つかのま浮かんだ照れをかき消し、凌士がグラスに手を伸ばす。お揃いで手作りしたものだ。
凌士はそれをゆっくりと、手の中で傾ける。
「じゃあ、ずっと……だったんですか?」
「そうだな。だから、あさひの仕事へのプライドは理解しているつもりだ。尊重もする。だがプライベートのほうは、俺の望みに反するからな。すべて尊重するわけにはいかない」
凌士はグラスを空にすると、ほかの皿にも手をつけていく。あさひは凌士のグラスにビールを注ぐ。
「俺はやはり、あさひと結婚したい。今すぐ。その望みは譲れない」
あさひは空になったグラスを顔の前にかざした。ガラスに、あさひ自身の顔が形を変えて映りこむ。
まだ理想への道半ばな、頼りない顔。けれど以前より、自分を信じられる。凌士の思いを受け止められる。
ふと、ガラス細工の工房で出会った女性の言葉が、頭をよぎった。
ずっと、八年かけて支えられると思えるようになったことのほうに共感していたけれど、今は。
『けっきょくは短いも長いもなくて、タイミングだと思うわ』
そうだ、過ごした時間の長さじゃない。支えられるかどうかでもない。
このひとといたいと思う。
それだけの、ごくシンプルな感情さえあればいいのだ。
(結婚だって、夫婦という器に添うふたりを作っていけばよくて)
大丈夫。凌士となら怖くない。
支えなきゃと肩肘を張らなくても、一緒に歩いてくれる。ただの庇護ではなく、あさひが前へ進む力を信じてくれる。
「凌士さん。これからも……わたしを好きでいてくれますか?」
「あさひの一生を俺の手の中に入れておきたいと願うから、プロポーズしてるんだろう」
苦笑した凌士が、食べ終えた皿を手に席を立つ。あさひもあとを追った。
凌士があさひの手から食器を受け取り、スポンジの泡をまとわせていく。あさひは食器をふたたび受け取り、泡を流す。
ふたりでするその作業が、今のあさひにはごく自然に感じられる。
「どうだ? ただ俺のそばで、幸せになればいいだけなんだが」
「それなら、自信があります。一生、一緒にいてください」
凌士がつかのま、目をみはった。骨張った指の先が、あさひの真意を探るように耳朶に触れる。
あさひがその手に自分の手を重ねると、凌士はあさひの顎を優しくすくい上げた。
切れ長の深い色をした目にあさひが映る。
「やっと、俺のところにきたか。あさひ、愛している」
返そうとした言葉は、すべて凌士の唇にのみこまれる。
キスはまたたくまに深くなり、あさひの頭は早くも甘く痺れ始めた。
凌士は寝室に場所を変えると、あさひの肌に丹念に触れていった。
まるで、ひとつひとつ自分のものだと確かめるような仕草だ。……けれど。
「凌士さん、なんか今日は違います……?」
あさひは息を浅くしてうつ伏せでシーツを握りしめつつ、凌士をふり仰ぐ。
電気をつけたままの明るいベッドの上で、凌士の均整の取れた体がつぶさに見てとれる。凌士が、あさひのすべてを見たいからと、電気を消すのを拒んだのだ。
ただならぬ色気に当てられ、あさひは弾かれるようにしてうつ伏せに戻った。
「わかるのか」
凌士が思わせぶりに小さく笑うと、あさひの腰から背中をなぞる。
大きな手はさらにうなじをつうと這い、乱れたあさひの髪を耳にかける。凌士の体はしっとりと汗ばんでいた。きっとあさひもおなじだ。
凌士に抱かれるとき、あさひはいつも体のすべてを持っていかれるように思う。
丸ごと食べられそうな錯覚を起こすときもある。
(だけど、やっぱり今日はなにか違う。なんで……?)
