(困ったわ、ホント)
多希は絶望的なため息をついた。
前川が再び『発生』したのだ。出没と言いたいところだが、感情的にそう下したい心境なのである。
ライナスとアイシスが自分の世界に帰ってから半年が経った。
今度こそ完全に店を閉めようと思ったけれど、なんだか未練がましくなにもせず過ごして三週間くらいが経った頃から、ライナスたちがいないことが前川の耳に入ったのだろう。
家の周辺をうろついているのを見かけた。とはいえ、話しかけられるわけでもないし、家の前に立っているわけでもない。ただ一日に何度か通り過ぎるだけなので、こちらからアクションを起こすわけにもいかなかった。
店は閉めているので、多希が前川の姿を直接確認できるのは偶然的なのだが、近所のおばさんたちや、常連たちと顔を合わせると、気をつけるように言われるので、けっこう頻繁に通り過ぎているのだろうと察する。
それから三か月が過ぎた頃、ゴミ出しに行ったところで声をかけられた。
ライナスたちがいないが、国に帰ったのか? と。
返事に窮した。帰ったことは事実だから、そう答えることは正しいものの、その後が怖い。多希は思わず嘘をついた。
「実家の事情で一度帰国されたけど、また戻ってきますよ。でも、半年くらい先かなぁ」
「店はしないの?」
「一人じゃ回せないから、ライナスさんが戻ってきてからかな、と」
「僕が手伝うけど?」
その言葉にゾッとなった。とんでもない話だ。
「いえいえ、大丈夫です。失礼します」
軽く会釈をして歩き始めるが、前川はついてきて、一方的に話しかけてくる。
迷惑なのだが、だからといってなにかされるわけでもない。家の前まで来るとおとなしく帰っていく。
前のように交際を求められることもなければ、不愉快なことを言われるわけでもない。もちろん体に触れられることもない。
まさか話しかけてくれるな、とも言えないので、警察に相談しようもなく、多希は困惑の日々を過ごした。
そしてライナスたちが帰郷して半年が過ぎた今に至る。
(噓も方便で、ライナスさんと結婚したとか言おうかなぁ。あるいは、プロポーズされたから、婚約状態とか。プロポーズはされたんだから、これは嘘じゃないし。それに籍は入ってないけど、別居しているだけで妻だってのもアリじゃない? 心の妻って感じで……)
はあ、と大きくため息をつく。
ライナスはもうここには来ない。いつかバレる嘘になるが。
(たぶんだけど、会話の中から、ライナスさんが戻って来るのか、来ないのか、探っているんだと思う。ってことは、話せば話すほど、分が悪くなるってことだ。ここは遠距離恋愛ってムードを出して、牽制するしかないのかも)
出かける準備を終え、多希は玄関を出た。
(!)
いる。十メートルくらい先にある電柱の傍に立っている。
気づかないようにしつつ、車に乗り込んだ。その際、スマートフォンで電話をしているフリをした。
(うれしそうにしていたら、ライナスさんと会話してるって誤解してくれるかな)
どうしてこんなに気を回さないといけないのかと、だんだん腹が立ってくるが、仕方がない。
そればかりではない。ライナスとの失恋は、できたら早く忘れたいのだ。それなのに、ずっとライナスのことを考えているし、さらにラブラブ感を演出しなければならないなど、傷つくばかりだ。
車を発進させ、大喜のいる施設に向かった。
大喜とのやり取りは変わらなかった。
帰ってきてほしい多希に対し、大喜は頑として帰らないと言う。そして店を閉めて、就職しろとうるさい。
多希はもう大喜とはケンカをしないと決めていた。ライナスとアイシスとの日々を失って、自分には大喜しかいないことを改めて痛感したからだ。
「お前のマドレーヌ、もう俺を抜いたな」
「……え? ホント?」
「ああ。特にレモン味のがうまい」
「夏にはいいでしょ? 爽やかで。アイシスが喜んでくれたの」
言ってから、しまった、と思った。もう遅い。
「……そうか」
「食べてくれるの、おじいちゃんしかいないけどね。お店は整理しようと思ってる。それでね、おじいちゃんに相談なんだけど」
「うん?」
「前川さんがさ、面倒くさいの」
マドレーヌをモグモグ食べていた大喜の口が止まった。
「言い寄られるわけでもないし、つきまとわれるわけでもない。時々、ホントに時々だけど、ライナスさんのことを聞いたり、お店を手伝うとか言ったりするくらい。でもね、なんかずっとうちの周辺を見張ってるみたいで気持ち悪い」
「…………」
「帰国して、また戻ってくるって説明したから、様子を見てるんだと思う。面倒くさいじゃない? おじいちゃんが本当に帰って来ないなら、あの家は売ってしまって、どこかのマンションに移ろうかなって思い始めた」
「それがいいな」
「やっぱり、そう思うよね」
「そもそも一人で暮らすには広い。売るか貸すかして、お前は引っ越すといい。で、就職しろ」
「はいはい」
多希は自分が作ったレモン味のマドレーヌを手に取った。
