「よほど楽しい酒だったんだな」
「あさひの同僚の田崎絵美です。婚約おめでとうございます。今日はあさひにたっぷり惚気られました」
「惚気ちゃいました……」
頭がぼんやりする。凌士が来たからか、あさひはすっかり気が抜けた笑みを凌士に向けた。
「ああもう、そんな素直に言っちゃって。珍しい」
凌士は絵美の冷やかしを堂々と受け止めた。
「如月だ。研修員時代からの友人らしいな。これからも、あさひを頼む」
「もちろんです。先日、セールスの店舗でお会いしたんですが、お気づきでした?」
「そうだったか」
「あ、やっぱり。……いえ、あさひ以外に興味がないんですよね、気にしてませんから」
「凌士さん、これからはちゃんと絵美のこと覚えてくださいー……」
あさひは凌士の腕をつついてふわりと頭を下げる。
「あさひってば、こんなに酔うの初めてじゃない? そうそう、それともうひとつ。五年前ですけど、研修期間後にうちの店舗にお客様のふりをして電話なさったの、如月さんですよね? 気持ちのよい対応をした新人について、お尋ねになったでしょう」
「……あのとき電話対応したのは、君だったのか」
「はい。商品ではなくて社員について質問されたのは初めてだったので、『碓井あさひをよろしくお願いします!』って、思いきりセールスさせていただきました」
「感謝している。君が教えてくれなければ、如月の力で会社の人間を動かすところだった」
「あさひ、いい商品だったでしょう? これからも、よろしくお願いしますね」
「ああ」
「え、なになに?」
途中からふたりの会話についていけず、ぽかんと聞いていたあさひは、凌士と絵美のあいだで話の決着がついたらしいのを知って割って入る。
頭が酔いのせいでぼんやりして、理解できなかったのだ。
ところが、絵美は呆れてあさひの耳を軽くつねった。
「あさひは素面に戻ってから如月さんに説明してもらいなさい」
「うん……?」
話はいまいち見えないままだったけれど、ともあれ恋人と友人がよい関係を築きそうで、あさひはふわっと顔をほころばせる。
ところが次の瞬間、左手にひやりとした感触を覚えて意識を浮上させた。
ゆるゆると手を顔の高さまで持ちあげる。夜なのに眩しいな、とかすかに目を細め……あさひは目を見開いた。
「うそ……っ」
「明日でもよかったんだが、待てなかった」
婚約指輪。
先日注文したばかりの輝きが、あさひの薬指で強い光を放っている。
頭がぐるぐるして、心臓だけが痛いくらいに激しく脈を打つ。
薬指からじわじわと熱が広がって、体温が上がっていく。
「仕上がったという連絡がきたからな。ここに来る前に受け取ってきた」
凌士が満足そうに目を細め、指輪を嵌めたあさひの手を取る。
呆然とするあさひの隣で、絵美が手を叩いて歓声を上げた。
絵美と別れ、あさひは凌士の車に乗りこむ。助手席のドアを閉めた凌士も、運転席に回って乗りこんでくる。だが、凌士は車を発進させずに助手席に身を乗り出した。
やわらかな唇が押し当てられ、すぐに離れる。
「惚けた顔だ」
「言わないでください……。いらっしゃるのも早かったし、まさか指輪を嵌めてもらえるなんて思いもしなくて……」
脈が速くなったせいか、一気に酔いが全身を染めて頭がくらくらしているのだ。
「指輪をピックアップしたあと、近くで時間を潰していたんだ。やはり似合う」
「ありがとうございます」
告げるなり、また唇が優しく押し当てられた。
あさひはその甘さに陶然と身を任せる。
「せっかくだから今、言っておく。よく聞いておけ。眠るなよ」
思わず助手席で居住まいを正すと、凌士が苦笑して続けた。
「一生、俺を選んだことを後悔させないと誓う。なにがあってもだ。だから安心して俺の隣にいろ」
「……はい、凌士さん」
あさひは返事を待たずに思いきり身を乗り出し、凌士の首に腕を回す。凌士が目をみはった。かすかに体を強張らせたように感じていぶかしく思ったのもつかのま、凌士は顔じゅうに笑みを広げた。
(そっか、わたし初めて自分から……)
積極的に凌士に抱きついた。
ベッドで積極的になったことはある。けれど、あれは体を重ねる熱に浮かされていたからだった。今も、酔いが回った勢いも手伝ってのことで。
普段は凌士に抱きしめられて、あさひはその腕のなかで安心していたけれど。
「わたしも凌士さんに、わたしを選んだことを後悔させないように努力します。だから凌士さんも安心してくださいね」
車内で窮屈な姿勢になるのもかまわず、あさひはさらに強く凌士を抱きしめる。
凌士がため息をついた。
「安心か。努力は不要だが、俺はいつまでもやきもきするだろうから、頼むぞ」
「やきもき? どうして」
「俺が本気になった女だぞ。ほかの男も惹かれるに決まっている。どれだけ芽を潰せばいいのか、見当もつかない。だが、そいつらよりあさひを愛するのは俺だ。覚えておけ」
「凌士さんもですよ。わたしだって、誰よりも凌士さんを愛していますから」
あさひの肩に、凌士の顔が埋められた。春先のにおいをまとった髪が、あさひの首筋を撫でる。
強く腰を抱かれ、コートから覗く首筋の素肌を吸い立てられる。
お酒の酔いに加えて、きつく吸われた首筋から体がじんと痺れていく。
凌士が体を離したとき、あさひはふたたび自分から凌士を引き寄せ、唇を重ねた。
車の中で水音が響く。凌士が、くたりと力が抜けたあさひの手をとり、婚約指輪に目を細める。
「会社にも報告するからな」
「……はい」
「酔っ払いめ。今日はただ寝かされるだけだと思うなよ」
凌士が酩酊したあさひに呆れつつ、早くもその目に熱情を灯した。
三月某日。
RS企画部の朝礼が終わり、今期の送別会は花見にするかと部内が盛り上がるなか、あさひが席につこうとしたときだった。事業開発統括本部の席がある一帯に、張りのある声が響いた。
「皆、始業の前にちょっといいか。話しておくべきことがある」
辺りがざわつき、事業開発統括部下にある各部の部員が立ちあがる。RS企画部以外にも、新事業開発部やエネルギーサービス事業開発部、新エネルギー自動車事業開発部の部員もだから、総勢で約七十名ほどだろうか。
あさひもまた首をかしげながら立ちあがり、皆が声の主である凌士に体を向ける。
そのときちらりと目が合い、あさひはとっさに目を伏せた。凌士の目がとびきり甘かった。
嫌な予感がする。
(これってひょっとして……!? 逃げたい……!)
