十和くんはそのまま立ち上がり、部屋から出ていってしまった。
 ドライヤーやブラシなんかも置いたままだ。

(余裕、なさそうだった)

 いつもの彼とも、わたしを痛めつけた彼とも、何だか様子が違っていた。

「…………」

 ますます分からなくなる。

 優しい顔とサディスティックな顔を持ち合わせる彼────いったい、どれが本当の姿なのだろう。
 どの言葉が本物なのだろう。

 ついそんなことを考えている自分に気付き、はっとした。

(これじゃまるで……)

 十和くんのことを信じようとしているみたいだ。

(ありえない)

 彼は“悪”だ。

 どんな事情があったって、どんな態度を取ったって、わたしに対する仕打ちが消えてなくなるわけじゃない。

 わたしに彼を(ゆる)す気なんて、微塵(みじん)もない。



*



 翌日の夜、おにぎりを届けに来た十和くんの背に呼びかける。

「待って」

 衝動的な行動というわけではなかった。
 ……正直、焦っていたのだ。

 このまま彼を否定して拒絶し続け、理解しようとしないでいたら、状況はずっと好転しない。

 “せめて悪化しないように”と従順でいることは、確かに間違いじゃない。
 でも、それはその場しのぎを上塗(うわぬ)りしているだけだ。

 ずっと、拘束されたままわびしい食事をして、決められたタイミングでお手洗いに行って、日がな来もしない助けを待ち続ける日々を強いられる。

 隙も何もない。

 自分が何かしないと、ここから逃げ出すという目的には根本的に近づけない。

「どしたの?」

 振り返った十和くんは、きょとんとしてわたしを見つめた。

「あのね……少し話したいの」

 わたしは彼のことを何も知らない。

 学校で話すことはあっても、彼は自分のことをあまり語らなかった。

 いつだってわたしのことを聞きたがったし、知りたがっていた。

「…………」

 それはこのため(、、、、)だったのかな。
 それとも、純粋な“好き”という気持ちからだったのかな。

(わたしだったら……)

 先生のこと、もっと知りたい。
 その分、わたしのことも知って欲しいと思う。

(十和くんは違うのかな)



 ややあって、彼はドアの取っ手にかけた手を下ろした。

「へぇ、何の話がしたいの?」

 にっこりと笑ってはいるけれど、まったくもって親しみの込もっていない冷たい表情だった。
 ……警戒しているのだろう。

 わたしはなるべく軽い調子で言った。

「十和くんのこと、知りたい」