「お茶のおかわりは、如何ですか?」
マスターが、急須を持って前に立っていた。
「ありがとうございます」
隣を見ると、高橋さんの湯飲みも空になっていた。
「あの、高橋さんにも入れて頂けますか?」
「はい」
マスターは優しく微笑みながら、高橋さんの湯飲みにもお茶を注いでくれた。
もしかして、マスターなら……マスターなら、分かるかもしれない。
「あの……」
「はい」
こんなことを突然聞かれたら、いくらマスターでも引かれちゃうかもしれない。
でも……。
「お聞きしてもいいですか?」
「何でしょう?」
「マスターにとって、過去に好きだった女性ってどんな存在ですか?」
「過去に好きだった女性……ですか?」
ハッ!
言ってから、マスターのプライベートな部分に立ち入ってしまうことになると思い、やはり聞いてしまったことを後悔した。
「そうですねぇ」
「あの、応えにくかったら気に……」
「私にとっては、今があるわけですから。過去に好きだった女性は、やはり過去の女性でしかないですよ」
過去の女性でしかないって?
マスターの言っている意味が、イマイチよく分からない。
「その女性を好きだった。好きになったという事実は、往々にして忘れてしまうこともあるでしょうが、過去に自分が好きだった女性とのことは、良い想い出として取っておきたいですね」
良い想い出と……して……。
「男って、かなりロマンチストなんです。だから、別れてからたとえ酷い女だったと周りから言われても、自分にとっては好きになった女性ですから。やっぱり、良い想い出だけが残っているものなんです。良いことばかりじゃなかったはずなんですけどね。不思議と過去の女性との想い出は、殆ど良いことだけを思い出しますから。ハハッ……。男って、単純なんですよ。これは、私だけに当てはまることかもしれません。でも、男は大方そうだと思いますよ」
好きになった女性には、良い想い出だけが残っている。
「でも、それは今があるからそう思えるんですから、過去の女性より今自分の隣に居る女性の方が大切ですし魅力も感じます。あっ……申し訳ありません。少し、喋り過ぎてしまいました」
「そんな、とんでもないです。応えづらいことをお聞きしてしまって、ごめんなさい」
「いいえ。どうぞ、ごゆっくり」
すると、ちょうど高橋さんが戻ってくるところだった。
「お電話、大丈夫ですか? 中原さんからの呼び出しじゃなかったですか?」
旅行を途中で抜け出して来てしまっていたので、とても気になっていた。
私が居ないことなんて誰も気付くはずもないけれど、高橋さんが居ないのはやはり目立ってしまうから。
「ハハッ……。そこら辺は中原が上手くかわしてくれているはずだし、今更行っても始まらないだろう?」
「そうでしょうか……」
私のせいだから、本当に申し訳ないな。
高橋さんだって、旅行を楽しみにしていただろうし。
「ごめんなさい。私のせいで、せっかくの旅行に参加出来なくなってしまって」
「気にするな。それより、早く帰れて得した気分だ」
「高橋さん……」
「さて、そろそろ送って行くぞ」
「あっ。はい」
ほんの僅かだけれど、淡い期待をしていた。
もしかしたら、高橋さんのマンションに連れて行ってくれるかもしれないなんて、調子に乗った考えを少しだけ持っていたりして……馬鹿みたい。
ハッ!
高橋さんの背中を見ながらそんなことを考えているうちに、高橋さんが会計を済ませてしまっていた。
「マスター。後で、また伺います」
エッ……。
後で、また伺いますって?
「仁から連絡があって、寄るそうですから。その頃、また俺も伺います」
「そうですか。承知致しました」
「ご馳走様でした。美味しかったです。いつも無理言って、すみません」
「いいえ、ありがとうございます」
「ご馳走様でした。あの……ありがとうございました」
「また、お待ちしております」
マスターは微笑んで、お辞儀をしてくれた。
仁さんと後でまた来るってことは、私を送ってから高橋さんは戻ってくるんじゃ?
「高橋さん。あの……」
「お金もいらないし、お前を送って行ってからでも仁との待ち合わせには、まだまだ時間があるから大丈夫だ」
うっ。
まるで、高橋さんは私の心を見透かすように何もまだ言っていないのにその返事をしてみせると、そのまま私を車に乗せて送ってくれた。
高橋さん。
私は貴方にとって今、どんな存在なの?
私は、もう過去の女性になってしまうの?
