1

 青銅色の無表情の貌、背広の裾を翻させて。幾体もの人体が集合している。若き薩摩の群像、銅像群。


 早朝未だ六時前、真夏の朝は蒸し暑い。銅像群は底光りしている。その前に若い女性が佇んでいた。


 女性の眼に深い不安がよぎる。彼女は誰かを待つように、その場を離れない。人通りは未だ疎ら、背景に駅ビルと観覧車がそびえ立つ。


 彼女、中村哲美は漸く銅像を離れた。高麗町に向かって歩き始めた。歩きながら、彼女はスマホを出した。


 哲美は、私立探偵亀田の携帯を呼び出した。亀田は暫く電話に出ない。或いは未だ眠っているのか。


「はい、亀田です」


「中村哲美です。朝早く済みません。私、どうしていいか判らなくなって」



「そんなに深刻に捉えなくて良いと思います。ご主人の次郎さんは、唯の浮気なんですよ」


「でも私、主人が他の女を愛していると思うと、どうしても居たたまれなくて。どうしても絶望的になってしまうんです」


「まあ、我々は大人です。大人の対応をしましょう」


「と仰有ると」


「次郎さんは貴女との離婚迄は考えておられない。手切れ金を支払って、情婦と別れさせれば良いだけの話です」


「そんなにスムーズに物事が運ぶでしょうか」


「大丈夫です。私は職業柄、こんな状況は慣れています。今までの経験から申し上げて、十中八、九滞りなく話を進められます」


「そうですの。それならきっと……いえ、矢張り不安ですわ」


「今日わたくしがご主人に会って、交渉致しましょう。必ず上手くいきますよ」


「宜しく御願い致します。本当に何から何迄お世話になって」


「規定の料金は頂きますので、お気になさらずに」


「はい、判りました。では宜しく御願い致します」


 哲美はスマホを切ると、やや速歩になった。高麗町を通り抜けて、二中通りまで出るつもりだった。


 夏特有の生暖かい風が強風に変わった。哲美の長い髪は大きく靡いた。


 哲美は、背後の尾行者には全く気付かなかった。茶色いレインコートの人物が、いつの間にか背後に忍び寄っていた。

 
 ソフト帽に濃いサングラス、黒マスクで、尾行者の貌は隠されていた。不意に尾行者は駆け出した。


 周囲に通行人は見当たらない。尾行者は哲美の前面に出た。


「貴方、何?」


 レインコートの人物はポケットから何か強烈に輝くものを取り出した。刃渡りの長いナイフだった。


 哲美は悲鳴を上げた。


 尾行者はナイフの切っ先を、無感情に哲美の腹部に突き立てた。



     2

 亀田浩志は珍しく多忙だった。一件、妻から依頼を受けた、夫の浮気の問題で、夫に今日会わねばならない。


 然しもう一件、午前中に別の相談の予約が入っていた。極貧の探偵事務所はそれなりに盛況で、亀田は密かにほくそ笑んだ。


 午前9時丁度の約束だった。江口英子というフリーターらしい二十五歳の女性が、折り入って頼みたいことがあると事前連絡してきた。


 内容は未だ聞いていないが、様子ではそれ程厄介な依頼でもなさそうだった。


 よって躊躇わず、浮気の件と掛け持ちすることにした。


 9時きっかりに、江口英子は大黒町の事務所を訪れた。亀田はデスクの前の安楽椅子を勧め、冷たい飲み物を供した。


「江口英子と申します。フリーターをしております」


「具体的には」


「ローソンとマクドナルドのバイトを掛け持ちしてます。主人と別居中で、働かなければならないんですけど、資格も何も持っていませんので、割に過酷なフリーターです」



「失礼ですが、探偵料の払いは大丈夫ですか」


「主婦の時期に少し貯金があります」


 亀田は頷いた。


「で、どういうご用件でしょう」



「わたくし旧姓綿名と申します。それで、私の祖母の綿名麗の介護を御願い致したいんですの。祖母は今年80歳です」


 亀田は訝しげに頸を捻った。


「老人介護ですか。それは一寸お門違いではないかな」


 英子は頷いた。


「判ります。でも実際の私立探偵と便利屋の違いは曖昧と、伺ったことがあります」



「それはそうですが、プロの介護士を雇われたら如何です」


「介護保険では行き届きません」


「有償で特別に雇えば。生体システムの素人は何も出来ませんよ」



「祖母は体は特に何ともないんです。唯、酷い認知症で周囲は大変なんです」


「施設入所を検討なさるべきかもしれませんね」


「施設には入れたくありません。私、狡っ辛い介護士を家に入れたくないんです。何とか介護を御願い出来ませんでしょうか」



 亀田は嘆息した。


「規定の料金を頂ければ、まあ宜しいでしょう」



「有難うございます」



「ご実家はどちらですか」



「伊敷の方ですわ。あの、伊敷城をご存知ありませんか」



「城ですか、いいえ、知りません」


「家が個人で所有している城跡なんです。家は旧家で、薩摩に一度は逆らって潰された一族の末裔」


「そんな城が鹿児島市にあるんですか」



「ええ、もう土塁しか残っていませんけど」


「なる程」


「祖母の錯乱もその辺りに根があるんですの」


「認知症理解の為に、俄勉強が必要らしいですね」


「早速明日から御願い出来ませんでしょうか」



「それは一寸、他の仕事もありますので、少しだけお時間を頂けますか」


「判りました」


    3

 江口英子が帰ると、亀田は先ずCDを掛けた。キャンドルマスのライブだった。勿論二番目のヴォーカルは初代のようには歌えない。が、それはスタイルの違いで、能力差ではないと強引に思った。


