中学一年生になった白土古都子は、幼馴染の黒柳晴臣と同じクラスになって、ホッと胸を撫で下ろした。
こじんまりとした小学校から、マンモス中学校へ進学し、早くも生徒数の多さに恐れおののいていたのだ。
一学年に何クラスもある状況で、離れ離れになるのは心細い。
なにしろ古都子も晴臣も、人見知りが激しく交流には慎重なため、新しい環境に馴染むのは時間がかかる。
周囲に違和感なく溶け込めるまで、お互いの存在は頼りになる支えだった。
「一緒のクラスになれて良かった! これでいきなり先生から、『ペアを作ってください』って指示がきても、何とかなるね晴くん」
「ん」
晴臣は、基本的に寡黙だ。
だいたいの会話は、「ん」で終わってしまう。
しかし、その「ん」には様々なバリエーションがあり、古都子はそれを見分けるスペシャリストだと自認している。
つい今しがたの「ん」には、晴臣の喜びが含まれていた。
だてに幼稚園時代から、幼馴染をしているわけではない。
古都子は、黒髪のおかっぱ頭をいじりもしない、昔ながらの懐かしい風貌の中学生だが、晴臣は違う。
いつも短く刈り上げられた黒髪は清潔感があり、だいたいの女子が振り返って二度見するほど顔が良かった。
さらには運動神経にも恵まれているとなれば、もてないはずがない。
そんな晴臣の隣にいつも陣取っている古都子が、クラスの中心にいるキラキラした女子たちから、目の仇にされて疎まれるのはすぐだった。
「白土さんってさあ、黒柳くんの何なの」
「いっつも横にいるけど、顔面偏差値の差、分かってる?」
「なんか黒柳くんに馴れ馴れしくて、鼻につくんだよね」
小学校時代からの数少ない友人たちは、古都子と晴臣が幼馴染で、ふたりが一緒にいるのが当たり前だと思っているが、中学校に入学してから関わるようになった女子にはそれが通じない。
お近づきになりたい晴臣の側に、古都子が張り付いているのが、邪魔で仕方がないのだ。
「私たちは、幼馴染で……」
古都子が穏便に済まそうと説明するが、ほとんど聞いてもらえない。
「そうやって彼女ヅラするの、止めてもらえる?」
「常にべったりしてて、気持ち悪いんだけど」
「黒柳くんも白土さんに、迷惑してると思うよ」
古都子が強く言い返さないのをいいことに、多数で取り囲んで散々罵倒する女子たち。
初めは面倒くさがって、黙って聞いてやり過ごしていた古都子だったが、そのうち実害を伴うようになっていった。
濡らされた上靴、隠される教科書、配膳されない給食――。
恐らく、それらをすべて取り仕切っているのが、学年のアイドルとも言われている泉リリナだった。
リリナは隣のクラスから、休み時間のたびに、わざわざ晴臣に会いにきている。
それだけで、古都子のクラスの男子たちが色めき立つほど、リリナは可愛かった。
明るい茶色の髪はゆるやかに巻かれ、きれいに整えられた眉と反り返ったまつ毛、唇にはほんのりと色がつくグロス、校則ギリギリのスカート丈からは細くて長い脚がのぞく。
ただでさえ外観の圧が強いのに、あざとい笑顔と猫なで声で、徹底的に女子力が底上げされていた。
しかも、生活指導の先生に気に入られているのか、校則違反をしていても、注意を受けているのを見たことがない。
「ねえ、黒柳くん、今日は一緒に帰れる?」
美少女からの上目遣いのお誘いを、晴臣はいつも無下に断っていた。
そして古都子と帰るのだから、リリナの怒りの矛先は自然とこちらに向く。
リリナは取り巻きを使って、違うクラスの古都子をいじめ、立場を分からせようとしていた。
学校生活を送るにあたって、あまりにも支障が出てきたので、さすがの古都子も動く。
「嫌がらせを受けています」
担任では駄目だ。
性別が男性だと軒並み、リリナの肩をもつ。
だから古都子は、クラスの副担任で女性の結月を訴え先として選んだのだが、これが失敗だった。
「白土さんにも、悪いところがあるんじゃない?」
まったく相談に乗ってくれないどころか、古都子のせいにされた。