「えーっ! 嘘ですよね? そ、そんな……私、困ります」
事務所中に、響き渡りそうな声を出してしまった。
「でも、午前中の会議でもう決まっちゃったから、仕方がないよ」
「ちょ、ちょっと、待って下さい。中原さん。何で、私なんですか? そういうの、絶対苦手なんです。む、無理ですから」
チラッと高橋さんを見たが、聞こえているはずなのに高橋さんは素知らぬ顔をしながらパソコンの画面を見ていた。
「高橋さん!」
「ん?」
慌てて、高橋さんの席に駆け寄った.
すると、高橋さんはパソコンの画面に向けていた視線を外し、椅子の背もたれをグッと後ろに反らせながら頭の後ろで両手を組んだ。
「もう。中原さんに、何とか言って下さい。何で、私が部内旅行の副幹事にならなきゃいけないんですか? しかも、会議に出席していた中原さんは委員じゃないなんて絶対おかしいですよぉ。無理です。中原さん。私、絶対無理ですから」
高橋さんの席の横に立って、必死に訴えるように中原さんに向かって言った。
「まあ、仕方ないだろう? もう、決まっちゃったんだからな」
「高橋さんまで……」
椅子の背もたれにグッと寄り掛かっていた背中を元に戻し、高橋さんは机の上で両手を組んだ。
「幹事は、誰なんだ? 中原」
「第2の佐藤です」
佐藤君?
確か、去年入社の子だ。
8月に異動して来た時、今年の新人だと挨拶を交わした記憶がある。
「ああ。去年入社の佐藤か。でも、もうホテルも毎回同じで決まってるし……そんな大変じゃないだろう。矢島さん。まあ、頑張れ」
「高橋さぁん……」
声のトーンが、下がってしまった。
やっぱり、逃れられないのね。嫌だなぁ……。
今は、まだ6月末で旅行は11月だけれど、仕事をしながらの進行なので、株主総会も終わった今頃から少し暇になる時期を見計らって早めにこういったことは決めて行く。
でも、まさか自分が旅行の副幹事になるとは思ってもみなかった。
高橋さんとは、あれからごく普通に接しているが、仕事が一段落して暇になった今は、残業で遅くなることもあまりないから殆ど一緒に帰ることも、送ってもらうこともなく、無論、週末に会うこともなかった。
父の納骨や、法人税の締め等もこなして慌ただしい日々を送っていたこともあり、高橋さんとは倒れた旅行の日、あの病院で話して以来、何の進展もないまま。
しかし、気持ちもだいぶ落ち着いて来ていたので、焦らずゆっくり待つと決めた信念を貫いていた。
「噂をすれば、本人登場だぞ」
高橋さんの声に反応して視線を上げると、向こうから佐藤君が歩いてきた。
「失礼します」
一応、高橋さんと中原さんに挨拶してから、佐藤君は高橋さんの隣に立っている私を見た。
「矢島さん。聞いてると思うんですが、今年の部内旅行の副幹事、よろしくお願いします」
佐藤君に、お辞儀をされてしまった。
「えっ? あっ。いえ……私は、別にその……やるつもりは……」
「矢島さん?」
中原さんが、思いっきり睨んでる。
「あっ……は、はい。ああ、あの……こちらこそ、よろしくお願いします」
ああ。結局、承諾してしまった。
「それで、毎週金曜日を打ち合わせの日に取り敢えずしたいので、早速ですけど今日金曜日なんで、終わってから打ち合わせをしたいんですが大丈夫ですか?」
「きょ、今日?」
エッ……。
何やら、痛い視線を感じる……。ふと見ると、高橋さんと中原さんが呆れたようにジッと私を見つめていた。
うわっ。
「あっ……は、はい。大丈夫ですよ。場所は、何処ですか? 事務所でいいですよね?」
「えっ?」
佐藤君が、驚いたような声を出した。
何で?
思わず、高橋さんの顔を見てしまった。
何故、佐藤君は驚いた声を出したんだろう?
事務所で旅行の打ち合わせって、いけないことなの?
見ると、高橋さんはパソコンの画面を見ながらキーボードを叩いていたが、その手を止めて横目で佐藤君を見上げた。
あれ?
