繊細な細工物を扱うようにベッドに横たえられ、あさひはたまらず熱い吐息を零した。
身をよじるまもなく、凌士が覆い被さってくる。ふたり分の重みを受け、ベッドがかすかに軋んだ。
切れ長の目が、あさひを真上から射貫く。職場では冷たい印象さえ与える目は、今は焼けつきそうな熱を帯びていた。
(心臓の音がうるさくて……破裂しそう)
逃げ出したくなるほどの羞恥と、触れられることへの期待がまざり合う。
悲しくもないのに、どうしてか涙が出そうだ。
「もう待てない」
甘く胸を揺らす、低音域に艶のある声。
無条件に頭を垂れてしまいそうな、強い視線。
逃さないという、たしかな意思が伝わってくる。
社内では、畏れとわずかな揶揄をもって「鋼鉄の男」と呼ばれる凌士の表情に浮かぶのは、まぎれもない熱情。
シーツに縫い止められ、あさひが言葉すら満足に紡げずにいると、すかさず耳を甘噛みされる。あさひは色めいた吐息とともに体を跳ねさせた。
「凌士、さん」
かすれた声で凌士を呼ぶと、凌士が飢えた獣のように目を鋭くした。耳から首筋へ、唇がさらに下へおりていく。
鎖骨のまろやかな線をなぞり上げられる。
そのたびに呼吸が乱れ、あさひは甘い声を零す。
たまらずシーツを握りしめれば、乱れた髪を凌士の手が梳いた。何度も。愛おしむように。
「俺はあさひを、決して泣かせない。だから安心して俺にすべて預けろ」
頭を屈めた凌士のキスを、あさひはそっと受け止めた。
ひんやりとした手のひらが、あさひの輪郭をたしかめるように撫でる。
「そんなこと言われたら……気持ちごと差しだすしかないじゃないですか」
「そうしろと言っている。ほかの男に取られるのはごめんだ」
性急に、だけど優しい手つきで、有無を言わさないとばかりにニットもインナーも脱がされる。電気を消した凌士の部屋に、あさひのほっそりとした白い肢体がほのかに浮かび上がった。
あらわになった素肌が、優しく、けれど容赦なくまさぐられる。なめらかな肌がみるみる熱を帯びた。
「あまり、見ないでください……っ」
「その要求は聞けないな」
「恥ずかしいんです……!」
「ふ」
凌士は愉快そうに笑い、すぐにまた急くような仕草であさひの肌を求める。
あさひは与えられる快楽の深さに身をよじった。
(なにも考えられなくなりそう……っ)
息が上がり、あさひは凌士の名前を切れ切れに呼んだ。応える凌士の顔も、職場で見せる冷徹なものからは想像がつかないほど切羽詰まって見える。
部屋に満ちた空気が艶を帯び、濃やかさを増していく。
肌も、体の芯も熱い。溶けてしまいそうだ。
凌士が服を脱ぎ、均整のとれた体が眼前に迫る。羞恥が膨れ上がり、あさひはたまらず目を逸らしてしまった。そのくせ、暗闇でもはっきりと目に焼きついて離れない。
否応なしに、心拍が駆け上がる。
凌士が、あさひの心まで支配するかのような声で告げた。
「すべて俺が上書きしてやる。俺の抱きかただけを、覚えておけ」
「凌士さん……っ!」
とうとう深い場所を貫かれたとき、あさひはシーツの上であられもなく嬌声を迸らせながらやわらかな肢体を跳ねさせた。
(こんな風に、一途に深い思いを伝える抱きかたなんて、知らない)
根こそぎ持っていかれそうな、あるいは逆にとめどなく注がれそうな……そんな風に抱かれることが自分の人生に起こるなんて。
感情があふれてどうしようもない。目の奥が熱い。
「すみません。ちょっとだけ……泣きそうです」
「実はあさひの泣き顔も、けっこう気に入ってる。心配するな」
凌士はまるで大したことではないという風に、あさひの耳元に頭を屈めてつぶやく。
濡れた頬を凌士の唇が慰撫する。あふれた感情が、凌士の唇に吸いこまれていく。
人生で最低だった日から、たった二ヶ月。
あのときはこんな幸せな日がくるなんて、あさひは想像もしなかった。
「景ちゃんって、あの野々上課長!?」
きゃあっ、と甘ったるさを乗せた悲鳴が個室の薄い扉越しに耳をつく。 あさひは思わず、トイレの個室で息をひそめた。
後輩たちは、あさひが個室にいることなど思いもよらない様子で、声を黄色く弾けさせる。
「えへへ。うん。付き合ってる証がほしいって、おねだりしたら買ってくれたの」
視界がぐらりと回る。あさひは個室のドアをにらみ、ニットを着た体を両腕でかき抱いた。そうでもしないと、倒れそうだった。
顔から血の気が引いていく。
(付き合ってる……?)