古都子は知らなかったが、この結月は、生徒に八つ当たりをするので有名だった。
そして古都子は大人しい顔のせいか、そうした輩に絡まれがちなのだ。
「黒柳くんは顔がいいもの。先生だって、あと10歳若ければ……」
そこからペラペラと始まった男にまつわる武勇伝に、付き合う苦痛を味わうだけで、得るものもなく終わった。
大人は役に立たないと思った古都子は、断腸の思いで晴臣に話をもっていく。
「しばらく、距離を置いて欲しいの。なんか妙なのに絡まれてて」
「大丈夫なのか?」
珍しく、晴臣が「ん」以外の返事をする。
それだけ古都子を心配してくれているのだ。
「そのうち、なくなると思うから。それまでごめんね、晴くん」
「ん」
古都子に嫉妬して、意地悪をしてくる女子はこれまでにもいた。
だが、晴臣のそっけなさが分かると、がっかりして離れていくのだ。
リリナだって、晴臣がどれだけ寡黙なのかを知れば、のぼせ上がっていた熱も冷めるだろう。
それまでの我慢だ、と古都子は考えていた。
案の定、晴臣から離れたら、古都子への嫌がらせがぴたりと止んだ。
そして、リリナによる晴臣への猛攻が始まる。
「黒柳くん、数学の宿題、してきた? 私、分からないところがあって……」
教えて欲しいんだ、と教科書を手にしたリリナが、晴臣に擦り寄っている。
目の端にそれを捉えた古都子は、もやもやする気持ちに蓋をした。
中学生になって、彼氏ができたと嬉しそうにするクラスメイトを何人か見ていた古都子は、晴臣も彼女が欲しかったりするのかなと思い悩む。
(今までは、こんなに悩んだりはしなかったのに)
リリナのアプローチは、大胆で積極的で、全身全霊で晴臣に気があると伝えていた。
そこら辺の男子なら、すぐにころりと行ってしまうだろう。
しかし晴臣はリリナへ、「ん」としか返事をしない。
(あの「ん」は、面倒くさいの「ん」だわ。晴臣は泉さんのこと、何とも感じてないみたい)
安心してしまう自分の気持ちの方向性に、そろそろ古都子も気がついていた。
幼馴染と言いながら、晴臣のそばに居続ける古都子の都合の良さを、自分が一番分かっている。
(やっぱりこれは、私が晴くんに、恋してるってことだよね)
晴臣との関係が始まったのは、ふたりが5歳のときだった。
通っていた幼稚園で、体の大きな年長組の男の子に、古都子はよく絡まれていた。
当時は長かった髪の毛を引っ張られたり、すれ違いざまにぶつかられたり。
ひとつひとつは小さなことだが、まだ幼い古都子の精神的な負担は大きかった。
逆上されるのが怖くて、止めてとも言えず、その男の子を見ると逃げ出すようになった古都子。
逃げると余計に追われるなんて、知らなかった。
「へへん、もう逃げられないぞ。お前をいじめるの、楽しいんだよな」
今日は何をされるのか。
痛いのはもう嫌だ。
園庭のすみで、古都子はこみ上げる涙をこらえて震えた。
目の前に立ちふさがる大きな男の子の頭に、飛んできたサッカーボールが直撃して、どうっと地面に倒れ込むまでは。
「まあ、大変! 晴臣くん、もうちょっと優しく蹴ろうね!」
すぐに先生が飛んできて、うずくまっている男の子を抱えて走っていった。
おそらく親に連絡をしたり、頭を冷やしたりするのだろう。
古都子がそれを呆然と見ていると、晴臣がこちらにボールを取りに来た。
何も言わずに立ち去ろうとするので、慌てて古都子はお礼を言う。
「あ、ありがとう!」
「ん」
晴臣にとっては、これが何のお礼か分からないかもしれないと思ったけれど、気にするなとも言いたげな返事を聞いて、晴臣がわざと男の子の頭にボールを当てて、古都子を助けてくれたのだと分かった。
それから、古都子は晴臣と仲良くなった。
古都子の中で晴臣はヒーローだったし、晴臣の近くに居れば、嫌なことをする男の子は近づいてこなかった。
その頃はまだ、中学生になった今よりも純粋に、古都子は晴臣を慕っていた。
きっと初恋だったと思う。
