「だってここ、職場ですよ?」
「まだ始業前だろう。俺は極めてプライベートで、かつ重要な話をしている。結婚は早ければ早いほうがいいからな」
「ほ、本気ですか?」
「まったくもって本気だ。今朝は体調もよいしな」
「で、でもですね」
あさひが言い募りかけたとき、凌士が腕時計に目を落とし、タイムアアウトだと眉を寄せた。
あさひも会議室の壁掛け時計を見上げる。始業五分前だ。
「続きは夜だな。俺の家とあさひの家、どちらがいい」
「えっ、と、わたしの家……?」
あさひは混乱を極めたまま応じる。
「わかった。では、あさひの部屋で詳細を詰めよう。まずは仕事だな。戻るぞ」
凌士は用件を言い終えたからか、すっきりした表情で会議室を出ていく。
はっとしてあとを追ったあさひは、廊下に出たとたん、動揺のあまり足をもつれさせた。よろめいたところを、凌士に支えられる。
「大丈夫か」
「ひゃっ!」
あさひはとっさに小さく悲鳴を上げて体を引いた。凌士と一歩分の距離を空けると、凌士がけげんそうに眉を寄せる。
「あさひ?」
「ひとに見られても困るので、あの、わたし先に行きます!」
あさひは素早く頭を下げると、駆け足で凌士から逃げだした。
凌士が1DKの小さなキッチンのシンクに尻をもたせかけ、腕を組む。鋭い視線が貼りつくせいで、あさひは肩を強張らせてコップを洗った。
「凌士さん、ソファに座っていただけますか……とても落ち着かないのですが」
「あさひが結婚すると言えば、座る」
「そんな条件あります!?」
コップを落としそうになるのを、あさひはすんでのところで掴んだ。胸を撫でおろす。冗談にしても心臓に悪い。
(展開が急すぎる!)
凌士は仕事がらみの会食を済ませてからあさひの部屋に来たが、開口一番にプロポーズの返事を急かしたのだ。
『心は決まったか』
『即決なんてできませんよ! 即決どころか……ぜんぜん考えられないです』
あさひはそう返したし、その返事を変えるつもりもないけれど、凌士はまったく諦める様子がない。
「なにが気に入らない? 俺と一緒になるのが嫌か?」
「まさか! 凌士さんを好きですし、一緒にいたいと思ってます。でもそれとこれとは話が違……」
「なにが違うんだ」
「やっ、だいたい、職場でプロポーズなんてします!? 誰に聞かれるかわかりませんし、今日はいちにち仕事になりませんでした!」
「あれくらいで集中を欠くんじゃない」
「せめて夜にしてほしかったです……」
そういう問題じゃないけれど、どこから指摘していいか頭がとっちらかってしまう。
「こういうのはスピード命だからな。ぐずぐずしていたら逃す」
「商談と一緒にしないでください!」
組んでいた腕をほどいた凌士が、あさひをうしろから抱きしめる。あさひは凌士の腕の中で身をすくめた。
凌士はあさひの手からコップとスポンジを取りあげると、手早く泡を洗い流す。シンクに置いたほかの食器も次々に洗っていく。
「やっぱり、俺の部屋へ行こう。ここは気分がよくない」
唐突な話にあさひが首をかしげると、凌士はあさひの手についた泡も洗い流し、手を絡めてきた。
「前の男も触ったんだろう。このコップも、皿も。ベッドも。気分が悪い。ここは引き払って俺の部屋へ来い。籍も早急に入れよう」
「そんなの、もう終わったことで」
「だが、未練があるんだろう。だからうなずかない」
「違います! 今は凌士さんだけです。ほんとうに」
プロポーズを保留にする理由を誤解され、あさひは声を上ずらせた。
凌士のおかげで、未練を断ち切ることができた。
部屋ごと変えるのはお金の問題で諦めても、あさひは思い出のあるものはすべて捨てていた。
それも、凌士がいたからだ。
「それでも不快だ。今日から来い」
凌士は片手であさひの腰を抱えると、玄関へ向かう。
引きずられるようにしてついていきながら、あさひは焦って凌士の胸を押した。
「凌士さん、待って、なんでこんな突然……?」
「気持ちが通じ合えば、ごく自然な流れだろう。結婚したいと思うのに、時間は無関係だ」
「そうかもしれないですけど、それにしたってまだ凌士さんと親しくなってから二ヶ月も経ってませんし……っ」
あさひは、なおも引っ張る凌士の胸を思い切り押す。ようやく凌士が足を止めたものの、その顔にはかすかな苛立ちが覗いていて、あさひはどきりとした。「鋼鉄の男」の片鱗を見せられた気がする。けれど、あさひは怯みかけた気持ちを奮い立たせた。
結婚なんて、一生を左右する大ごとだ。
簡単に流されるわけにはいかない。凌士のためにも。
