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 なぜ今まで忘れていたんだろうと思うくらい、鮮明な映像が頭によぎっていく。

「思い出した……。私、あなたにっ」

 ぽろり、と自分でもわからないうちに涙が瞳からこぼれ落ちた。

「泣くな、さくら。おてんば娘が取り柄ではなかったのかい?」

 優しく頭を撫でられ、さらに私の涙腺は崩壊していく。
 涙でぐちゃぐちゃな顔を上げれば、いつの間にか店主さんの艶やかな黒髪が、あの日見た雪のように真っ白な色へと変わっていた。
 それすらも、なんだか胸が詰まるような幸福感が私を包む。

「……私っ、あなたにもう一度会いたかった! でもあの日見せてくれた、桜しか思い出せなくて……ずっと、ずっとっ」

 ちりりと胸を焦がしていたのは。
 あの日、短い間だったけれど。
 幼いながらも私は、あなたに恋をしていたからなのかもしれない。
 でも声も顔も思い出せないのなら、生涯もうあなたに会うことは無いと思っていた。
 泣きじゃくる私を見て、店主さんは目を細める。

「この空間での出来事を覚えたまま、現世に戻ることはほぼ無いのだから覚えていなくても当然だが……。満開の桜を覚えていたとは、嬉しいな」
 
 笑う店主さんの顔は、声も出ないほどに美しい。
 その顔に見惚れていたが、私はふと思い出す。

「……で、でもさっき私を責めるように『覚えていないとは』って」

 私の言葉に、まずいと少し顔をしかめた店主さん。
 あの世とこの世の境目での記憶はなくなるようなのに、「覚えていないとは酷い人間だ」と言わんばかりの言い草だった。

「それは……ちょっとした悪戯心さ」
「なっ!」
「そう怒るな、さくら」

 口を尖らせて睨めば、なんだか嬉しそうにする店主さんにこっちの調子が狂ってしまう。

「そうださくら。まだ俺の名を言っていなかったな」
「あ、そういえば……」
「俺の名は、弥勒(みろく)だ」
「みろ、く……」

 店主さんが空中に指を走らせると、「弥勒」ときらきら光る文字が浮かび上がった。
 店主さん……いや、弥勒さんの名前を口に出すだけで不思議と心が満たされていく。

 ──あぁ。今、言わないと。
 私は弥勒さんの目を見て、その愛しい名前を呼んだ。