うしろからぴたりと覆い被さった凌士に耳を喰まれ、やわらかな胸に指を沈められる。
背中のくぼみに沿って、肌に薄い唇の判を押される。潤みきった場所を、凌士が貫く。
いいようのない喜悦にのみこまれる。
甘やかな電流が全身を走り抜ける。
体じゅうどこもかしこも、凌士の形に合わせて溶けていくようだ。深い酩酊が続いて、一向に覚めない。
「あ、あ……っ」
立て続けに艶めいた声が口をついたとき、あさひは唐突に理解した。体じゅうが、かあっと熱を持つ。
(わかった。凌士さんのすべてで、愛してると伝えられてるみたいだから)
一度気づくと、どこにどう触れられても、ただただ「愛している」の言葉を受け取ってしまう。
とうとうあさひの意識が弾けたとき、凌士が愉しそうに目を細めた。
「あさひも、今日は早いな?」
「だっ……て、凌士さんが、すごく深く……するから」
切れ切れにどうにかそれだけ言って、あさひはシーツにぐったりと身を沈める。
「さっそく、結婚の準備だな。あさひの両親にもご挨拶したい」
「はい……でも凌士さん、今はまずぎゅっとして——」
言い終わらないうちに、あさひは覆い被さった凌士の熱い体に、強く抱きすくめられた。
「――以上が、モビリティの未来を考える上で欠かすことのできない要素です」
研究者のひとりが打ち合わせを締めくくり、あさひは手嶋とともに頭を下げた。
「お話しいただきありがとうございました」
手嶋に修正させた企画書が役員の目に留まったおかげで、あさひと手嶋は新プロジェクトの主導を任された。
今日は本格始動の前により広い知見を得るため、記事の元となった研究について、研究者の話を聞きにきたのだった。
あさひはホワイトボードを備えた会議室のスクリーンから、手元のノートパソコンに目を移す。
ちらっと手嶋を盗み見れば、のっそりとした体躯は猫背で曲がっているものの、その目にはこの件に対する意欲がうかがえた。
「大変革新的な研究だと感じました。いくつか質問をさせてください。先ほど出てきた環境コストの概念ですが——」
疑問点をひとつずつ洗い出しては、ぶつけていく。事前に勉強した内容とすり合わせながら、あさひは研究者の回答を基にさらに議論を重ねた。
「つまり、今後の開発にあたってもっとも必要なのは——」
あさひが議論の骨子をまとめ、自社にとって有用なシステム作りの視点から提案をすると、三人の研究者らがそれぞれ大きくうなずいた。
「おっしゃるとおりです。それが可能になれば、モビリティの未来はまだまだ大きく広がるでしょう」
あさひは手嶋にも質問がないか確認する。手嶋は「あ、いや……」と言うだけで質問が見つからない風だったため、そこで議論は切り上げとなった。
今日はただ話を聞きにきただけじゃない。あさひはこの研究を生かすべく、ひとつの提案を切りだす。
「では、この件をぜひ弊社と共同研究しませんか? 今日のお話をうかがって、皆さんにとっても有為なものになると確信しました。ぜひとも両者での相乗効果を狙いたいのです」
「それは願ってもない! 私らにとっても、新たな発見が得られるでしょう。ただ、まずは目指す方向性の確認をしたい」
「もちろんです。ではまず――」
研究者の代表格の教授が食いつく。たしかな手応えを感じ、あさひは手嶋と目線を合わせた。
「ではさっそく、話を進めましょう。今後はこちらの手嶋が弊社の窓口として本件を主導いたします。大変有能ですので、なんなりとお申しつけください」
任せられるとは思っていなかったのか、話を振られた手嶋が焦って挨拶する。
追加でいくつかすり合わせを終えたのち、あさひたちは研究者たちと和やかな雰囲気のうちに別れ、校舎をあとにした。
寒空の下、パンプスの踵が広い歩道を蹴る乾いた音が響く。誰が手入れしているのか、二月にしてはキャンパス内は驚くほど緑豊かだ。
次は緑の多い場所でデートするのも、いいかもしれない。あさひはふと凌士のことを考えて顔をほころばせる。
「おれなんかに任せていいんですか」
広いキャンパスを正門に向かって歩きながら、手嶋が大きな体に似合わない、ふて腐れた風な顔をした。
「うん。この研究をいかに具体的な事業に落としこんで、社内を動かせるかは手嶋くんの働きにかかってるよ。といっても、わたしももちろん、サポートするから」
「なんでおれに? ……チーフに文句ばっかり言ってたのに」
「意欲、あるでしょ。意欲があって、自信もある。そんな社員を使わなくてどうするの」
手嶋がはっと表情を引きしめる。
「でも、ここからは……社外のひとには甘えは通用しないよ。手嶋くんも、如月の顔だという意識を持ってね。経験の浅さは、甘えの理由にはならないから。ここからは立場が手嶋くんを作っていくから、邁進してください」
言いながら、あさひはかつて自身が凌士にもらった言葉を噛みしめる。
手嶋が足を止め、小さく頭を下げた。
「これまで仕事を舐めてて、すみませんでした。今日のチーフ、格好よかったっす。これからも、よろしくお願いします」
あさひはくすりと笑って足を止め、手嶋を見あげた。