凌士も冷静になれば考え直すに違いない。あさひはともかく、凌士は如月モビリティーズの次期社長だ。背負っているものの重みが違う。
会社や家族のことを考えれば、勢いだけで結婚を決めていいはずがない。
これが職場の別の女性――たとえば結麻だったら、玉の輿だと喜んでその場で同意するだろう。
けれど、あさひにはその思い切りが持てなかった。凌士に頭を下げる。
「とにかく、まずは頭の中を少し……整理させてください」
「期限を言え。いつになれば整理できる」
「……年明けには、きっと」
外を歩けば、たちどころにクリスマスソングが聞こえてくる季節だ。夜道には華やかなイルミネーションがきらめき、誰もが迫りくる年の瀬にあたふたとしつつも、どこか心を浮き立たせている。
あさひも降って湧いたプロポーズの件がなければ、初めての凌士とのクリスマスをどう過ごすか、胸を弾ませていただろう。
「わかった。そのときには返事をしろ。いい返事しか聞かんが」
「もう! 思うことをきちんとお話しできると思いますから、ぜんぶ聞いてください」
「……わかった。ただし、それまで会わないのはナシだ」
凌士があさひをつかんでいた手を離す。
あさひはほっと息をついてから、まだ眉間に皺の残る凌士の腕に手を添えた。
「じゃあ……凌士さんの家に行きます? わたしも、ここより凌士さんの家のほうが落ち着くかなって」
「機嫌取りか」
凌士が早くも破顔する。
「それもありますけど、このままで今日お別れするのはちょっと……寂しいです」
混乱は収まらないけれど、結婚は別として気持ちが離れたわけじゃない。
「来い。俺のほうがそう思っている」
凌士が口の端を上げて、あさひに荷物を持ってくるよううながす。あさひはほっと笑って用意を済ませ、玄関で待つ凌士の元に取って返した。
如月家にとって、毎年クリスマスは接待の日だ。あさひがその意味を知ったのは、クリスマス当日だった。
「デートできなくて悪かった」
「とんでもないです! みんなキラキラしてて、わたしも初心に返る大切さをあらためて知りました」
ひとの捌けた授賞式の会場で頭を下げた凌士に、あさひは笑顔でかぶりを振った。
如月モビリティーズでは、子どもたちを対象にした絵画コンクールを毎年開催している。未来を担う子どもたちを支援する、社会貢献活動の一環だ。
お題は「未来を、動こう」――子どもたちが考える未来とそこに登場する移動手段。移動手段は、車に限らなくてもいい。「走る」ではなく「動く」としたのも、広い視点でのびのびと描いてほしいからだという。
ともあれ、クリスマスの今日はその授賞式が執り行われ、社長の代理で凌士が出席したのだった。あさひも列席者の親子にまじって、会場となったホテルの後方で授賞式に参加させてもらった。
受賞者たちにはこのあと、受賞作が展示されたバンケットルームでのパーティーが予定されている。皆、すでにそちらへ移動していた。
「スライドで紹介された絵、どれも夢がありましたね。どれもわたしには思いもよらない発想でした」
ただただシンプルに伸びやかに、思い描いた夢を画用紙に乗せる。特に低学年はそれが顕著で、あさひには眩しかった。
「楽しんだようならよかった。俺も毎年、けっこう楽しみにしててな。悪いとは思ったが……」
「いえ、呼んでいただきありがとうございました」
あさひは普段よりはドレッシーなワンピース姿でお辞儀をした。スーツ姿の凌士が微笑んであさひの背に手を添える。
「副賞もいいだろう。俺がほしいくらいだ」
副賞も豪華だった。海外旅行に招待して現地の子どもたちと交流させたり、研究所が保有しているテスト走行用のサーキットをゴーカートで走行できたりする。車体工場の見学や、如月の全ラインナップの模型セットなどもあった。さすがに車そのものは子どもに贈呈できないが、子どもが喜びそうな内容だ。
「如月モビリティーズのファンが増えそうですね」
「半分は、それが狙いだな」
あさひは凌士とバンケットへ移動し、引き続きパーティーにも参加した。
凌士の補佐という名目のため、あさひも会社のネームカードを首から提げている。ふたりで歩いていても不審に思われることはない。パーティーはゲストが子どもだということもあって、堅苦しさはなく、言ってしまえばファミレスのような賑やかさだった。
意外と……といえば失礼だけれど、子どもに囲まれた凌士を見るのも微笑ましく、あさひは思いのほか楽しい時間を過ごした。
頃合いを見て、あさひたちはパーティーを切りあげる。
夜の七時前の空は乾いた空気のおかげなのか透き通っていて、ぽつぽつと星が散っている。クリスマスイブの盛り上がりに比べて、クリスマスの夜はどこか祭りのあとのような雰囲気がある。けれど、あさひの心はほかほかとあたたかい。
