自室の冷房温度を「弱」にして、ご無沙汰な教科書を開く。コチコチと時計の音しか聞こえない空間で思い出すのは、昔のことだらけ。
 コーヒーから立つ白い湯気に母の面影を重ねては、どうせ死ぬんだったらかき氷でも何でも好きに摂れば良かったのに、などと思う。
 母に逢いたい想いは、母が死んだあの日から変わらない。

 私が近所の商店街を訪れたのは、その日の午後のこと。
 受験勉強の何も進まずに午前は過ぎ、ただぼんやりと教材を眺める時間を終えた。

 高校に行きたいとは思っていない。しかしそれならば、来年の自分は家で引きこもるのか、働くのか。そのどちらに進む勇気もない。
 結局、夢がなくて進学する金が家庭にあるならば、大抵の人間は高校へと入学するのだろう。それがべつに、自分の行きたい道ではないとしても。
 かたちだけでも受験生に近付こうと思い、リングノートやマーカーペンを購入した。

「あれっ。乃亜じゃん」

 商店街の出口でそう声をかけてきたのは、同じクラスの菊池勇太(きくちゆうた)君だった。

「久しぶりー。勇太君、買い物?」
「うん、ペンの芯がきれちゃって。それだけの為にこんな暑い中、出てきたよ」

「あつー」と左手をうちわにする勇太君。彼は学級委員であると共に、テストでも毎回上位に名を刻む、私とは別世界の人間だ。

「乃亜も買い物?」
「うん。ちょっとノートやペンを」

 私が手元に抱えるそれ等を見て、彼は言う。

「乃亜も受験勉強してるんだ。えらいじゃん」
「勉強というか、これからというか……」

 天と地ほどの差がある彼を前に、胸を張れることなどない。

 彼は「そっかそっか」とひとり頷くと、何かを閃いたように手を叩く。

「買い物ついでに今から図書館に行って勉強しようと思ってたんだけど、乃亜もどう?」

 キラキラした瞳を向けられて、あまりにも違う熱意を感じ取った私の首は、当の然、横に振るわれた。

「いや、私はいいや。参考書も何も持ってないし」
「そんなの、俺のを使えばいいよ。何冊かあるよ」
「いいよいいよ、帰る」
「ノートはあるんでしょ?」
「今買ったやつならあるけど……」
「じゃあ行こっ」

 そう言うと、彼はくるりと反転し、どんどん図書館へ向かって歩み出す。

「ゆ、勇太君っ。ちょっと」

 学校では知り得なかった彼の強引さに、思わず背中を追ってしまう。
 タタタと速まる私の足音に、彼は振り向き立ち止まった。

「日陰探しながら、ゆっくり行こー」

 その笑顔は、眩しかった。