「…薫子のぜんぶが好きだよ。薫子が視聴覚室に出入りしてた頃からずっと…薫子のことが、愛おしい」
時が、止まった気がした。
「…っ嘘。嘘よ、そんな…っ!」
自分でも驚くほど大きな声が店内に響き渡る。
っ…違う、こんなことが言いたいんじゃないのに…。
言いたいこととは違う言葉が勝手に出てきてしまう。
信じたいけれど、信じられない。
「嬉しい」、「私も好き」と心は言うけれど、頭がそれを否定する。
心に思考が追いつかなくて、私は既にショート寸前。
「…嘘って、思いたい?」
「…っ」
理央の顔が歪んで、心臓がぎゅっと苦しくなった。
違う、違うの…私は、ただ──
「理央、私──」
「理央っ!!」
え……?
私以外の可愛らしい声が理央を呼んだ。
気持ちを伝えようと振り絞った勇気は、その声によってどこかへ飛んでいく。
そして、すぐに声の主は現れた。
「やっぱり理央だぁ…っ!こんなところで会うなんて、運命感じちゃう…!」
鈴を転がすような声と、くるくる巻かれたミルクティー色の髪。
陶器のような白い肌に乗せられた程よい化粧も、フリフリのスカートも…。
「玲央奈、ここでバイトしててよかったぁ〜」
この世の可愛いが全て詰まっていると言っても過言ではないくらいに可愛い女の子だった。
…誰?この子……。
彼女は理央のことを知っているようだけど、もちろん私は全く知らない赤の他人。
それに、こんなに可愛い子を一度見たら忘れられるわけがないわ。
説明を求めて視線を彼女から理央に戻す。
「玲央奈…?なんで、ここに…」
知り合い…なのね。
ズキリ、胸が痛んだ。
「えへへっ、ナイショだよ♡」
「いや、内緒とかじゃなくてさ」
「もぉ〜うるさいなぁ理央は」
二人の間に流れる空気が、ただの知り合いではないということくらい察しがつく。
幼なじみ…とか?
それとも……。
嫌な想像が膨らみ掛けたその時。
「ってか、この女だれ?彼女じゃないよね?」
「っ…!」
猫なで声とは全くかけ離れた黒い声が降ってきて、背筋が凍りつく感覚に襲われる。
だって、目が訴えているから。
“邪魔”だと。
あからさまな敵意を感じる態度に、どう接すればいいのかわからない。
なんて、返せばいいの…?
何も言えずにいるわたしにしびれを切らしたのか、「玲央奈」と呼ばれた彼女は視線を逸らした。
「…ま、いーや。もうシフト終わるから、理央に送ってもーらおっ」
「…は?いや、それは無理──」
「私、理央がいないとダメなの。ね?理央なら…わかってくれるでしょ?」
「っ…」
理央が彼女の言葉に頷いて、彼女はニコリと嬉しそうに笑う。
苦しそうにしている理央と、軽い足取りでバックヤードに戻っていくあの子。
対照的すぎる二人を前に、私は一言も発することができなかった。
結局その日は、理央のことなど何も聞けずじまいで。
腕を組んで去っていく美男美女と、一口も口にすることが無かったパフェを思いながら帰路に着いた。
不思議と、涙は出なかった。
「……今日も寝不足だなんて、参っちゃうわ」
次の日の朝、目を覚ますとまぶたが重くて気分が下がった。
ただでさえ昨日もよく寝れなかったというのに、こうも立て続けに寝不足だと体調が不安になってくる。
「…なんて、そんなこと言ってられないわよね。早く支度してさっさと学校に行きましょう」
なんとなく重たい身体を叩き起こし、着替えてからリビングへと向かう。
コーヒーとトーストが醸し出すいつもの匂いが漂ってきて、少し気分が晴れた気がした。
「おはようお母さん」
「おはよう薫ちゃん。今日も早いわねぇ」
私とお父さんの分のお弁当を作ってくれているお母さんに声をかけると、瞬間笑いかけてくれる。
私の顔を見て笑顔になってくれるような…そんな理想のお母さん。
「ご飯用意できてるから、顔洗ってらっしゃい」
「うん、ありがとう」
お母さんに言われて洗面所に行くと、お父さんがちょうど出てきたところだった。
「お、薫子おはよう」
「おはようお父さん。使っても大丈夫?」
「あぁ、今終わったところだからな」
お父さんはあまり笑わないけれど、いつも私のことを思ってくれているというのがとても伝わってくる。
絶対に私の目を真っ直ぐに見て話してくれるからかもしれない。
顔を洗い終わってもう一度リビングに戻ったら、お父さんとお母さんが同時に私を見てた。
「…どうしたの、二人とも…私、何か変?」
「…ううん、なんでもないわよ?」
「たまたまだよ。たまたま」
「……」
気づかれている。
私の様子がおかしいことに、二人はもう気づいてるのだ。