「こちらこそ、よろしく。さっそく部長に報告しなきゃね。如月統括もきっと経過を早くお知りになりたいだろうし」
「そういやチーフって、統括とは……」
「ん?」
歩みを再開しかけたあさひは、手嶋がついてこないのに気づいてふり向いた。
なにかためらっていた手嶋が、はっとしたように歩きだす。
「……いや、なんでもないっす。早く会社に戻りましょう。今後の段取りも詰めさせてください」
「やる気満々だね」
あさひたちは足早に帰社すると、その足で部長に今日の成果を報告した。聞きつけた凌士も話に加わる。
主な報告者は手嶋で、あさひはときおり補足をするに留めた。
「よくやったね、ふたりとも。ご苦労さん」
「この研究に目をつけた手嶋のおかげです。部長」
「いえ、部長。事業展開と絡められたのは碓井チーフの手柄です」
おや、と企画部長も凌士も意外そうな顔をする。手嶋の態度が明らかに変化したからだろう。凌士が先に表情を戻すと、手嶋の肩を叩いた。
「なるほど、いい仕事ができたようだな。研究所との共同研究の件、社長にも声をかけてくれ。NDA(秘密保持契約)を忘れるな」
「はい!」
ふたつ返事をした手嶋に、部長が賛同の意を示す。そのかたわらで、凌士があさひに向け声には出さずに唇を動かした。
——よくやったな。
目に入った瞬間、心臓が跳ねた。
(凌士さんからの言葉が、いちばん嬉しい)
あさひは凌士だけに見えるように、とびきりの笑顔を返す。
まさかその様子を、手嶋に見られているなんて思いもしなかったけれど。
その後は手嶋共々、あさひも各方面との調整に追われた。
基本的に仕事を進めるのは手嶋だが、あさひもサポートするうちに定時を過ぎていた。
向かいの席の手嶋は、先日までの鬱屈が嘘のように張り切っている。
思えば、あさひも研修から本体に戻ってきたころは、仕事を覚え始めてがむしゃらだった。
(懐かしいな)
根を詰めさせてもよくないだろうと、あさひは席を立った。飲み物でも差し入れしよう。
トイレを済ませてから、自販機のあるリフレッシュスペースに向かう。ところが、開放されたドアの内側から聞こえてきた声に、あさひはドアの手前で足を止めた。
「——碓井チーフが付き合ってる相手は、統括ですか?」
手嶋だ。彼も一服しにきたのだろうか。話し相手は凌士らしい。
凌士と付き合っていることは、社内には伏せている。婚約もしたのだから、と凌士はすぐにでも公表したそうだったけれど、あさひは待ってもらっている。
けれど、とあさひは今さらながらに、先日の景との一件を結麻に見られてしまったのを思い出した。
あのときはそれ以上、ふたりにかまう余裕もなくカフェテリアを出たが、景が言うとも思えないから、彼女が手嶋に話したのかもしれない。
でもそれなら質問ではなく断言するはずか、とあさひは思い直す。
(じゃあ、なんで……?)
その疑問は次の手嶋の言葉で解けた。
「チーフが統括を見るとき、表情が明らかに違うんすよね。女って感じで、気ぃ抜けてる」
あさひは恥ずかしさのあまり両手で顔を覆った。まさか顔に出ていたとは思いもしなかった。
結麻が話していないのにはほっとしたけれど、今度からいっそう気をつけないと。
(それより、凌士さんはどう返すの?)
次に会ったときに直接伝えるつもりで、あさひはまだ絵美にも話していないのだ。
あさひは息をつめ、耳をそばだてる。心臓がばくばくと激しく鳴る。
「碓井は、いい女だろう」
「それ、牽制ですか?」
「正しく意味をとらえているじゃないか」
「だって露骨すぎっす……まだおれ、なにも言ってませんよ」
「だが、碓井への見方を変えたんだろう?」
「それは、まあ。けっこういい女だなっつーか……」
クシャッという高い金属音がして、思わず中を覗いたあさひは息をのんだ。
凌士が冷ややかな目で、コーヒーの空き缶を握り潰している。
(凌士さん?)
対する手嶋は凌士の気迫にのまれて、目を丸くしていた。
「……っ、すんません。思っただけで、なんもしてませんから。マジ勘弁してください」
「ああ、のみこみがよくて助かる」
「はいっ、えっと、おれ、仕事に戻ります。あっ、誰にも言わないっす!」
手嶋がそそくさと空き缶を捨てる。あさひは手嶋が出てくる前に踵を返し、ひと足先にフロアに戻った。
「怖え……」
あとから戻ってきた手嶋が、席につきながら激しくかぶりを振る。
「あらためます。マジで」
凌士とのことが知られたのも気まずいし、さっき偶然耳にしてしまった内容も、意識するとドツボにはまる気がする。あさひは手嶋の独り言をすべて聞き流すことにした。
タイミングをおなじくして、あさひのスマホが着信を知らせた。あさひは手嶋から視線を外して電話に出る。
「――今日は何時に上がれる?」
凌士が開口一番に言う。
あさひはちらっと手嶋を見て声を落とした。
「わたし自身はいつでも上がれます。あとは、キリのいいところまで付き合ってから……」
手嶋くんに、と言う前に凌士が遮る。
「手嶋の面倒を見るのも大概にしておけ。下で待ってる」
心なしか不機嫌そうに聞こえる。
(え、もしかして凌士さん、拗ねてる?)