「凌士さん、子どもに人気でしたね」
「愛想よくしているつもりはないんだが。なぜ好かれるのかよくわからんな。どう接するべきか毎年考える」
真顔での返答にくすくすとあさひが笑うと、凌士があさひの手を握る。
「子育てはあさひに指南してもらうか」
あさひは眉を下げ、隣を歩く凌士を見あげた。
「強引に結婚の話に持っていくのは困ります。頭の整理をするまで、待ってくださるはずじゃなかったんですか?」
「返事は待つ。だがそのあいだ、なにもしないとは言ってない。あさひを落とさなければならんからな」
「そんな!」
「まずはだ。俺との結婚があさひにとっていかにメリットがあるか、だな」
発想がビジネス寄りだ。さすがだなと思い、あさひはわれに返った。それどころじゃない。
「待ってください! まだその件は……」
「整理がつかないか? そのための材料は必要だろう。とにかく聞け」
あさひの抗議もむなしく、凌士は雑踏を歩きながら滔々と続ける。心持ち、手を繋ぐ力が強くなる。
「結婚は契約で、契約には双方の利益が必要だからな。それでさっそくメリットだが。まず、俺と結婚すれば経済的な不自由は味わせないと約束できる。それから、結婚して家庭に入るのも仕事を続けるのも、あさひの自由にしていい。難癖をつける親族は出るかもしれないが、しょせん外野だ。俺が黙らせるから心配するな。子どもも、あさひが嫌なら無理に作らなくてもいい」
子どもに囲まれていた凌士を思い返し、気づけばあさひは疑問を口にしていた。強引に話を進めていく凌士に、困惑は消えないものの。
「跡取りを期待されないんですか?」
「否定はしない。俺の両親も、跡取りをもうける前提での見合い結婚だからな。母親にはそれなりにプレッシャーがあったかもしれない。だが、少なくとも両親は俺の意思を尊重してくれている。弟もいるしな。どちらかに子ができればいいと思っているのだろう」
「弟さんがいらっしゃるんですか。おいくつですか?」
「四つ下だ。家ではほとんど二人きりだったから、兄弟仲はいいぞ。気の優しいやつだ。今はヨーロッパのグループ会社に出向している。今年のクリスマス休暇は恋人の家族に会うらしくて、日本には帰らないが。機会があれば会ってくれ」
「ぜひ。楽しみです。わたしはひとりっ子なので、兄弟がいるのが羨ましいです」
「結婚したら義弟ができるぞ」
凌士がすかさず言う。「どうだ、メリットがあるだろう」といわんばかりだ。返す言葉に困る。
繋いだ手ごと、凌士が自身のコートのポケットに入れる。その温もりに胸がきゅうっとする。
「両親はエネルギッシュなひとたちでな、嫁になにかしてもらおうなんて思わない人種だから安心しろ。金銭面も親類縁者も、障害はない。デメリットは、公人としての活動でプライベートを制限されがちだという点と……」
そのとき凌士を呼ぶしわがれた声がして、あさひたちは足を止めた。
「奇遇だなあ。お父上は相変わらずかい?」
いかにも好々爺といった雰囲気の男性が、雑踏をかき分けてやってくる。
凌士が挨拶を返し、あさひも隣で目礼する。老爺はあさひには一瞥もくれなかった。
「凌士くんもすっかり企業の顔といった風情じゃないか。これはいつでも代替わりできそうだな」
「まだまだ若輩者ですよ。これからも先生のご指導が必要です」
「ああ、いつでも来たまえ。君なら大歓迎だよ」
凌士が「昔から懇意にして頂いている代議士先生だ」とあさひに素早く耳打ちする。あさひははっと姿勢を正した。
あらためて、凌士が日本を代表する企業の次期社長であるという事実が胸に迫る。
代議士は最近の政財界について自身の鬱憤をぶつけ始める。あさひはしばらく、相づちを打つ凌士の隣で所在なく立っていたが、ふいに凌士の手が離れた。
凌士は如才なく代議士の相手をしながらも、手振りで「離れていい」と伝えてくる。
けれど、あさひは少し考えてその場に留まった。
気づいた凌士が、さきほどより強くあさひの手を握る。その振る舞いで、ようやく代議士はあさひに目を向ける。舐めるような視線に、あさひは笑みの下で体を硬くした。
「そちらのお嬢さんは? 凌士くんのオトモダチかね?」
ねっとりした口調だ。
「はは、先生のお心に留めておいてください。なんとか、いいひとになってもらおうと追いかけているところですので」
凌士が言いながら、さりげなくあさひを背後に庇う。あえてあさひを紹介しないのも、あさひの負担になる可能性を考えてくれたからだろう。