 例えばブルースディッキンソンのようなタイプで、オペラティックに歌い上げる訳ではない。ドゥームの演奏は相変わらず素晴らしいから良いのだ。


 サバスに比較して、リフメーカー、アイオミが欠けているが故に、重く沈み込む曲調ながら印象的リフに案外乏しい。


 要らぬ注文は止めておこうと思う。とても良いベテランバンドなのだから。


 ブラックメタル系はリフは似たようなものとしても、レベルの高い歌唱は無い。


 矢張りキャンドルマスを聴く。


 ふと思い返して、CDをマークボールズに変えた。二、三年前日本人ギタリストを擁立した彼のライブを観た。


 クラシカルなハードロックでとても良い。イングウェイも惜しいヴォーカルと訣別したものだ。


 イングウェイは然し、ヴォーカリストの選択を誤ったことは嘗てない筈だ。


 マークのハイトーンは耳に心地良い。


 不意にデスクの電話が鳴った。


「はい、亀田探偵事務所」


「私だ、事務所に居るのか」


 従兄弟の安田警部補だった。


「はい、居ります」



「テレビニュースを見たか?」



「いや、観てません、何か」



「中村哲美が殺害された」



 一瞬たじろいだ。


「何ですって、朝早く、電話で話したんです」


「その直後に殺された。ナイフでの刺殺だ」



「酷いですね、まさか、有り得ない」



「受容しろ、彼女は死んだ。彼女とは知り合いだな」



「ええ、でしたね」



「御前の仕事の依頼人だろう?」



「依頼人の秘密は守りたいんですが」



「それどころではない。御前は本件の重要参考人だ」


「どうなるんです。私を逮捕するとか」


「そうではないが、依頼人の秘密は喋って貰う」


「守秘義務は」


「看板を外させるぞ、県警としては。御前に選択の余地はない」


 亀田は深く嘆息した。


「で、どうすればいいんですか。迎えに来てくれますよね。ガソリン代も高いので」



「心配するな、連行しに来てやる、丁重にな」



「嗚呼、亀田探偵も終わりか」


「無駄口は利くな」

 
 約20分後に来たパトカーに、亀田は強引に乗せられ、鴨池新町の県警本部に向かった。制服警官から唯ならぬ緊張感が伝わってきた。


 単に殺人事件というだけではない、もっと巨大で陰湿な事件らしかった。県警は連続殺人を警戒していることは、亀田の皮膚感覚で十分感じ取れた。


 飽くまで丁重だったが、取り調べ室に任意同行を促された。亀田の緊張も半端ではなくなった。


「さて……」安田警部補は言った。「済まないが、事情聴取だ」


「結構ですよ」


 電気スタンドがあるだけの、殺風景なテーブルに二人は対座した。



「他の刑事は退席させよう。その方が良いだろう」



「有り難いです」


 取り調べ室に二人だけ残された。


「さて、中村哲美の依頼はどのようなものだった?」


「別に、型通りの夫、次郎氏の浮気調査でした」


「次郎氏の浮気相手は?」



「同じ会社に勤める、部下に当たる伊藤恵子。格別変哲もないオフィスラブです」



「次郎氏は離婚の意思はあったのか」




「いいえ、ないでしょう。調査によれば、それ程深い間柄ではないようです」


「痴情の縺れで、哲美さんの殺害に至る状況はなかったと言うんだな」



「ええ、私はそう思いますが、警察も調べてみてください。別の面が未だ隠されているかもしれません」



「判った。此方も情報を提供しようか」



「御願い致します。誰からも今回の殺人事件の調査を受けている訳ではありませんが」