今、何だか高橋さんの視線が怖く感じられた。
「そ、そうですね。それなら、事務所の空いてる会議室でも使いましょうか。じゃあ、仕事が終わったら声掛けますね。それじゃ……」
「ちょっと、いいか?」
佐藤君が席に戻ろうとした時、高橋さんが呼び止めた。
「はい!」
高橋さんは、入社の浅い佐藤君にとっても雲の上のような人だから、やはり佐藤君も最敬礼の口調になる。
「旅行の打ち合わせだが、9月と10月の頭だけは外してもらいたい。決算で、うちも忙しいからな」
「はい。それは、勿論です。他に、何かございますか?」
「それだけだ」
高橋さんは佐藤君の返事を聞くと、また直ぐにパソコンの画面に向き直ってキーボードを叩き出していた。
その日、仕事が終わってから会議室で佐藤君と部内旅行の打ち合わせをしていたが、気がつくとすでに20時を過ぎていて、慌てて今日は終わりにした。
もう3時間も、打ち合わせをしていたことになる。
すっかり、遅くなっちゃった。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「それじゃ、矢島さん。また来週の金曜日に、お願いします」
「はい……」
やることは一杯あるし、決めることも沢山あって、すでに1回目で疲れてしまった。
ドアを開けっ放しで使っていた会議室から佐藤君と一緒に出て、席に戻ろうと歩いていると、高橋さんが席に座ってまだ残って仕事をしている姿が見えた。
でも、中原さんは居ないみたいなので、先に帰ったのかもしれない。
「お疲れ様」
高橋さんが、私に気づいて声を掛けてくれた。
「お疲れ様です。まだ、残っていらしたんですか?」
旅行の資料を机の引き出しにしまいながら、帰り支度を始めた。
「ああ。来週の会議の資料が、まだだったからな」
相変わらず、高橋さんは忙しい人なんだ。
私の知らないところで、こうやっていつも仕事をしているんだろうな。そんなことは、何も口には出さないけれど。
「何か、お手伝い出来ることがあれば……」
「矢島さぁん」
エッ……。
その声は佐藤君のもので、こちらに向かって走って来る足音が聞こえる。
第2担当と会計は右端と左端なので、殆ど席からは見えない。まして、奥まっている会計は、キャビネットで他の部署からは死角になっている。ただ、これは高橋さんが目隠し代わりに敢えてそうしているのだけれど。
「一緒に帰……」
声と同時に佐藤君の姿が見えて、高橋さんがまだ居ることを知らなかったのか、佐藤君は驚いた顔をして固まってしまった。
「お、お疲れ様です」
「お疲れ様」
「佐藤君。どうしたの? 佐藤君の資料まで、私が一緒に持って来ちゃった?」
慌てている様子だったので、机の引き出しにしまった資料をもう1度確認しようと引き出しに手をかけた。
「あっ! ああ。いや、その……あの……じ、事務所の鍵の返却を、お願い出来ますか?」
「ああ。分かった。俺が返しておく」
「そ、そうですか。では、よろしくお願いします。お先に失礼します」
「お疲れ様」
佐藤君はお辞儀をすると、一目散に事務所を出て行った。
何?
佐藤君って、何だか面白い子だな。何事かと思ったら……。
騒々しかった佐藤君のことを、そんな風に思ってしまった。
「フッ……」
エッ……。
今、高橋さんが僅かに笑った声を、聞き逃さなかった。
「どうかしましたか?」
「いや……。さて、俺もそろそろ帰るかな。偶には、飯でも食っていくか?」
「えっ?」
予期せぬ言葉に驚いた声を出してしまったが、寧ろ高橋さんの方がその声に驚いて目を丸くしながら後ろに体を引いていた。
「何だ? 何で、そんな驚いた声を出しているんだ?」
「い、いえ、その……いいんですか?」
高橋さんと一緒に食事に行かれるなんて、今の私にとっては夢のよう。嬉しいなんてもんじゃない。
「嫌なら、誘わないだろう?」
「は、はい」
もぉ、もぉ。
今夜は、興奮して眠れないかもしれない。
予想外の嬉しいお誘いで、久しぶりに高橋さんの車に乗って食事に行くことになった。
そして、イタリアンレストランに連れて行ってもらったが、メニューを選ぶのにまた迷ってしまい、高橋さんがピックアップしてくれてようやく落ち着くというパターンは、相変わらず。
成長していない、私……。
そんな何もかもが、まったく前と変わらない。
生活も何も変わっていないし、仕事内容もまるっきり一緒。
でも……。
唯一、欠けているもの。
