その頃、会社では沼井が一人悶々としていた。
「俺が社長になって以来、社内はトラブル続きだ。 営業不振に始まって管理部の虐めに、取締役の賄賂、、、。
ああ、俺はどうしたらいいんだ?」
 先代に腕を買われて部門を増やしてきたのはいいのだけれど、それが全て裏目に出てしまった。
特に悲惨なのは管理部だったろう。 風通しの悪い部署でパワハラだけならともかく陰湿な虐めが横行するとは、、、。
それが積もり積もって自殺者を出してしまったんだ。
ああ、どうすればいいんだろう?

 彼の悩みに同苦する人は皆無だった。
 そんな沼井が自殺を仄めかした時、、、。
「社長、社長が自殺したら私たちはどうすればいいんですか? せっかくプロジェクトチームも動き出したというのに、、、。」
初枝は彼の苦悩を一番知っていたんだ。
日曜日だというのに、社長室に一人で籠っている沼井を心配して見に来たのだった。
「柳田さん、先代には腕を買われていたが、今の事態は乗り越えるだけの自信が無いんだ。 後は頼んだよ。」
「ダメよ。 今死んだらあの人は永遠に浮かばれないわよ。 分かってる?」 「それは、、、。」
初枝は急いで栄田と河井を呼び付けた。 「社長、、、。」
「河井君たちも来たのか。」 「高木さんだって会社のために必死なんですよ。 死ぬなんて卑怯だ。」
「しかし、、、。」 「しかしもくそも有りません。 ここは俺たちに任せてください。」
「そうだよ。 取締役がどう言おうと俺たちが変えてみせるから。」 「ありがとう。 頼んだよ。」
 初枝はその日の夜、俺の家に飛んできた。
「何だって? 沼井が?」 「危うく自殺するところだったのよ。 何とか引き留めたけど、、、。」
「すまないなあ。 心配ばかりさせちゃって、、、。」 「いいのよ、会社のことだから。」
「明日にはプロジェクトチームの答申が出されるよね? 動くのはそれからだ。」 「分かってる。 沼井さんもよろしくって言ってたからやらなきゃね。」
夜中だというのに急を聞いたのか、尚子も飛び込んできた。 「高木さんがどうしたって?」
「おいおい、俺じゃなくて沼井君だよ。」 「え? 社長なの? なあんだ。」
「なあんだは無いよ。 これでも一大事だったんだから。」 「で、どうしたの?」
「行き詰って自殺しそうになったんだ。 あいつはああ見えて神経質だからなあ。」 「ふーん。」
「なんとか柳田さんたちが思いとどまらせたらしい。 でもこれからが大変なんだよ。」 「そうよねえ。 あのおっさんたちを片付けないと何も変わらないわ。」
尚子は呆れたように椅子に腰を下ろした。 旅行の疲れも一気に出てきたらしい。
「なんか、損した気分ねえ。 せっかくのリフレッシュだったのに。」 大きく背伸びをして窓の外を見る。
街灯がぼんやりと道を照らしている。 歩いている人など誰も居ない。
初枝が慌ただしく帰って行った後、尚子は俺の膝に座ってきた。 「高木さんだけが頼りなのよ。 私も柳田さんも。」
「俺はただ長く務めてきただけだよ。」 「だから何でも言えるのよ。 社内を見てきたんでしょう? はっきりと言うべきだわ。」
「でもなあ、、、。」 「腰抜けでどうするの? 嫌なことが有ったら私を抱いて忘れればいいじゃない。」
「そんな簡単なことじゃ、、、。」 「簡単よ。 人間を変えるのは難しいけど、機構を変えるのは簡単よ。」
「んまあ、、、。」 「ねえ、今夜も抱いてくれるわよね?」
言うが早いか、尚子はさっさとパジャマに着替えて寝室へ行ってしまった。
俺も居間の電気を消して寝室へ、、、。 枕元に小さなランプが光っている。
「旅先で買ってきたの。 これねえ、スタンドにアロマを入れることが出来るんだって。」 「アロマを?」
「そうよ。 高木さんには萌え萌えになってほしいから、、、。」 「まいったなあ。 シースルーの次はアロマか、、、。」
「何それ?」 「ああ、前の嫁さんが遊びに来てたんだよ。 久しぶりに。」
「で、、、抱いたの?」 「う、、、。」
「そっか。 私は二号さんね?」 「おいおい、、、。」
「さあ、寝ましょう。 私が腕枕をしてあげる。」
仄かなランプに照らされて尚子が妖艶な女に見えてくる。 いつもと変わらないはずなのに、光加減でこんなに怪しく感じられるとは、、、。
俺はなぜか鼓動が激しくなるのを感じていた。 康子を抱いた時以上にね。

 気付いたら俺たちはドロドロに溶けていた。 まるで精魂尽き果てたように寝入っていた。
だから朝が来ても気付かなかった。 何度か電話が鳴っていたらしい。
昼を過ぎてやっと目を覚ました俺たちは互いの顔を見合わせて思わず考え込んでしまった。
(あんなに激しく奪われるなんて、、、。」 「初めてだな、こんなに攻め尽くしたのは、、、。)
そこへ留守電の声が聞こえてきた。 「今日さあ、沼井社長に答申案を出しておいたからね。 社長も喜んでたよ。」
栄田の声だ。 (しまった! 完璧に寝坊したよ。)
でもなぜか尚子を責めたいとは思わない。 抱いたのは俺だから。
 「二人揃って寝坊しちゃったわねえ。 あははは。」 無邪気に笑う尚子に俺はホッとした。
「それにしても激しかったわねえ。 奥さんともあんだけやってたの?」 「いや、、、。」
「奪い尽くさなきゃ可哀そうよ。 高木さんを今でも愛してるんでしょうから。」 「そりゃまあ、、、。」
「奥さんが戻ってきてくれたら私は消えます。 蛍みたいな女ですから。」 「蛍?」
「そう。 宵闇にそーっと光ってる蛍。」 「尚子ちゃん、、、。」
パジャマ姿の尚子をじっと見詰めている俺、、、。 そこに何が有るのか分からないけれど何かが俺に訴えてきていた。
尚子を取るのか、康子を取るのか決めなければ、、、。 でもそれが簡単なことではないことくらい俺にも分かっていた。
尚子はこれまで誰にも抱かれなかった女である。 康子だって、、、。
その二人を抱いてしまって、さらにその女二人にこんなにも愛されている。
魅力と呼べるほどの物が無いのになぜ尚子たちは俺を愛してくれたのだろうか? 俺には分からない。
微妙過ぎて繊細な女心などこれまで全く考えたことも無かった俺だ。 そんな男にこの二人を愛する資格は有るのだろうか?
 沈黙は長く続いた。 尚子は紅茶を飲みながらベランダを見詰めている。
いつものように飼い犬を連れたじいさんが散歩しているのが見える。 遠くでカラスが鳴いている。
物静かな町の中で静かに風が流れていく。 俺の胸は得体の知れぬ何かに占領されているようだ。
尚子が立ち上がった。 何をするのかと見ていたら寝室へ入って行って、それっきり出てこない。
 静かに静かに時間が過ぎていく。 尚子はずっと寝室から出てこない。
何をしているのかと気になって覗いてみたら、、、。 「あらあら、高木さんも見たくなったの?」
はにかんだ顔で彼女は笑っていた。 その姿は素っ裸で、、、。
「んぐ、、、。」 「見てもいいのよ。 高木さんの女なんだから。」
「でも、、、。」 俺は焦ってしまって襖を閉めてしまった。