「このメール文を見てくれ」



 警部補は資料をテーブルに乗せた。亀田は手に取って、それを黙読した。


 私は余りにも脆弱。
 余りにも弱いから、他人から殺される。

 この世は本物の非情世界。
 経済学に基づく政策からしてそう。
 
 競争が鍵概念

 競争に敗れた者は死ななければならない。

 セーフティネット等嗤うべき偽善で虚構。

 間違いなく人が人を殺す現実世界

 社会福祉など機能した試しはない。

 唯、この世の裡に隠り世を提供するのみ。

 人は人を殺す。ならば本当に殺せば良い。
 
 パターナリズムやスティグマの犠牲者による復讐は、正当化されるべき。

 どんな残虐も、この世の真の残酷には敵わない。



 読み終わって、亀田は鋭い視線を上げた。


「これは犯行声明ですか」
 

「哲美のスマホから、今朝MBCに送信されたメール文だ。犯行声明に違いなかろう」



「これは明らかに痴情の縺れによる犯行ではありませんね」


「そう見えるな。競争が鍵概念の政策とは、新自由主義のことだろう。政治的なテロかもしれない」


「なる程」


「実はな、御前と少し話したかったんだ」


「相談するために、私を呼んだんですか」



「勿論、それだけが目的じゃないがな。これは相当に厄介な事件だ」


「政治的なテロで、今後連続殺人となる可能性もある」



「あるだろうな」


「然し、医療パターナリズムとスティグマの犠牲者と言っているのだから、精神障害者の犯行では?」


「ああ、然し明らかな知能犯だ。政策や社会福祉にも通じている」


「確かに厄介ですね」


「確かに御前の言う通り、精神障害者が書いたようにも見える。人間憎悪は深い、然し」



「そのスマホに指紋は?」



「ない。スマホ用手袋を使用したと見られる」



「凶器は出て来たんですか」



「いや、出ていない」


「じゃ、手掛かりなしでしょうか」



「レインコートを着た不審者の目撃情報はあるが」



「其奴の顔は?」


「サングラスと黒マスク、ソフト帽で不明だ」

 
 二人は同時に嘆息した。


「政治不信と人間憎悪による無差別殺人なのだろうか」警部補が言った。



「未だ何とも。相手が連続殺人鬼なのか否かも未だ判断は付きません」


    4

 亀田は介護福祉士のテキストを速読した。この世界の奥深さを知り、遣っていけるか暗澹となった。


 翌々日から綿名邸に勤務した。江口英子が邸を案内した。屋敷は広大な旧家で、隣が伊敷城、城跡になっている。


 県教育委員会の歴史的立て看板があり、確かに城址の謂われは、薩摩に対する反逆、当主の切腹だった。陰惨な雰囲気の土塁は然し、苔生してそれと判らぬ程だった。


 英子は綿名麗、今年80歳の老女を紹介した。小柄な女性、歳よりも若く見えて、未だ未だかくしゃくとしていた。


「亀田と言います。貴女の新しい介護士です。宜しく御願い致します」



 麗は答えない。何処か遠くを見ている。


「麗さん、ご機嫌如何ですか」



「呪われている」




「はあ?」




「貴方には理解出来ないでしょうな。この屋敷の血は呪われているのじゃ。伊敷城の所為だ。貴方はゴシックロマンスの世界が実在するとは信じられないでしょうなあ」



「ゴシックロマンスですか」



「左様、城の呪われた血を現代まで受け継いで、恐ろしいことが起きる」



「なる程、麗さん、私にも理解出来ると思います」



「嘘じゃ」



「いえ、先刻見た城址の重苦しい雰囲気にわたくしも感染したようです」


