一度、意識して深く息を吸った。

「あ、朝倉くんの気持ちを……分かろうとしなくて」

 不安だった。
 考えたって、模範解答なんて分からない。
 それは彼の中にしかないのだから。

 彼を豹変(ひょうへん)させたのは、抜け出そうとしたり嘘をついたりした、わたしの反抗的な行動そのものだったかもしれない。

(だけど……)

『でも、芽依ちゃんが悪いんだよ? 俺の気持ち全然分かってくれないから』

 彼にとっては、それが一番重要なんじゃないだろうか。

 彼の望みはそれなのではないのだろうか。

「…………」

 朝倉くんがわずかに目を細めた。

 その意味を掴みきれなくて、わたしの鼓動は緊張で加速の一途(いっと)を辿る。

「……っ」

 耐えきれなくて、思わず弾かれたように彼に寄ると、(すが)って見上げた。

 食らいつかなきゃ、またあんな目に遭わされる────。

 傷が開き、点々と床に赤い血が散った。

「本当にごめんなさい……! わたしが悪かったの。これからは言うことぜんぶ聞くから……、言う通りにするから」

 惨めでも滑稽(こっけい)でも構わない。
 必死にならなきゃ、自分を守れない。

「だから、わたしと一緒に暮らそう……。十和(とわ)、くん」

 声が、両手が震えた。

 ぎこちないことは自覚していたけれど、精一杯笑ってみせた。

 望んでいるのは、この言葉でしょ……?

 謝罪より、命乞いより、朝倉くんの想いを理解して受け止めればいいんでしょ?

 わたしの揺れる双眸(そうぼう)の中に、ゆったりと頬を緩める彼が映った。
 満足気に微笑んで屈み込む。



「やっと分かってくれたんだね」

 その手が伸びてきて思わず怯んだけれど、わたしの頭を優しく撫でるに留まった。

「嬉しいよ、芽依ちゃんがそう言ってくれて」

 怖くてたまらない。嫌で仕方がない。
 けれど、彼の眼差しから目を逸らさないようにした。

 引きつったままでも、笑顔を崩さないようにした。

 彼の求めるわたしを演じる────それだけが唯一、助かる道だと思ったのだ。

 ご飯も人権も取り上げられないように、最大限の努力をするしかない。

 今は、自分のために屈するのだ。

 負けを認めるわけじゃない。
 わたしは戦う。

 従順でいれば、少なくとも快適に過ごせるはずだ。
 彼の信用を得られれば、監視の目だって甘くなるかもしれない。

 そうすれば、脱出に一歩近づける────。



「幸せになろうね、ふたりで」

 彼の甘い言葉も、笑顔も、想いも、わたしにとっては毒でしかない。

 その毒に(おか)される前に、絶対に生きてここから出てやるんだ。

(……思い通りになんてさせない)

 わたしはそう強く心に決めると、差し伸べられた彼の手を取った。