それが崩れたのは、小学校の高学年になってからだ。
こじんまりとした小学校から、マンモス中学校へ進学し、早くも生徒数の多さに恐れおののいていたのだ。
一学年に何クラスもある状況で、離れ離れになるのは心細い。
なにしろ古都子も晴臣も、人見知りが激しく交流には慎重なため、新しい環境に馴染むのは時間がかかる。
周囲に違和感なく溶け込めるまで、お互いの存在は頼りになる支えだった。
「一緒のクラスになれて良かった! これでいきなり先生から、『ペアを作ってください』って指示がきても、何とかなるね晴くん」
「ん」
晴臣は、基本的に寡黙だ。
だいたいの会話は、「ん」で終わってしまう。
しかし、その「ん」には様々なバリエーションがあり、古都子はそれを見分けるスペシャリストだと自認している。
つい今しがたの「ん」には、晴臣の喜びが含まれていた。
だてに幼稚園時代から、幼馴染をしているわけではない。
古都子は、黒髪のおかっぱ頭をいじりもしない、昔ながらの懐かしい風貌の中学生だが、晴臣は違う。
いつも短く刈り上げられた黒髪は清潔感があり、だいたいの女子が振り返って二度見するほど顔が良かった。
さらには運動神経にも恵まれているとなれば、もてないはずがない。
そんな晴臣の隣にいつも陣取っている古都子が、クラスの中心にいるキラキラした女子たちから、目の仇にされて疎まれるのはすぐだった。
「白土さんってさあ、黒柳くんの何なの」
「いっつも横にいるけど、顔面偏差値の差、分かってる?」
「なんか黒柳くんに馴れ馴れしくて、鼻につくんだよね」
小学校時代からの数少ない友人たちは、古都子と晴臣が幼馴染で、ふたりが一緒にいるのが当たり前だと思っているが、中学校に入学してから関わるようになった女子にはそれが通じない。
お近づきになりたい晴臣の側に、古都子が張り付いているのが、邪魔で仕方がないのだ。
「私たちは、幼馴染で……」
古都子が穏便に済まそうと説明するが、ほとんど聞いてもらえない。
「そうやって彼女ヅラするの、止めてもらえる?」
「常にべったりしてて、気持ち悪いんだけど」
「黒柳くんも白土さんに、迷惑してると思うよ」
古都子が強く言い返さないのをいいことに、多数で取り囲んで散々罵倒する女子たち。
初めは面倒くさがって、黙って聞いてやり過ごしていた古都子だったが、そのうち実害を伴うようになっていった。
濡らされた上靴、隠される教科書、配膳されない給食――。
恐らく、それらをすべて取り仕切っているのが、学年のアイドルとも言われている泉リリナだった。
リリナは隣のクラスから、休み時間のたびに、わざわざ晴臣に会いにきている。
それだけで、古都子のクラスの男子たちが色めき立つほど、リリナは可愛かった。
明るい茶色の髪はゆるやかに巻かれ、きれいに整えられた眉と反り返ったまつ毛、唇にはほんのりと色がつくグロス、校則ギリギリのスカート丈からは細くて長い脚がのぞく。
ただでさえ外観の圧が強いのに、あざとい笑顔と猫なで声で、徹底的に女子力が底上げされていた。
しかも、生活指導の先生に気に入られているのか、校則違反をしていても、注意を受けているのを見たことがない。
「ねえ、黒柳くん、今日は一緒に帰れる?」
美少女からの上目遣いのお誘いを、晴臣はいつも無下に断っていた。
そして古都子と帰るのだから、リリナの怒りの矛先は自然とこちらに向く。
リリナは取り巻きを使って、違うクラスの古都子をいじめ、立場を分からせようとしていた。
学校生活を送るにあたって、あまりにも支障が出てきたので、さすがの古都子も動く。
「嫌がらせを受けています」
担任では駄目だ。
性別が男性だと軒並み、リリナの肩をもつ。
だから古都子は、クラスの副担任で女性の結月を訴え先として選んだのだが、これが失敗だった。
「白土さんにも、悪いところがあるんじゃない?」
まったく相談に乗ってくれないどころか、古都子のせいにされた。