「それなら、貴方も見るじゃろう。この邸内で、悪魔を」



「悪魔がいるんですか」




「居る。我々を皆殺しにするじゃろう」



「お婆さん、駄目よ」英子が言った。「お薬を飲まなくてはいけないわ」



「嫌じゃ、私は薬など飲まんぞ」



 英子は亀田に耳打ちした。


「何とか宥めて飲ませてあげてください」



「判りました」



 大変な仕事を引き受けたなと、亀田は思った。予想以上に肉体労働らしい。



「どうしても薬を飲まない時は、貼り薬を御願いします」



「なる程。そういうものもあるんですね」




 貼り薬は必要なかった。亀田が宥めると、麗は大人しく薬を飲んだ。どうやら亀田は信用されたらしい。理解すると言ったことが功を奏したのだろう。



「それでは私は夕食の準備がありますから。キッチンに参ります」



「此処は大丈夫です。どうぞ」



「何かあれば携帯で呼んでくださいね」



「了解です」



 英子はその場を去った。二人取り残された亀田は、別の興味をも持って老女に接したかった。介護士が自分に勤まるか甚だ自信がなかった。



「麗さん、こういうことをお聞きしていいのかな」


「何かな」



「ゴシックロマンスの世界は私も興味があるんです」



「そうか、呪われた血を理解すると仰有るのじゃな」



「遺伝ということは最近では余り流行りません。DNAが解析されて、メカニズムが解明された所為でしょうか」


「それでは逆に流行るのでは」



「そうですね。唯、迷信の類が排斥されたということらしいです。あと、環境要因ということが言われます」



「此処の環境が悪い影響を及ぼすということかえ」


「そうかもしれません。しかし麗さん、我々の日常生活に帰りましょう。妄想はあっても仕方ないが、妄想と上手く付き合うことです」



「妄想などない」



「私も共感は覚えるんですが」




「真実、此処の血は呪われて居る」




「麗さん、このポットに入っているのは紅茶ですね。お飲みになりませんか」


「紅茶など要らん。一つ教えよう」



「何ですか」



「この邸には開かずの部屋がある」



「開かずの部屋?」


「興味がおありなら、調べてみなされ」


「どうしますかね」


 亀田は部屋の一隅に眼を留めた。


「あの人形は何ですか」



 少女の西洋人形があった。口の部位が開閉するように出来ていた。一寸不気味な感じの人形だ。



「それは腹話術の人形じゃ。それにも興味がおありかな」



 亀田探偵は人形を手に取った。背中から手を差し入れて、口の部位を動かす仕組みになっていた。


「大分旧いものですね。英子さんの子供の頃の持ち物ですか」



「それは英子のものではない」



「それでは誰の?」



「ノーコメントじゃな」



 亀田は苦笑した。


「構いませんよ」


 西洋人形はあどけなく微笑している筈だが、その眼は鋭く、決して笑ってはいなかった。


    5


 真紅の血塗られたかのような画面。その中に、鋭利な刃物で切り裂いたと思しき傷が斜めに三本入っている。


 ルチオフォンタナの絵画とも彫刻ともつかぬ作品の前から、小橋陽子は離れた。陽子は今年二十歳になる大学生、実は恋人と分かれたばかりだった。


 本当は彼氏と一緒に来る筈だった市立美術館に、寂しく独りで訪れた。どの絵画も、彼女の孤独を表現しているかのような錯覚に捕らわれたが、本来的に芸術作品は何人かの孤独感の表現なのだろうか。