お母さんは答えるまで変な間が空いたし、お父さんは同じことを二回繰り返す時はたいてい嘘をついているもの。
私にバレないはずがない。
なのに、何も聞いてこないのはきっと…。
「薫ちゃん、そのジャムどうかしら?お父さんが出張のお土産で買ってきたのよ。美味しい?」
「うん、すごく美味しい。お父さんありがとう」
「薫子が好きそうだと思ったんだ。口にあって何よりだよ」
“当たり前の日常”を、私が何より大好きだと知ってくれているからだ。
人生を捨てようとしていたあの朝は、今日みたいに暗く沈んだ気持ちではなかった。
たしかに、私がこの場所にいることを私自身が許せなかったけれど…二人は、許してくれたから。
辛くなかったし、苦しくもなかったのだろう。
でも…今は、あの頃とは違う苦しみが私を襲っている。
きっと、二人は私が何か言ってくるまで聞いてこない。
それは、私に無関心だからとかそういうものではなくて。
…“信じてくれている”からなのよね。
無償の愛を与えてくれて、私に家族の温かさを教えてくれた大好きな人たち。
そんな二人に、私も同じものを返したいと心から思う。
「ごちそうさまでした。私はそろそろ行くね」
席を立ち、食べ終わった食器を片付けてから二人に聞こえる声でそう言った。
そして、私なりの精一杯の笑顔を浮かべる。
「…お父さん、お母さん。いつもありがとう。行ってきます!」
カバンを手に取り、言い逃げるように玄関の扉を開けた。
もしかしたら何か聞かれてしまうかもしれないと思ったからそうしたけど…。
「余計に心配させてしまったかしら…」
外に出てから後悔する。
それでも、今、無性に伝えたくなったから…それでいいのだと思うことにした。
「薫ちゃんも、すっかり大人になったわねぇ…」
「でもまあ…俺たちにとっては、まだほんの子供だけどな」
「あらやだ、お父さんったら泣いてるの?」
「な、泣いてなんかないさ…!」
「ふふっ、もう〜素直じゃないんだから」
私がいなくなったリビングで、そんな会話が繰り広げられていたことなど知る由もない。
*
「薫子、ちょっとこっち来て」
「え?翼?ちょっ、引っ張んないで…!!」
教室に着くや否や、制服の袖を引っ張って私を連れ出そうとする翼。
一体なんなの…!?
理由も話さず無言を貫く翼に、戸惑いを隠せない。
学校に来るまでは理央のことで頭がいっぱいだったのに、今はそんなことを考える余裕もなく。
「ねぇ、ちょっと翼…!?いきなりどうしたのよ…!?」
私を見るなり意味のわからない行動をとる親友の方が、何百倍も心配だ。
「……」
私があまりにも焦っているからかなんなのかわからないけれど、翼は足を止めてくるりと振り返った。
まじまじと翼を見つめても、一向に表情が変わらない。
強いて言うならば、無である。
「…つ、翼?」
流石に何か言って欲しくて、顔色を伺うように顔を覗き込むと。
「っはあ〜〜〜〜」
これでもかというほどに大きく、長いため息を吐いた。
えっと、それはどういう心情なのかしら…?
とりあえず翼が話し出すまで黙っていると、いつになく真剣な表情で私を見据えた。
「薫子が二日間も寝不足でクマ作ってるとこ、私は見たことないよ」
「っ…!!」
翼が本気で私の心配をしてくれている。
いつもはつっけんどんな態度の翼が、ここまでしてくれている…。
そのことがとても嬉しくもあり、同時にそれだけ心配をかけてしまっているのだと思うと心苦しい。
「別に話したくないなら聞かないし、無理に聞き出そうともしないよ。いつもそうだったしね。それくらいは嫌でも知ってる」
「う…」
心配してくれてるけど…かなり怒ってるわね、これは。
自分のことながら、聞いていて耳が痛くなってくる。
「薫子は一人で溜め込みやすいくせして、誰にも話そうとしないっていうのも…ちゃんと、分かってるけどさ。でも…心配くらいはさせてよ」
耳が痛い…けれど、それ以上に温かい。
「親友でしょ?私たち」
ニカッと歯を見せて笑う翼の笑顔が、心に染み渡る。
…本当に、良い親友をもったわ。
「っ…えぇ。もちろんよ…っ!」
だから、私もそれと同じくらいの笑顔で返した。
今朝お父さんとお母さんにも見せたように。
「やっぱり、翼には敵わないわね?」
「ふん、とーぜんでしょ。何年親友やってると思ってんの?」
「ふふふっ。ありがとう、翼」
こんな私のことを思ってくれてありがとう、って伝えたいの。
「私がしたくてやってるだけだから、お礼なんていいんだけど…」
「別にいいじゃない。大事よ?感謝の気持ちは伝えられる時に伝えておかないと」
「ふっ…そういうものなの?」
「そういうものよ」