古都子は知らなかったが、この結月は、生徒に八つ当たりをするので有名だった。
そして古都子は大人しい顔のせいか、そうした輩に絡まれがちなのだ。
「黒柳くんは顔がいいもの。先生だって、あと10歳若ければ……」
そこからペラペラと始まった男にまつわる武勇伝に、付き合う苦痛を味わうだけで、得るものもなく終わった。
大人は役に立たないと思った古都子は、断腸の思いで晴臣に話をもっていく。
「しばらく、距離を置いて欲しいの。なんか妙なのに絡まれてて」
「大丈夫なのか?」
珍しく、晴臣が「ん」以外の返事をする。
それだけ古都子を心配してくれているのだ。
「そのうち、なくなると思うから。それまでごめんね、晴くん」
「ん」
古都子に嫉妬して、意地悪をしてくる女子はこれまでにもいた。
だが、晴臣のそっけなさが分かると、がっかりして離れていくのだ。
リリナだって、晴臣がどれだけ寡黙なのかを知れば、のぼせ上がっていた熱も冷めるだろう。
それまでの我慢だ、と古都子は考えていた。
案の定、晴臣から離れたら、古都子への嫌がらせがぴたりと止んだ。
そして、リリナによる晴臣への猛攻が始まる。
「黒柳くん、数学の宿題、してきた? 私、分からないところがあって……」
教えて欲しいんだ、と教科書を手にしたリリナが、晴臣に擦り寄っている。
目の端にそれを捉えた古都子は、もやもやする気持ちに蓋をした。
中学生になって、彼氏ができたと嬉しそうにするクラスメイトを何人か見ていた古都子は、晴臣も彼女が欲しかったりするのかなと思い悩む。
(今までは、こんなに悩んだりはしなかったのに)
リリナのアプローチは、大胆で積極的で、全身全霊で晴臣に気があると伝えていた。
そこら辺の男子なら、すぐにころりと行ってしまうだろう。
しかし晴臣はリリナへ、「ん」としか返事をしない。
(あの「ん」は、面倒くさいの「ん」だわ。晴臣は泉さんのこと、何とも感じてないみたい)
安心してしまう自分の気持ちの方向性に、そろそろ古都子も気がついていた。
幼馴染と言いながら、晴臣のそばに居続ける古都子の都合の良さを、自分が一番分かっている。
(やっぱりこれは、私が晴くんに、恋してるってことだよね)
晴臣との関係が始まったのは、ふたりが5歳のときだった。
通っていた幼稚園で、体の大きな年長組の男の子に、古都子はよく絡まれていた。
当時は長かった髪の毛を引っ張られたり、すれ違いざまにぶつかられたり。
ひとつひとつは小さなことだが、まだ幼い古都子の精神的な負担は大きかった。
逆上されるのが怖くて、止めてとも言えず、その男の子を見ると逃げ出すようになった古都子。
逃げると余計に追われるなんて、知らなかった。
「へへん、もう逃げられないぞ。お前をいじめるの、楽しいんだよな」
今日は何をされるのか。
痛いのはもう嫌だ。
園庭のすみで、古都子はこみ上げる涙をこらえて震えた。
目の前に立ちふさがる大きな男の子の頭に、飛んできたサッカーボールが直撃して、どうっと地面に倒れ込むまでは。
「まあ、大変! 晴臣くん、もうちょっと優しく蹴ろうね!」
すぐに先生が飛んできて、うずくまっている男の子を抱えて走っていった。
おそらく親に連絡をしたり、頭を冷やしたりするのだろう。
古都子がそれを呆然と見ていると、晴臣がこちらにボールを取りに来た。
何も言わずに立ち去ろうとするので、慌てて古都子はお礼を言う。
「あ、ありがとう!」
「ん」
晴臣にとっては、これが何のお礼か分からないかもしれないと思ったけれど、気にするなとも言いたげな返事を聞いて、晴臣がわざと男の子の頭にボールを当てて、古都子を助けてくれたのだと分かった。
それから、古都子は晴臣と仲良くなった。
古都子の中で晴臣はヒーローだったし、晴臣の近くに居れば、嫌なことをする男の子は近づいてこなかった。
その頃はまだ、中学生になった今よりも純粋に、古都子は晴臣を慕っていた。
きっと初恋だったと思う。
それが崩れたのは、小学校の高学年になってからだ。