 ルドンの幻想的な暗い色調。ピカソの精神破綻しかたの如き抽象画。カンディンスキーの幾何学的な画風。全てが社会からの孤立を表して、目眩を感じさせた。


 時代錯誤の幻惑を助長する円柱の前を通り、大袈裟な作りの階段を降りると、陽子は外へ出た。


 街路には既にガス燈が灯っていた。中世に逆戻りしたような、街の様式は目眩を存続させる。
 

 何事かの予兆を陽子は感じ取っていた。真夏であるにも拘わらず、冷たい北風が彼女の躰に無感覚に吹いた。



 陽子の眼前に、フォンタナの鋭利なナイフを幻視。彼女は無感動だった。



 矢庭に、ガス燈の背後からレインコートの人物が現れた。陽子には何が起きるか分からなかった。


 予兆が無感覚の空白を暫し齎していた。


 レインコートの人物が、ポケットからギラギラ光る刃物を取り出した。


 初めて陽子は悲鳴を上げた。


 次の刹那、刃物が彼女の胸に突き立った。




     6

 
 綿名邸の古風な回り廊下の果て、北向きの奥部屋が、綿名麗の教えた開かずの部屋らしかった。


 亀田は、英子が仕事に出掛けてから、独りこの秘密という部屋の前に来た。


 ドアには鍵が掛かっていた。亀田は、昔ながらの鍵穴から内部を覗いてみた。


 チラチラと動く人影が見えた。誰かが部屋に閉じこもっているらしい。


 亀田は恐る恐る声を掛けた。


「誰か中に居るんですか?」



 返事はなかった。


 亀田は再度呼びかけた。


「煩い、何ですか?」


「誰かいらっしゃるんですね。私は麗さんの新しい介護士です」



「介護士さん。私はこの家の次女です」



「英子さんの妹さんですか」


「そうです」



「紹介は受けませんでしたが」



「私は紹介などされません。此処は言わば座敷牢ですから」



「座敷牢。すると貴女はご病気ですね」



「はい」



「ドアを開けて頂けませんか。お話がしたい」



「ええっ!……姉には内緒ですよ」



「お姉さんに秘密は守ります」



「私、内緒でドアの鍵を持っているんです。少し待ってください」



 すると鍵は本来内側からも開かないらしい。開かずの部屋という呼称は誤りではない。


 ドアが開いて、現れたのは英子に良く似た、二十歳くらいの少女だった。



「私は亀田と言います。貴女は?」




「綿名ミクと言います。二十歳の大学生です」



「でも引きこもりなんですね」



「ええ、酷い引きこもりです。余り酷いので姉から此処に幽閉された」



「まあ、私は良いと思います。精神病に関するごく初期の法律、私宅監置禁止の法の奥深い名残によって、日本は施設主義、雑居処遇の悪弊を築いたと、私は思うんです」



「流石は介護士さんですわね」



「普通こんな介護士はいません。私だって、本くらい読むんです」



「私はこの部屋に半年くらい閉じ込められています」


「そうですか。ご病気は何です」



「何もない。何もないのに日を追ってカルテが悪くなるんです。私はイタリア映画のファンなんです。イタリアのジャーロの」



「ダリオアルジェントやルチオフルチですか」



「その他にも、セルジオマルチーノやウンベルトレンツィ等も。そうしたら、暴力嗜好があると言われて、病院に閉じ込められました」



「現実とエンタメの区別か付かないのだろうか。精神科医は」


「分かりません」



「此処で別にネグレクトは受けていないんですね」



「此処は比較的居心地の良い隠れ家です」



「私はこの邸内で、雇われた介護士だから、貴女の面倒も見るべきかもしれない。何か私に要望はありますか」



「あの、テレビが観たい」



「アンテナの線はありますか」




「あります」




「私に宛がわれた部屋に、小型テレビがあります。持って参りましょう」


 亀田はテレビを運んできた。



 MBCのテレビニュースが映った。



 姿無き殺人鬼の犯行が、鹿児島市で再びありました。被害者は鹿児島大学の学生、小橋陽子さん、二十歳……。



「何ですって」



「どうかされました。このニュースは今朝から繰り返し報道しています」



「小橋陽子さんは、私の大学の同級生なんです。まさか彼女が」



「確かにそれは驚きですね。意外な偶然だ」




 MBCに犯行声明が再度送られてきました。


 私は捕まりたい。
 警察に逮捕される願望がある。

 国家権力による死が私の理想。

 絞首刑は最も官能的な死。

 死を我に。



 ミクは泣きじゃくった。



「陽子さんは何度もこの家に遊びに来たのに。柳沢逸美さんと一緒に。あんなに元気だったのに」


「これは叔父さんに連絡しなきゃいけない」



「何ですの」



「いや、此方の話です」



     7

