次は60代の女性の病室だ。

この女性の夫は医者であったが
うつ病により自殺した。

そしてその妻も、夫の死から
うつ病になり、
この大学病院に入院している。

誠一郎は病室をノックした。
すると柔らかい上品な声で

「はい」

という声が聞こえた。



誠一郎は静かにドアを開けた。

そこには、60代とは思えない
静かで落ち着き放った女性が
花を生けていた。

名前は吉田美和子ー

花瓶には美しく
花が生けられている。

もともと彼女は
生け花の教師だった。

美和子は、水をかぶり
絵の具でドロドロになっている
誠一郎を見て

「初めての教授回診も
大変なことね…」  

と、つぶやいた。

パツンー

ハサミで花を切った音が
病室内に響いた。

そして、すずらんを
花瓶に生けた。

精神科ではハサミの使用は
禁止だが、美和子の場合は
精神的に落ち着いており
昼間だけ、
ハサミの使用を可能にした。

「この度は、
父が吉田さんの
大切な花瓶を割ったと
聞いております
大変申し訳ありませんでした
これは私から詫びです」

誠一郎は新しい花瓶を手渡した。

「あらあら、そこまで
気を遣ってくださらなくてもいいのよ
あなたのお父様も
病気だったのだから」

そう言って
美和子は微笑んだ。

「それにしても、
初の教授回診は
お辛いものになったわねぇ…
あまり深く考えてはだめよ」

花を生けながら美和子は言う。

まるでどちらが患者かわからない。
それを察してか、

「あら、いやだ、
これじゃあ、どちらが
患者かわからないわね
先生、失礼しました」

と笑った。

「本当にすいません
こうなることは
覚悟してたのですが…」

それだけ章一郎は
病棟を荒らしてしまった。

これからは自分の手で
父親が失墜させた信頼を
回復せねばならないと思った。

教授回診では
患者に何を言われても
頭を下げるしかないと
誠一郎は思っていた。

「これじゃあ、あんまりだわ
ほら、ティッシュで拭きなさい」

「なんか、母親のようですね」

とつい 誠一郎が言うと

「私に、こんないい息子が
いてくれたら嬉かったわ
あなたのお母様は幸せね。

いつも 婦人会で、あなたの
自慢話をしてたわよ」

「…え」

医者の世界は狭い。

医者同士の妻が婦人会という
お茶会を開くことある。

「私の母を知ってるのですか?」

「ええ、もちろんですとも。
だって、あなたのお母様は
私の生徒でしたもの。

先生のお母様はね、
毎日、玄関にお父様のために
綺麗なお花を飾るのが
好きなんですって。
前教授のお父様は幸せね」

美和子は、ふふっと笑った。

確かに、うちの玄関には
いつも花が飾られていた。

「そうだったのですか
母がお世話になりました」

「あなたのことをよく聞いてたわ
ニンジンとブロッコリーが
食べれなくて困ってて、
私の料理が下手なのかしら?
なんて仰ってたわ」

誠一郎は中学1年生の
遠足のことを思い出した。

「さすがに今は食べれますが…」

「親はね、小さい頃の話は
いつまでも思い出すものよ
あなたのことを、
本当に可愛がってたのね」

「私には、そうは思いませんが…」

誠一郎がつぶやくと

「あら、今更遅い反抗期?」

美和子は、クスクス笑った。
そして

「先生、お陰様で
すっかり落ち着いています。

夫の自殺も
受け入れるようになりました。

退院が近づけば
荷物をまとめて
またお花の教師を
やろうと思います。

お母様も、たまには
いらしてちょうだいと
お伝えてくださいね」

美和子は微笑んだ。

「はい、もちろんです」

そう言って誠一郎も
悲しげに微笑んだ。

そして、新しい花瓶を
美和子に渡した。