それは、高橋さんと昔みたいに仕事以外の時間のプライベートな時間では会えないだけ。だけど、それも今日は特別かもしれないけれど会えている。
だとすると……そう。
所謂、ラブラブが出来ない。出来るはずもない。
高橋さんと、今もこうして一緒にいるのに。
こんなに、傍に居るのに。
分かってはいても、やっぱり寂しい。
待っているって決めたのに、我が儘な私。ないものねだりばかりしてしまっている。
待っていれば、必ず待ってさえいれば、高橋さんは何時か必ず私と向き合ってくれる。でも、それが何時という期限も保証もない。ただ、信じて待つのみであって……。
何だか、食事をしていても無口になってしまっていた。
「どうかしたのか?」
エッ……。
高橋さんが、私の顔を覗き込んだ。
それに対して、咄嗟に声が出なくて首を横に何度も振ることだけしか出来ない。
「出よう」
高橋さんが、立ち上がろうとする仕草を見せた。
食事も終わってコーヒーを飲んでいたが、高橋さんのその言葉で飲みかけのコーヒーカップを置いて、直ぐにテーブルを後にした。
しかし、お店を出てからも足取りは重く、殆ど口数の少なくなってしまった私を高橋さんは助手席のドアを開けて待っていてくれて、そのまま高橋さんの車は私の家へと向かっていた。
思い描いていた楽しい食事とは裏腹に、それは苦痛にも似た空間にいるようにも感じられて、高橋さんと食事に行ったことを少し悔やんでいると、もう私の家の前に着いてしまった。
高橋さんがサイドブレーキペダルを踏み込むと、何時もなら直ぐに運転席から降りて助手席のドアを開けてくれるのだが、今日に限って高橋さんは運転席に座ったままだった。
ああ。
きっと、高橋さんも私と一緒に居るこの空間が苦痛なのかもしれない。早く、車から降りなくては。
「お、送って下さって、ありがとうございました。おやすみな……」
自分で助手席のドアロックを解除して、挨拶をして車から降りようとドアの方を向こうとした時、高橋さんの左手が私の右腕を掴んだ。
な、何?
「辛いか?」
エッ……。
あまりにも唐突な言い方だったけれど、それは穏やかで優しい口調だった。
「俺のせいなんだろう?」
高橋さんは視線を落とし、私の右腕を静かに離した。
「い、いえ……そんなことないです。ご馳走様でした。送って下さって、あり……」
嘘。
私の言葉を途中までしか聞かずに、高橋さんは運転席から降りて助手席側へ廻ってドアを開けてくれた。
きっと、あまり触れて欲しくなかったんだ。敏感に感じ取る高橋さんだから、私の態度からそういう雰囲気を読み取って、それが余計に高橋さんを苦しめてしまう結果になって……気をつけなければ。
「ありがとうございます」
お礼を言いながら車から降りたが、それは社交辞令のような会話で高橋さんとの間には大きな壁の隔たりを感じてしまう。でも、仕方のないこと。自分が望んだことなのだから。
「送って下さって、ありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみ」
高橋さんを見上げると、高橋さんもまた私を見ていた。
ごく普通に、今までと変わらない挨拶だったのに……。
でも、何故かお互い視線を交わしたまま、いつまでも外すことが出来ないでいる。
すると、高橋さんが私の右頬に左手で包み込むようにそっと触れたので、無意識に目を瞑ってしまった。
「正直に、言ってごらん?」
「高橋さん……」
ああ、駄目だ。
幾ら取り繕うとしても、高橋さんには何でもお見通しなんだ。
優しい言葉を、掛けないで。
そんな温もりを、直に感じさせないで。
「ん?」
言ったらいけない。
ここで言ってしまったら、余計に辛くなる。
「私は……」
言ったら、駄目。
でも、もう我慢出来なくなっていた。
「私は、何時まで待っていればいいんですか?」
ハッ!
言ってしまった。
どうしよう……。
絶対、聞いてはいけないことを聞いてしまった。
「あ、あの……ああ。そ、その……ごめんなさい。何でもないです。すみません。忘れて下さい。お、おやすみなさい」
これ以上、突っ込まれたら大変なので、急いでマンションの入り口へと走り掛けたが、またしても高橋さんに腕を掴まれてしまった。
「待てよ」
「は、離して下さい」
「言い逃げは、許さない」
「高橋さん……」
高橋さんに掴まれている手を振り解こうと、必死だった。
「もう、ま……」
「苦しくても……」
お互いの声が、同時に重なった。
エッ……。
高橋さん。
今、何て言ったの?