 隠り世に魑魅魍魎が跋扈している。悪鬼の類であったり、餓鬼だったり、三ツ目の怪物達。彼らに追われていた。


 大きな鎌を持った死神が次に現れた。

 逃げ場はなかった。彼らに肉体を切り刻まれる。恐怖は心臓停止近くまで大きかった。


 亀田は真夜中目覚めた。


 綿名邸の宛がわれた自室で眠っていた。


 枕元のブランデーをグラスに移して飲み干す。


 これまでの事柄を一度整理する必要があった。


 悪夢の名残で、思考は不鮮明。


 何か一つに仮説が纏まりつつあった。


 不意に、枕元のスマホが鳴った。



「はい、亀田です」



「私だ、安田だ、起こして悪かった」



「何かありました」



「また殺しだ」



「何ですって」



「また二十歳の女性が刺殺された」


 亀田は絶望的に顔をしかめた。


「誰が殺されたんです」


「柳沢逸美という鹿児島大学の学生だ」



 亀田は痛恨の極みの表情になって



「畜生」と叫んだ。



「彼女を知っているのか」




「綿名ミク、小橋陽子と同級生ですよね」



「その通りだ」



「で、現場の状況は?」



「騎射場の電話ボックスが犯行現場だ。……でだな、ボックスの床の灰溜まりに、マスクが落ちたらしい痕跡がある」



「つまりどういうことだろう」




「犯人にマスクが落ちて、被害者は犯人の顔を見た可能性がある」



「すると、何かダイイングメッセージは残っていませんか」



「判らんが、被害者の持ち物の硝子の水筒に、一匹の蜘蛛が入っていた」



「水筒に蜘蛛?何処かに蜘蛛がいたんですか」



「電話ボックスに大きな蜘蛛の巣がある」



「……」



「被害者が水筒に蜘蛛を入れたと思われる。これには何か意味があると思うか」




「被害者は即死ではない?」



「その通りだ」



「う~む」



「それにだな、被害者のバッグから一枚のCDがこぼれ落ちていた」


「誰のCDですか」



「デヴィッドバーンというミュージシャンのレイモモというアルバムだ」



「なる程」




「この意味が判るか」



「データが足りない。被害者は他にどんなアルバムを所持しています?」




「そうだな、それについては新村刑事が答えるだろう。折り返し電話させる。彼は今、被害者のマンションにいる」



「電話待ってます」




 電話は一旦切れた。




 いつの間にか、部屋に江口英子が入ってきていた。



「何かあったんですか」




「柳沢逸美さんが殺されたんです」



「まさかそんな」


「本当です」



 スマホが鳴った。



「新村です」



「ああどうも、で、逸美さんはどんなCDを持っていますか」




「沢山あります」



「トーキングヘッズはあります?」




「……いや、ないです」




「レディオヘッドは?」





「それは沢山あります」




「判りました。それだけで結構、有難うございます」



 電話は切れた。



「さて、これで決まりですね」亀田は言った。



「何がですの」




「事件解決」



「何ですって」



「柳沢逸美は死に際にダイイングメッセージを残した。詰まり、ボトルに入った蜘蛛とデヴィッドバーンのCD。バーンのCDはラテン音楽。これはラテン語を示す。蜘蛛のラテン語、アラーネア。濡れているから、wetを加える。簡単なアナグラムなんです




WETARANEAE。これを並べ変える。


WATANA REEE


これは綿名麗を指すのではないでしょうか。


逸美はマスクの取れた犯人の顔を見た。



逸美はこの家に来ていたので、麗の顔を知っている。



80歳の老女に犯行は可能か。鋭利なナイフを刺すだけ、可能でしょう。



然し此処に残りのEEがある。これはイニシャルではないか。即ち江口英子。


これが真犯人の名か?


此処には矛盾がある。逸美は二十歳の女性で、レディオヘッドのファンだった。



実はトーキングヘッズは過去のバンド。


若者の間では、人気はとっくにレディオヘッドに更新。逸美さんがバーンを聴く筈はない。



すると、このダイイングメッセージ自体が偽装ではないか。



そもそもこの事件は、第一の犠牲者はわたくしの依頼人だった。


また、探偵を介護士として邸に入れた。



第二の犯行声明は、犯人の捕まりたい願望を示していた。絞首刑が望みだと。



そして犯人自身が自分を指すダイイングメッセージを残した。



これら全てが、江口英子、貴女が犯人だと示しています」



 江口英子は微苦笑した。


「では動機は何ですの」



「一族の呪われた血、全ては快楽殺人」



 英子は甲高い声で哄笑した。


「今から携帯で警察を呼びます。逮捕される、それが願望でしょう」



 英子は真顔で頷いた。