同時刻、多希はぼんやりとダイニングルームを見ていた。
誰もいない部屋。シンと静まり返っている。ライナスの穏やかな笑みも、アイシスの元気な声や足音も、どこにもない。
三人で賑やかに過ごした約二か月が嘘のようだ。
「アイシス」
誰にも届かないほどの小さな声で名前を呼んでみるが、当然返事はない。
――タキ!
まっすぐ見つめてくる大きくてきれいなエメラルドグリーンの瞳。ハキハキとした口調。全身でタキを慕ってくれる愛らしい少女。
――僕はタキが大好きだよ!
弟が生まれるまで、男として生きることを強いられているため、口調は男の子そのものだ。店に来る客たちにも、言葉遣いを直したほうがいいんじゃないかと言われたし、多希自身もそう思う時もあったが、結局一度もそのことには触れなかった。
人権もへったくれもない可哀相な日々から解放されたのだ。ここでは自由に暮らしてほしい。そう思い、言わないことにしたのだ。
「私も、アイシスが大好きだよ」
答えてみるが、やはり返事はない。
視線が動き、部屋中を一巡してまた元の位置に戻った。天井から吊り下げられているライトが見え、多希の唇が開くが。
「…………」
浮かんでくるのはライナスの名だ。だが、言えなかった。言えば世界が崩れてしまいそうな気がしたからだ。
「後悔なんて、してない」
言葉が口を衝いて出た。
音にして耳で聞くと体の奥底からなにかが急激に込み上げてきて、鼻の奥がツンと痛んだ。と同時に視界が滲む。両目からぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ち、頬を伝って流れた。
「してないよ。だって、おじいちゃんを残して行けないもん。絶対、行けない。私、間違ってない。間違ってないのに……」
多希は手の甲で目元をぬぐい、立ち上がった。
ここにいてもなにも始まらない。
「掃除しよう。いろいろ片づけないと」
アイシスとライナス、どちらの部屋から片づけをしようか一瞬悩み、多希はライナスの部屋に入った。
部屋を見回してから、クローゼットを開いた。男性が使っていた部屋だ。なんだか見てはいけないものを盗み見するような気がして、心臓がバクバクと鳴り始めている。
「あ、これ」
初めて会った時に着ていた服だ。滑らかな生地は、素人でもわかるほど高級感満載で、襟や袖、裾に凝られている刺繍の意匠はとても細かく、美しい。
多希はそれ以外のものを確認したあと、机の前に来た。教習所で使う教科書や、車について書かれた本、雑誌が積まれている。
さらに寄木細工の箱があった。
「ライナスさん、寄木細工の模様にすごく感動してたっけ」
呟きながら蓋を開けると、中には大小色合い様々な宝石がぎっしりと入っていた。王宮を離れる時、部下が持たしてくれたから金はあるとか言っていたことを思いだす。
こんな高級な宝石がいっぱい入った箱を、無造作に机の上に置いていることに驚いた。
「不用心!」
と思わず言い、宝石の中に小さな紙切れがあることに気づいた。引っ張り出して、書かれている文字を見た瞬間、息をのんだ。
『多希さん、いろいろとありがとう。どうか使ってください』
多希は反射的に口を覆っていた。涙がとめどなく溢れてくる。
ライナスはいつ来るかわからない今日という日のために、いろいろと準備をしていたのだ。
大喜のもとへ挨拶に行くこと然り、多希に金目の物を置いていくこと然り。
どこまでも、どこまでも、ライナスは多希を想ってくれていたのだ。
「ライナスさん……ライ、ナス、さん……うううっ、ううーーーっ」
我慢しようとしても声が出てしまう。
止めようとしても涙が流れ続ける。
もうたくさん泣いたはずなのに、涸れることがない。
後悔していない――もう会えない。
絶対に後悔していない――淋しくて仕方がない。
多希は泣き続けた。
誰もいない部屋。シンと静まり返っている。ライナスの穏やかな笑みも、アイシスの元気な声や足音も、どこにもない。
三人で賑やかに過ごした約二か月が嘘のようだ。
「アイシス」
誰にも届かないほどの小さな声で名前を呼んでみるが、当然返事はない。
――タキ!
まっすぐ見つめてくる大きくてきれいなエメラルドグリーンの瞳。ハキハキとした口調。全身でタキを慕ってくれる愛らしい少女。
――僕はタキが大好きだよ!
弟が生まれるまで、男として生きることを強いられているため、口調は男の子そのものだ。店に来る客たちにも、言葉遣いを直したほうがいいんじゃないかと言われたし、多希自身もそう思う時もあったが、結局一度もそのことには触れなかった。
人権もへったくれもない可哀相な日々から解放されたのだ。ここでは自由に暮らしてほしい。そう思い、言わないことにしたのだ。
「私も、アイシスが大好きだよ」
答えてみるが、やはり返事はない。
視線が動き、部屋中を一巡してまた元の位置に戻った。天井から吊り下げられているライトが見え、多希の唇が開くが。
「…………」
浮かんでくるのはライナスの名だ。だが、言えなかった。言えば世界が崩れてしまいそうな気がしたからだ。
「後悔なんて、してない」
言葉が口を衝いて出た。
音にして耳で聞くと体の奥底からなにかが急激に込み上げてきて、鼻の奥がツンと痛んだ。と同時に視界が滲む。両目からぽろぽろと大きな涙がこぼれ落ち、頬を伝って流れた。
「してないよ。だって、おじいちゃんを残して行けないもん。絶対、行けない。私、間違ってない。間違ってないのに……」
多希は手の甲で目元をぬぐい、立ち上がった。
ここにいてもなにも始まらない。
「掃除しよう。いろいろ片づけないと」
アイシスとライナス、どちらの部屋から片づけをしようか一瞬悩み、多希はライナスの部屋に入った。
部屋を見回してから、クローゼットを開いた。男性が使っていた部屋だ。なんだか見てはいけないものを盗み見するような気がして、心臓がバクバクと鳴り始めている。
「あ、これ」
初めて会った時に着ていた服だ。滑らかな生地は、素人でもわかるほど高級感満載で、襟や袖、裾に凝られている刺繍の意匠はとても細かく、美しい。
多希はそれ以外のものを確認したあと、机の前に来た。教習所で使う教科書や、車について書かれた本、雑誌が積まれている。
さらに寄木細工の箱があった。
「ライナスさん、寄木細工の模様にすごく感動してたっけ」
呟きながら蓋を開けると、中には大小色合い様々な宝石がぎっしりと入っていた。王宮を離れる時、部下が持たしてくれたから金はあるとか言っていたことを思いだす。
こんな高級な宝石がいっぱい入った箱を、無造作に机の上に置いていることに驚いた。
「不用心!」
と思わず言い、宝石の中に小さな紙切れがあることに気づいた。引っ張り出して、書かれている文字を見た瞬間、息をのんだ。
『多希さん、いろいろとありがとう。どうか使ってください』
多希は反射的に口を覆っていた。涙がとめどなく溢れてくる。
ライナスはいつ来るかわからない今日という日のために、いろいろと準備をしていたのだ。
大喜のもとへ挨拶に行くこと然り、多希に金目の物を置いていくこと然り。
どこまでも、どこまでも、ライナスは多希を想ってくれていたのだ。
「ライナスさん……ライ、ナス、さん……うううっ、ううーーーっ」
我慢しようとしても声が出てしまう。
止めようとしても涙が流れ続ける。
もうたくさん泣いたはずなのに、涸れることがない。
後悔していない――もう会えない。
絶対に後悔していない――淋しくて仕方がない。
多希は泣き続けた。