あさひはパソコンのモニターに表示されたファイルを片手で次々に閉じながら、声をやわらかくした。
「すぐ行きます」
オフィスフロア専用の出入り口から裏通りに出ると、冷たくも春の気配を帯びた風が、あさひの髪を揺らした。
職場との寒暖差に首をすくめずにはいられない。あさひはアイスブルーのコートの前をかき合わせる。
凌士の姿を探して首をめぐらせると、凌士は道路の向かい側で夜を煌々と照らす自販機のそばに立っていた。
「お待たせしました。寒かったでしょう」
白い息を吐いて駆け寄ると、凌士が笑みを深くした。
「早かったじゃないか。上司を待たせるのは怖いか」
あ、とつい口をついた。
統括を待たせるなんて、一分でも怖い、と言った日のことを思い出す。
ふたりで紅葉を見たあのころは、まだ凌士に対して恐れと遠慮があった。戸惑いも。今とは大違いだ。
あさひは笑って首を横に振った。
「凌士さん、拗ねてたでしょう。帰るって言ったら、手嶋くんには困った顔をされましたけど」
「困らせとけ」
軽く腰を引き寄せられ、あさひは凌士の隣に収まった。駅までの道を並んで歩く。
凌士の歩みは、普段あさひと並ぶときよりわずかに早い。まるで、早く会社から離れようと言わんばかりで、胸がとくりと鳴った。
手嶋との会話を立ち聞きしてしまったと言うべきか迷って、やめる。しばらくは、あさひだけの秘密だ。
直接、愛情を向けられるのも幸せだけれど、あさひのいないところでも想いを隠さないでくれるのは、胸をくすぐられると思う。
ひとり面映い気分を味わっていると、凌士が口を開いた。
「考えたが、やはり婚約の件は会社にも公表したい。お互いの両親への挨拶も済ませて、来月からは一緒に住むだろう。総務にはすぐバレるぞ」
先日、あさひは凌士を実家に連れていった。
実家の両親は喜びを通り越して、驚きで硬直していた。かまえないでほしくて、次期社長だという情報を事前に伝えなかったからだけど、あれだけ驚かせてしまうなら言っておけばよかったかもしれない。
でも、父も母も驚きを過ぎると、それはもう大はしゃぎだった。
特に母は、美貌の恋人にすっかり心酔していたと思う。父は父で、最後に自身の手で売った車の話で、凌士と盛り上がっていた。和やかな一日だった。
一方の凌士の両親はといえば、こちらも拍子抜けするほど歓待された。
如月モビリティーズほどの大企業ともなれば、一社員が社長に会う機会なんてほとんどない。それこそ、入社式以来のご尊顔。
緊張に肩をがちがちに強張らせて対面したあさひだったが、思いがけず義母がふたりの肩を持ってくれたのだった。
『あさひさんが、凌士がずっと想っていた方ね? ……なんですか凌士、その顔は。凌士がひとりの女性に執着していることくらい、気づいていましたよ。だから見合い話を持ち出しても無駄だと、思い直したんじゃないですか』
『母さんは恐ろしいひとだな……』
凌士は驚きを隠せないようだったが、とにかく凌士が言ったとおり、社長夫妻にも結婚を快く了承されたのだった。
「凌士さんのご両親にもあたたかく迎えていただいて、幸せです」
思い出して頬を上気させると、凌士があさひの手を取った。
「ほら、公表しても問題ないだろう。もし問題が起きたとしても、俺が守ってやる。だからこれ以上、男を引き寄せてくれるな」
手を包むように握られる。凌士の手も外気で冷えてしまっていた。
あさひはぬくもりを与えるように、凌士の手をぎゅっと握り返す。
凌士があさひの手ごと、自身のコートのポケットに手を突っこんだ。
(引き寄せたつもりはないけど。……って言ったところで、そういう問題じゃないよね)
「凌士さんとのこれからには、不安はないんです。ただ、仕事がしづらくなりそうなのが心配で」
それに、夫婦でおなじ職場では周りもやりにくいのではないか。
如月では話を聞いたことはないが、そのような場合、なかには夫婦の片方を異動させる企業もあるらしい。
異動になるとしたらあさひのほうだろう。でもまだRS企画部にもきたばかりで、もう少しここで成果を出したい思いもある。