砂糖菓子を思わせる声が、あさひの頭を乱暴に叩く。
あさひが購買部から今の企画部へ異動する二ヶ月前まで、直接指導していた結麻だ。いつも髪とメイクに手をかけていて、ふんわりしたスカートや淡い色あいの服が似合う後輩。
あさひは、見た目の雰囲気からして砂糖菓子さながらである結麻の顔を思い浮かべる。
苦いものが喉元までこみ上げた。
「いいなーそれ、秋冬の新作リングでしょ? 雑誌で見たことある。可愛いー」
もうひとりの女性社員が、某有名ブランド名を挙げてはしゃぐ。あさひは奥歯を噛みしめた。
「いいなあー。三十二歳独身で役職者でしょ、収入も文句なし。しかも恋人の言うことをなんでも聞いてくれるって、最高じゃーん。でも、野々上課長ってたしか碓井さんと付き合ってるらしいって、言ってなかった?」
あさひはどきりとして、意味もなく胸下まで伸びた髪を耳にかける。
ヘアサロンでかけてもらったパーマが取れかけ、カラーリングした色も抜けて黄色っぽい茶色に変わっている。それがみじめさに拍車をかけた。
結麻みたいに可愛くもない。ふんわりした女子っぽい服は似合わないから、あさひのファッションは、無難なニットと細身のパンツ姿が定番だ。
重ための前髪の下から覗く顔立ちも、これといって特徴はない。すっぴんだと目元がぼんやりするため、目元だけは美容雑誌を参考にメイクで盛っているけれど。全体的に、パッとしない自覚はある。
そのあさひは、前の部署に所属していたときから、職場には内緒で当時の上司である野々上景と付き合っていた。
(少なくとも、わたしはそう思ってたのに)
なんでこんな話を聞かされているのか、頭が理解を拒否してしまう。
「だからなに?」
結麻が笑う。勝ち誇った顔が目に浮かぶようだ。
「景ちゃんを取っちゃいけないってことはないもん。あさひ先輩の、仕事もバリバリやってますっていうオーラ、前から鬱陶しかったんだよね。景ちゃんも、私といるとほっとするって言ってたし」
(早く出ていって……っ。聞きたくない)
「あー、わかる。昇進した私、素敵ーみたいな圧も鼻につくっていうか。やったじゃん、結麻」
心臓がぎゅっとつかまれたようになり、あさひは酸素を求めるようにはくはくと喘ぐ。
「ふたりが付き合ってること、碓井さんは知らないんだよね?」
「そうそう。でも、もう別れるんじゃない? 景ちゃんは別れるって言ってたよ。可愛げがなくなって冷めたって言ってたもん」
ふたりは、ひとしきり結麻の恋愛とあさひへの陰口に興じてから出ていく。あさひは唇をきつく噛んだ。
どれくらいそうしていただろう。
気づけば昼休憩もほとんど終わりかけだ。さすがに職場に戻らなければならない。
だけどその前にこれだけは……と、あさひはのろのろとスマホを取りだし、景にメッセージを送った。結麻のことで話がしたい、と。
(可愛げがないのはわかってるけど……目の前の仕事を頑張っただけなのに)
ワンフロアに百五十名ほどが勤務する三十階のオフィスでは、昼休憩を終えて戻ってきた社員が、続々と頭を仕事モードに切り替えている。そんな中、どうにかフロアの自席に戻ったあさひは、まだ呆然としていた。
さいわい、あさひの変化に気を留める人間はいない。そのことに救われる思いがする。
もしもあさひが購買部所属のままだったら、きっと景と結麻の姿が目に入るたびに心臓を抉り出される気分を味わったに違いなかった。
別の部署でよかった。まだ仕事で気を紛らわせることもできる。
(そうよ、仕事。仕事では成果を認められてる。だからこそチーフになれたんだし、手を抜いてられない)
思い上がっているわけじゃない。けれど、そう思わないと今日は乗り切れない。あさひは呪文のように言い聞かせながら、午後の業務をこなす。