心臓がばくばくと激しく鳴る。頬が熱い。頬だけでなく、耳もきっと赤く染まっている。いたたまれなさで心臓が痛い。
凌士の意思は聞いていたし、あさひも了承はしたけれど。
てっきり、ほかの役員に報告するものだと思っていた。
(こんな形でなんて、聞いてない……!)
部員が皆、窓を背にした凌士のほうを向くなか、あさひだけがうつむいたまま顔を上げられない。
「皆、如月モビリティーズをよく支えてくれて、感謝している」
朗々とした声が、早くも春の陽気を感じる三月の朝に響き渡る。けげんな顔をしつつ、誰もがその声に聞き入る。
いつのまにか、ほかの部署の人間まで凌士の口上に何事かと注目し始めた。
「これからも皆の働きに応え、如月モビリティーズの基盤を盤石にし、さらに飛躍させていくと約束する。――そこでだ」
凌士がゆったりとフロアを見渡す。まるで、皆の注目を楽しむかのような堂々たる姿だ。
その目が、おもむろにあさひのところで止まる。心臓が、肌を突き破るかと思うほど跳ねあがった。
「このたび、俺自身の基盤も固めることにした。……碓井、こちらへ来い」
凌士は慣れているのだろう。けれど、あさひは衆目にさらされる経験なんて多くない。いたたまれず、身がすくむ。
でも、出ていかないという選択はなく。
あさひは部員たちのいぶかしげな視線を集めながら、凌士の席へ足を運ぶ。辞令を受けるときのように机を挟んで凌士に相対すると、凌士が隣に来るよう小声で指示した。
(凌士さん、堂々としててすごい……!)
あさひがぎくしゃくとした動きで隣に並ぶと、凌士がふたたび声を張った。
「このたび、リソースソリューション企画部チーフ、碓井あさひと結婚することになった。知ってのとおり、彼女は如月モビリティースにとっても将来有望な社員だ。その彼女と結婚できることを心から喜ばしく思っている。俺も彼女も、今後いっそう如月モビリティーズのために尽くしていくから、皆、引き続きよろしく頼む」
しん、とフロアじゅうが静まり返った。けれど、まるで針のむしろだと感じたのはほんの一瞬。
どよめきとともに、拍手が湧き起こった。おめでとうございます、という声が方々から上がる。凌士はそれらを平然と受け止めると、話を締めた。
部員らはまだ興奮冷めやらぬ様子で、席にもつかずにあちらこちらで話に花が咲かせ始める。ちらちらとこちらを見られるのがたまらない。あさひはともすればうつむきたくなる心と闘うのに懸命だった。
少々恨みがましい思いで、凌士のスーツの裾をつんと引っ張る。
「統括、さらし者になった気分なんですが……! 自席に戻るのが恐ろしいです」
「しばらくは、どこへ行ってもいじられるぞ。なんせ俺の妻になるのだからな」
「嬉しそうですね?」
「そりゃあな。これで誰も、あさひにちょっかいをかけない。それと、今日の昼休憩に役所へ行くぞ」
「……え! 心の準備が……!」
「婚姻届の証人欄は、野々上と手嶋に頼むか」
「ええ!?」
「冗談だ」
凌士がくつくつと声を立てて笑う。意外な表情に、近くの部員がぎょっとした。凌士はその視線も平然と受け止めて笑う。そんな風に嬉しそうにされたら、怒る気が失せてしまった。
だから、形ばかり拗ねてみせる。
「凌士さんが、こんなひとだなんて知りませんでした」
独占欲を隠しもせず、堂々と囲うひとだなんて。
「俺も知らなかったが……こういう男に捕まったのも運命だと諦めて、おとなしく俺のものになっておけ」
「最高に幸せな運命です」
凌士を見あげると、社員から死角になる机の下で手を握られる。
あさひを見つめ返す凌士の目は、愛しさを映してなにもかも解けるくらいに、甘かった。
【END】