 公爵家に嫁いで初日。
 まさかここまで素晴らしい環境が待っているとは思わなかった。
 あとは二度とハベリア家に戻らないように努めるだけだ。

「……あら?」

 長い廊下の中央に、一人の少年がうずくまっていた。

「アランさん?」

 アランの傍には割れた皿。
 彼はまっしろなハンカチで指を抑えている。
 布地には血が滲んでいた。

「マイア様。お見苦しいところをお見せしました。
 心配は不要です、皿を落としてしまっただけですので」
「いけないわ、すぐに治さないと!」

 マイアは即座にアランのもとへ駆け寄る。
 彼の指に手をかざし、いつものアレをする。

「いたいのいたいの、とんでけ!」

 おまじないを。
 マイアは昔のことを思い出していた。
 実家で家事手伝いをしていた時、皿を割ってしまって両親やコルディアに怒られた記憶がある。その日は夕食が抜きになり、罰として一日中掃除をさせられた。

 そんな辛い記憶が、余計にアランの怪我を見すごせない原因となっていた。