「碓井チーフ、ファイル送ったんでハンコお願いします」
部下の手嶋が向かいの席からのっそりと眠そうな顔を覗かせたときの対応も、いたって普段どおり。
「うん。すぐやるね」
送られてきたファイルを、そそくさと開く。押印といっても、電子ハンコだ。
さっきの出来事が頭にこびりついて、ともすれば上滑りしそうな文章だったが、最後まで確認する。いくつか手嶋に質問をしてから、「確認者」欄に電子ハンコを押した。
所属部署の略称と日付、そして碓井という名前が資料の右上に表示される。
(うん、仕事は問題ない)
あさひは心の内でまた言い聞かせ、部長に回付した。恋愛はダメでも、せめてチーフとしての働きはしないと。
それがあさひにとっての最後の砦。
――けれどその日の夜のうちに、その砦さえも崩れてしまった。
夜。あさひは、景が暮らすマンションの最寄り駅周辺にあるコーヒーチェーン店で景と向かい合った。
メッセージの返信では、部屋で話そうと書かれていたけれど、いざマンションのエントランスで呼びだしたら、景が下りてきたのだった。
外へ行こう。
そのひと言だけで、部屋には結麻がいるのだと察しがついた。
テラス席のアイアンチェアの冷たさが、薄手のコートから覗いた肌から、心にまで染みこんでくる。紙カップのホットカフェラテは、またたくまに冷めてしまった。
向かいで、景が所在なさげにコーヒーの紙カップを持ち上げては下ろすのを繰り返す。社内では癒し系と称されていた特徴的な垂れ目が、いつもに増して垂れている。もこもことしたダウンジャケットに身を包んだ景は、これまでより小さく見えた。
あさひが問い詰めるまもなく、景はあっさりと浮気を認めた。
「ごめん。結麻のことは……なんだかんだと頼られるうちに、放っておけなくなって。でもそれだけで、指輪にも深い意味はないっていうか。どうしてもほしいって言うから」
「……あの指輪に深い意味がない? そんなの誰も信じないよ」
深い意味もなく、海外の有名ブランドの数十万もする指輪をプレゼントするものだろうか。
左手に嵌めたのだろう、その輝きを想像するだけで、胃がよじれそうになる。
指輪がほしい、なんていう話じゃない。
あさひと付き合っていながら、景が別の女性に心を砕いていたのが苦しい。悔しい。……辛い。
否定しかけた景が、あさひの尖った視線に気づいて口ごもる。
「……だから悪いと思って、君にはチーフのポストをあげたんじゃないか。君は指輪をほしがるタイプじゃないし、昇進のほうが嬉しかっただろう?」
「な……に、言ってるの? チーフ職をあげるって」
カップをテーブルに置く手元がぶれる。横倒しになりかけ、あさひはハッとして寸前で止める。
景が気まずそうに顔を歪めた。
「うちにはすでにチーフがいるから、君を自然な形で昇進させるためには、よそに異動させるのがいいだろう?」
景は目の前にいるのに、すごく遠い。なにを言ってるのだろう。
まるで分かり合える気がしない。
「これでも僕なりに、君に申し訳ないと思って――」
「昇進させてやるから浮気を許せって?」
あさひは飲みかけのカップを引っつかんだ。
景がぎょっとして肩を縮める。その甘い顔にコーヒーをぶちまけてしまいたい気持ちを、あさひは何度も荒い呼吸を繰り返してやり過ごす。
ようやく絞り出した声は、自分でも抑えられないほど震えていた。
「……もういい、わかった。わたしは下りる。じゃあね」
それが景との、約一年に及ぶお付き合いの最後だった。
このまま家になんて帰りたくない。
あさひはふらふらと店をあとにすると、夜の街をあてもなくさまよった。