私の腕を掴んだまま、高橋さんも私の顔をジッと見ていた。
「あの……」
私の声に高橋さんも我に返ったのか、視線はそのまま私を捉えていたが、掴んでいた腕を離してくれた。
「本当に、ごめんなさい。こんなこと、言うつもりはなかったんです。高橋さん。私は、平気ですから気にしないで下さいね」
高橋さんは、苦笑いを浮かべている。
「おやすみ」
「えっ? あっ。お、おやすみなさい」
運転席側に廻って高橋さんは車に乗り込むと、そのまま1度も振り返ることなく走り去って行った。
さっき、高橋さんは何を言おうとしていたんだろう。
『もう、ま……』 の後は、何を言いたかったんだろう。
結局、何も言ってくれなかった。
でも、聞かない方が良かったのかな。
だけど、気になる。やっぱり、ちゃんと聞き返せば良かった。でも……。
そんな悶々とした気持ちになりながら、いずれにしても後悔の念でいっぱいの週末を過ごしていた。
それからというもの、毎週金曜日は部内旅行の打ち合わせで、佐藤君と仕事が終わってから過ごすことが当たり前のようになっていて、7月、8月に入るとみんなの夏休みもあって、そのフォローで忙しかったりしてなかなか打ち合わせする時間も合わなくなり、金曜日以外でも打ち合わせをする日が多くなっていた。
11月の旅行のことを、3ヶ月以上も前から話をしているので、まだ切羽詰まってないから緊張感もなくて先延ばしにしてしまうことも多いのだが、9月、10月初旬は決算で佐藤君も私もまったく動けなくなる。8月のお盆明けから、今のうちに何とかしないといけないと思い、かなり頑張って催し等の計画を練った。
あの日以来、高橋さんとは、たとえ旅行の打ち合わせで残っていて帰る時にまだ高橋さんが残っていたとしても、一緒に帰ることも、無論食事に行くことすらまったくなくなっていた。
それもあって、必死に寂しさを紛らわすために仕事や旅行の打ち合わせに没頭して、好きな人に会いたくても会えない人のことを考えたら、会社では高橋さんに会えるのだから恵まれていると自分に言い聞かせて、萎えそうになる気持ちを奮い立たせていた。
そんなまだまだ残暑が厳しい、8月最後の週の金曜日。仕事が終わってから、佐藤君と旅行の打ち合わせをすることになっていた。
そして、この打ち合わせが終わったら、もう決算に入るので10月中旬過ぎまでは部内旅行の打ち合わせも出来なくなる。そのため、今日はもう早めに部屋割りなどを決めてしまおうと、普段の打ち合わせより長くなるかもしれないから、食事をしながらにしようということになり、会社の近くの居酒屋でやることにした。
「部長以上は、1人部屋だろう? それを除いたとして……あとの人達は各担当内で決めてもらう?」
「うん。それがいいかもしれない。社内旅行じゃないし、行く人ももう分かっているから、各担当内で任せちゃった方が文句も出なくていいかもしれないね」
良かれと思ってこちらで組んだりすると、必ずあちらこちらから文句が出てくる。
そうなるより、納得出来るように各担当内で決めてもらうのがベストだから、部屋数だけ伝えて後は各担当で割り振ってもらうというのが最近の傾向だった。
去年、私は1人部屋でラッキーだったのだが、もし数合わせで半端になると他の担当の誰かと一緒の部屋になるかもしれない。
「小黒部長は、やっぱり煩い黒沢さんがまたいろいろ言いそうだからな。名倉部長が1番奥の部屋だし、その隣にしておけば文句は出ないと思うよ」
「そうだね」
「あと、末吉課長はどうするかなぁ。うーん……小黒部長と仲が悪いから反対の角でいいか」
「角だと2人部屋だから、その隣でしょう?」
「あっ。そうか! そうだな。それで、その隣は高橋さんで」
高橋さん。
高橋さんの名前を聞いただけなのに、反応してドキドキしてしまう。
「その隣は……じゃあ、分かりやすいように、矢島さんでいい?」
「えっ? わ、私?」
高橋さんの隣の部屋が、私?
「何か、問題ある?」
「えっ? あっ……だ、大丈夫だよ」
馬鹿みたい。
ただ高橋さんと隣の部屋になったというだけで、こんなにドキドキするなんて。
けれど、それから佐藤君が決めていく部屋割りの話に、あまり集中出来ずに高橋さんのことを考えていた。
部屋割りをひと通り決めて、最後に各担当の部屋数を割り振って今日の予定がすべて終了したのでホッとして、改めて佐藤君と乾杯をして生ビールを飲んだ。
「矢島さんって、彼氏居るの?」
「えっ?」
いきなり聞かれ、驚いてお箸で摘んでいた川海老の唐揚げを取り皿の上に落としてしまった。
「急に、聞いたりしてまずかった? ちょっと気になったから」
「何で?」
どうして、気になるんだろう?