「そんなことを言っても、君ならどんな美人でもハエのように寄ってくるだろうから、気をつけるんだよ」
あさひが顔をひきつらせるより早く、凌士が一歩前に出た。
それまでの当たりのよさが嘘のように、冷ややかな顔だ。
「先生といえども、彼女への中傷はお控えいただきたい。場合によっては先生とのご縁も考えさせていただくほど、大事な女性です」
「これはまいったな、いやあ、凌士くんににらまれると怖いよ」
笑って形ばかり謝ると、彼は「お父上にもよろしく」と悪びれた様子もなく去っていった。
「悪い。不快にさせた。ああいう人間は、二度とあさひに近づけない」
「そんなわけにもいかないでしょう? わたしは気にしていませんから、凌士さんも気にしないでください」
「いや、気にするなというほうが無理だ。俺と結婚すれば、この先あの手の連中とも嫌でも関わる機会が増える。連中はなまじ権力を持つだけに、弱い人間に悪意を向けることにためらいがない」
「だから、わたしを離そうとされたんですね」
凌士が顔を歪め、あさひの手をきつく握り直した。
「先に注意しておけばよかったな。次からは、俺からすぐ離れてくれていい」
「そんなことをしたら、凌士さんの心象が悪くなります」
「俺は別にいい、慣れてる。それより、今の一件で結婚を拒まれるほうがキツいな。ああいうデメリットは、俺が退ける。だから今の一件だけで判断しないでくれ」
歩道の真ん中で立ち止まり、凌士が珍しく弱った声でうなだれる。あさひは繋いだ手にもう一方の手を重ね、軽くぽんと叩いた。
「……凌士さん、コーヒー飲みませんか? 冷えてきちゃいました」
イブではなくとも、クリスマスの夜の店はどこもそれなりに混んでいた。凌士の部屋へ行くことも考えたけれど、明日は仕事がある。いつかのように、凌士の腕から抜け出すのに苦戦したら困る。
あさひたちは最初の二軒を満席で諦めた。レトロといえば聞こえのよい、だが実態は時代に取り残されたかのような趣の喫茶店に入る。
老いたマスターひとりが佇むカウンターでは、使いこまれたサイフォンがいい音を立てている。コーヒーにこだわりがあるらしい。あさひはその隣に、小さなクリスマスツリーが飾られているのを見つけてほっこりした。
凌士がアイスコーヒーを、あさひはカプチーノを注文して、さっそく切り出す。
「さっきの話。わたしからも質問していいですか? これまでずっと、凌士さんはわたしのメリットばかり考えてくださっていたでしょう。でも凌士さんには、わたしとの結婚にどんなメリットがありますか? わたしはごく平凡な家庭に生まれた、一般社員ですよ?」
「あさひと形の上でも繋がっていられる。最大のメリットだ」
あまりにきっぱりとした即答に、あさひはつかのまぽかんとした。
「今は、俺はどう足掻いてもあさひの『外側』の人間だ。だが、結婚すればあさひの身内になれる。内側の人間になれば、あさひが弱ったときにも、今よりそばでなんとかしてやれる。出会ったときのようにそばにいてやれる偶然が、この先に何度もあるとは限らないからな」
あさひは思わず、運ばれてきたカプチーノのカップに目を落とした。両手でそっと包んだけれど、口をつけられない。
いっときの勢い、なんてちらっとでも考えたのが申し訳なくて、目の奥がつんとする。
「だからって、もう結婚なんですか……凌士さんの思い切りがよすぎて、驚いちゃいます」
前の恋が終わったあと、あさひは凌士に口説かれても戸惑いしかなかった。応じることへの怯えのほうが大きかった。
凌士に傾いていく心の変化と、誰かと付き合えばまた傷つくかもしれない怖さのあいだで、身動きが取れなかった。
景の不実にあれほどショックを受けたくせに、さほど時間の経たないうちに心変わりした自分へのうしろめたさだって、ないとはいえなくて。
それでもやっとそれらを含めて、自分の気持ちを受け入れた。凌士に飛びこめた。
そんなあさひにしてみれば、結婚は一足飛びにしか思えなかった。
「思い切りるほどのことじゃない。そうしたいと思ったから行動する」
はからずも、前に絵美が話していた「猛禽類」という言葉を思い出す。まったくそのとおりだ。スピード感からして凌士とあさひではまったく違う。
ひょっとして、ガラス細工の工房で出会った女性も、付き合い立てでプロポーズされたときはこんな気分だったのかもしれない。
「迷いは?」
「あるはずないだろう。俺には、あさひ以外は考えられない」
ふたたびきっぱりとした答えが返ってきて、あさひは感心しつつもため息を零した。
凌士は強い。自身の選択になんの迷いもブレもない。弱気になるのは、あさひを傷つけたのではないかと思うときだけ。