多希は絶望的なため息をついた。
前川が再び『発生』したのだ。出没と言いたいところだが、感情的にそう下したい心境なのである。
ライナスとアイシスが自分の世界に帰ってから半年が経った。
今度こそ完全に店を閉めようと思ったけれど、なんだか未練がましくなにもせず過ごして三週間くらいが経った頃から、ライナスたちがいないことが前川の耳に入ったのだろう。
家の周辺をうろついているのを見かけた。とはいえ、話しかけられるわけでもないし、家の前に立っているわけでもない。ただ一日に何度か通り過ぎるだけなので、こちらからアクションを起こすわけにもいかなかった。
店は閉めているので、多希が前川の姿を直接確認できるのは偶然的なのだが、近所のおばさんたちや、常連たちと顔を合わせると、気をつけるように言われるので、けっこう頻繁に通り過ぎているのだろうと察する。
それから三か月が過ぎた頃、ゴミ出しに行ったところで声をかけられた。
ライナスたちがいないが、国に帰ったのか? と。
返事に窮した。帰ったことは事実だから、そう答えることは正しいものの、その後が怖い。多希は思わず嘘をついた。
「実家の事情で一度帰国されたけど、また戻ってきますよ。でも、半年くらい先かなぁ」
「店はしないの?」
「一人じゃ回せないから、ライナスさんが戻ってきてからかな、と」
「僕が手伝うけど?」
その言葉にゾッとなった。とんでもない話だ。
「いえいえ、大丈夫です。失礼します」
軽く会釈をして歩き始めるが、前川はついてきて、一方的に話しかけてくる。
迷惑なのだが、だからといってなにかされるわけでもない。家の前まで来るとおとなしく帰っていく。
前のように交際を求められることもなければ、不愉快なことを言われるわけでもない。もちろん体に触れられることもない。
まさか話しかけてくれるな、とも言えないので、警察に相談しようもなく、多希は困惑の日々を過ごした。
そしてライナスたちが帰郷して半年が過ぎた今に至る。
(噓も方便で、ライナスさんと結婚したとか言おうかなぁ。あるいは、プロポーズされたから、婚約状態とか。プロポーズはされたんだから、これは嘘じゃないし。それに籍は入ってないけど、別居しているだけで妻だってのもアリじゃない? 心の妻って感じで……)
はあ、と大きくため息をつく。
ライナスはもうここには来ない。いつかバレる嘘になるが。
(たぶんだけど、会話の中から、ライナスさんが戻って来るのか、来ないのか、探っているんだと思う。ってことは、話せば話すほど、分が悪くなるってことだ。ここは遠距離恋愛ってムードを出して、牽制するしかないのかも)
出かける準備を終え、多希は玄関を出た。
(!)
いる。十メートルくらい先にある電柱の傍に立っている。
気づかないようにしつつ、車に乗り込んだ。その際、スマートフォンで電話をしているフリをした。
(うれしそうにしていたら、ライナスさんと会話してるって誤解してくれるかな)
どうしてこんなに気を回さないといけないのかと、だんだん腹が立ってくるが、仕方がない。
そればかりではない。ライナスとの失恋は、できたら早く忘れたいのだ。それなのに、ずっとライナスのことを考えているし、さらにラブラブ感を演出しなければならないなど、傷つくばかりだ。
車を発進させ、大喜のいる施設に向かった。
大喜とのやり取りは変わらなかった。
帰ってきてほしい多希に対し、大喜は頑として帰らないと言う。そして店を閉めて、就職しろとうるさい。
多希はもう大喜とはケンカをしないと決めていた。ライナスとアイシスとの日々を失って、自分には大喜しかいないことを改めて痛感したからだ。
「お前のマドレーヌ、もう俺を抜いたな」
「……え? ホント?」
「ああ。特にレモン味のがうまい」
「夏にはいいでしょ? 爽やかで。アイシスが喜んでくれたの」
言ってから、しまった、と思った。もう遅い。
「……そうか」
「食べてくれるの、おじいちゃんしかいないけどね。お店は整理しようと思ってる。それでね、おじいちゃんに相談なんだけど」
「うん?」
「前川さんがさ、面倒くさいの」
マドレーヌをモグモグ食べていた大喜の口が止まった。
「言い寄られるわけでもないし、つきまとわれるわけでもない。時々、ホントに時々だけど、ライナスさんのことを聞いたり、お店を手伝うとか言ったりするくらい。でもね、なんかずっとうちの周辺を見張ってるみたいで気持ち悪い」
「…………」
「帰国して、また戻ってくるって説明したから、様子を見てるんだと思う。面倒くさいじゃない? おじいちゃんが本当に帰って来ないなら、あの家は売ってしまって、どこかのマンションに移ろうかなって思い始めた」
「それがいいな」
「やっぱり、そう思うよね」
「そもそも一人で暮らすには広い。売るか貸すかして、お前は引っ越すといい。で、就職しろ」
「はいはい」
多希は自分が作ったレモン味のマドレーヌを手に取った。