宮殿の広く長い廊下を歩く。すれ違う者たちが廊下の隅に寄り、深く礼をしてライナスたちを見送る。

 見慣れた場所、見慣れた光景のはずなのに、ライナスはなぜだか遠い記憶を辿っているような気がした。

(覚悟していても、やはり自分の心は偽れないな)

 後ろに続く部下たちに気づかれないよう、小さくため息をつく。

 宮殿の巨大さ、絢爛豪華さに対し、多希の家は小さく、質素で、誤解を恐れず評すならばみすぼらしい。しかしあの場所は温かく、優しく、楽しく、そして愛情が詰まっていて、ライナスにとって比べ物にならないほど、素晴らしい場所だった。

 ライナスの脳裏に多希の笑顔が浮かび、消えない。

 貴族の令嬢たちはみな美しく華やかだ。物心ついた時から立ち居振る舞いを教えられ、優雅さと気品を身に着けている。それに対し、多希は丁寧ではあるが、取り立てて美人というわけでもなければ、スタイル抜群というわけでもない。それでもこれほど愛しいと思うのは、多希の思いやり深い人柄と、笑顔だろう。

(あの人は多くの客に愛されていた。常連の皆々は、飲食が目的ではなく、あの人の優しさを求め、そして見守っていた。私もそうありたかった。誰よりもあの人の近くで、あの人を守りたかった)

 多希が祖父を愛するがゆえに、ついてきてはくれないだろうことは察していた。わかっているならば、言わなければよかったのだ。それは振られる自分が傷つくだけではなく、振る多希をも傷つけることになる。

 わかっていて、言わずにはいられなかったのだ。

(私が、あの人をあきらめるために。愛するがゆえに、傷つけてしまった。それほど、私はあの人を想っていた)

 ふと、強い後悔が奥深いところから湧いてくることに気づく。

(後悔……そうだ。嫌がっても、無理やりに……さらえばよかった。守れないことを謝るのも、かけがえのない孫を奪うことも、罪は罪なのだから)

 そう思い、即座に否定する。ライナスは多希を女性として深く想っていると同時に、祖父である大喜にも、人としての親愛を抱いている。

 約束を違えることと、身内を奪い、二度と会わせないことでは、罪の質と深さが違う。大喜を裏切るなど、けっしてできない。

(愛していた。ならば、私が戻ることを拒否すればよかったのだ。アイシスのように)

 腹違いの妹のほうが、よほど現実を受けとめ、核心を衝いているではないか。

(私は愚かだ。あの人以上に慈しめる女性に出会えるとは思えないし、望まない。自国に戻る道を選んだ以上、王家の者として働く。そう、覚悟したではないか)

 ようやく国王の私室にたどり着く。

 ライナスを見ると左右両サイドにいる衛兵が槍を掲げて礼を取った。そして体を九十度回転させてから後ろざまに数歩下がる。と同時に、扉が開かれた。

「ライナス様、お待ち申し上げておりました。両陛下、お揃いでございます」

 国王付きの近習が深々と頭を下げ、迎え入れる。ライナスは彼について奥の部屋に歩き、豪華なソファに腰かける父王と王妃の前にやってきた。

 国王は休んでいたのか、ガウンを着ていて顔色があまりよくない。一方、隣の王妃は産後であるが健康そうだ。そしてなにより、腕の中には赤子がいて、気持ちよさそうに眠っている。

「ライナス・ラドスキア、アイシス殿下とともに、ただ今戻りました」

 言いつつ、深く頭を下げる。

「王妃様におかれましては、王子殿下をご出産とのこと、まことにめでたく、心よりお祝い申し上げます」
「ライナス、そのような堅苦しい挨拶はよい。お前が無事に戻ってきて安心した」
「勝手な真似をし、申し訳ございませんでした」
「ローゼンたちが企てたことであろうが。本来ならば関係者全員打ち首だが、それでは事を起こした発端に火に油を注ぐだけだ。今回は目をつぶる。アイシスはどうだ? 問題ないか?」

 アイシスを抱いている兵士が一歩前に出て、アイシスを見せるが、まだ意識は戻っていない。それでも国王はホッとしたような顔になった。

「無事でなによりだ。よかった」
「ようなどございませんぞ、陛下」

 鋭い声音で横から言葉を差し挟んできたのは王妃だ。目じりもキッと吊り上がっているので相当立腹なのだろう。

「ライナスは臣籍降下したとはいえ、陛下の御子であり、我が国の王家の血を引く御方。そんな方が配下の者に唆され、秘術を用いて逃亡など言語道断じゃ。しかも、王太子を連れてなど。それに」

 王妃は一度言葉を切り、目を眇めた。

「王太子のその身なりはなんじゃ。本来ならけっして許されることではない。がしかし、こたび王子が誕生した。今後はこのリオネル王子が王太子として大役を担われる。今後アイシスは王女として王家を支えていけばよい。少しは肩の荷も下りよう。今回は不問とするが、深く反省せよ」

「御意にございます。王妃様」

「少しは息抜きができたであろう。これからはリオネル王子殿下のもとにて、ようよう働かれることを期待するぞ」

 ライナスは胸に手を当て、深く礼をした。