状況が一変したのはアイシスの話を聞いた三日後、定休日明けの木曜日だった。
ゴミ出しのためにゴミ集積所に行った多希を前川が呼び止めた。前川がどこに住んでいるのかなど知らない多希であるが、自宅で働いているというのだから通勤のためにここを通ったわけではないだろう。
困惑を抱いた多希であるが、そこは接客をしている者だ。顔には出さず、朝の挨拶をした。
「おはようございます。こんな時間に偶然ですね。お買い物ですか?」
時刻は七時少し前だ。コンビニくらいしか開いていない。前川の反応は薄かった。
「多希ちゃん、あのさ、店で働いてる外国人、早く国に帰るように言ったほうがいいよ」
いきなりの言葉に多希は目を見開き、それから口を真一文字に切り結んだ。
もうひと月以上が経っているというのに、ほぼ毎日顔を見合わせ、注文時に会話をしているのに、名前で呼ばずに『外国人』とは甚だ失礼だ。
それに国に帰るように言えとは、どう了見だと思う。
「いくら小さな子どもがいるったって、お互い独身だろ? 近所の人がいかがわしい目で見てるから」
前川が言葉を続けるほどに多希の心が冷えていく。
「心配してくださっているのですね。ありがとうございます。ですが、ライナスさんとアイシスのことは、祖父も認めてくれています。それに近所の人がどう言おうと、これは私たちの問題です。よそ様に心配してもらうことではありませんので」
「でもさっ。あ、もしかして、もう二人はつきあっているとか? あの外国人は多希ちゃんと一緒に暮らすために日本に来た?」
「いいえ、つきあっていません。友人だって言ったでしょ?」
だったら――と、前川は叫ぶように言うと、多希の両腕を掴んだ。
「僕とつきあうのがいいよっ」
「……つきあうのがいいって、どういう意味ですか?」
「だからさ、僕というカレシがいたら、あの外国人は多希ちゃんに手を出せないだろ? もう他の男のものだから」
多希の顔に不快の色が強く浮かんでいる。前川は焦っているからか、あるいは自己アピールに必死だからか、まったく気づいていない。
「前川さん、なにか誤解しているみたいですけど、ライナスさんは礼儀正しい方なので、手を出すとか、そんなことはされませんよ」
「わかるもんか、男なんて」
「男だったら誰でも手を出すってことですか?」
「え、いや、それは……」
たじろいだその瞬間を逃さず、多希は前川の手を振りほどいて一歩下がった。
「心配くださっているのはありがたいことですが、私たちは友人としてうまくやっています。今、彼らにいなくなられると困るんで、そんな偽装交際なんてまったく必要ありません」
不快感を押しとどめ、なるべく穏便にやり過ごそうと努めるが、前川は必死の形相を向けてくる。さすがに多希も全身から汗が湧いてくるのを感じた。
「だったら! あいつのことは抜きにして、僕と、ねえ、多希ちゃん、僕はずっと多希ちゃんを見守っていたんだ。親切にもしてきたし、大事にもしてた。だから僕とつきあおうよ」
そんなこと頼んだ覚えもないし、それを理由にして交際しないといけない謂れなどない。だが次第に目が血走ってきたように見え、不安は恐怖に変わってきた。
「すみませんが、交際はできません。ごめんなさい」
「いつも僕に微笑みかけていたじゃないか」
「それは、大切なお客様だから」
「大切な男だからだろ!?」
「…………」
一歩後ずさると、前川が詰めてきた。
(どうしよう……)
脳裏にライナスの顔が浮かぶが、ここにはいない。叫べば店にいるライナスに届くだろうか?
「多希ちゃん!」
ここでなんとか前川を説得しないと――そう思うけれど、恐怖で声が出ない。
だが、多希は目を見開いた。前川の後ろに立った人物、ライナスの顔を見た瞬間、全身から恐怖が消えていった。
「タキさん」
と、ライナスが声をかけ、それから二人の間に割って入ってくる。
「ゴミを出すだけなのに戻りが遅いから心配した。前川さんと話し中だったのか」
「そうなんです。えっと、おじいちゃんのこと心配してもらって。ねぇ、前川さん」
嘘だが、事を荒立てたくないと咄嗟に考え、多希はそう答えた。だが、窺うようなライネスのまなざしは、なにがあったか理解しているように思える。
「だったら話を切ってしまってすまなかった。開店の準備があるので、切り上げてもらっていいかな。前川さん、申し訳ないですが」
「あ……ああ」
ライナスは左手を多希の背に回し、右手を差しだして前に歩くよう促した。そして前川に会釈をした。
前川をその場に残し、二人は店内に戻ってきた。扉を閉めた瞬間、多希の膝が崩れて座り込みそうになるのをライナスが抱き支えた。
「お帰り……って、どうしたの?」
アイシスが心配そうにこちらを見ている。ライナスが首を左右に振ってそれを制した。
「タキさん、今日は閉めよう」
「それは……」
「休んだほうがいい。ほら、手が震えている」
多希はライナスの大きな掌に包まれている自分の手を見た。確かに小刻みに震えている。一瞬悩んだけれど、かぶりを振った。
「引きずりたくないので閉めません」
「タキさん」
「今日閉めたら、前川さん、きっと根に持つでしょうから」
多希は強い調子でライナスにそう言ったのだが。
ゴミ出しのためにゴミ集積所に行った多希を前川が呼び止めた。前川がどこに住んでいるのかなど知らない多希であるが、自宅で働いているというのだから通勤のためにここを通ったわけではないだろう。
困惑を抱いた多希であるが、そこは接客をしている者だ。顔には出さず、朝の挨拶をした。
「おはようございます。こんな時間に偶然ですね。お買い物ですか?」
時刻は七時少し前だ。コンビニくらいしか開いていない。前川の反応は薄かった。
「多希ちゃん、あのさ、店で働いてる外国人、早く国に帰るように言ったほうがいいよ」
いきなりの言葉に多希は目を見開き、それから口を真一文字に切り結んだ。
もうひと月以上が経っているというのに、ほぼ毎日顔を見合わせ、注文時に会話をしているのに、名前で呼ばずに『外国人』とは甚だ失礼だ。
それに国に帰るように言えとは、どう了見だと思う。
「いくら小さな子どもがいるったって、お互い独身だろ? 近所の人がいかがわしい目で見てるから」
前川が言葉を続けるほどに多希の心が冷えていく。
「心配してくださっているのですね。ありがとうございます。ですが、ライナスさんとアイシスのことは、祖父も認めてくれています。それに近所の人がどう言おうと、これは私たちの問題です。よそ様に心配してもらうことではありませんので」
「でもさっ。あ、もしかして、もう二人はつきあっているとか? あの外国人は多希ちゃんと一緒に暮らすために日本に来た?」
「いいえ、つきあっていません。友人だって言ったでしょ?」
だったら――と、前川は叫ぶように言うと、多希の両腕を掴んだ。
「僕とつきあうのがいいよっ」
「……つきあうのがいいって、どういう意味ですか?」
「だからさ、僕というカレシがいたら、あの外国人は多希ちゃんに手を出せないだろ? もう他の男のものだから」
多希の顔に不快の色が強く浮かんでいる。前川は焦っているからか、あるいは自己アピールに必死だからか、まったく気づいていない。
「前川さん、なにか誤解しているみたいですけど、ライナスさんは礼儀正しい方なので、手を出すとか、そんなことはされませんよ」
「わかるもんか、男なんて」
「男だったら誰でも手を出すってことですか?」
「え、いや、それは……」
たじろいだその瞬間を逃さず、多希は前川の手を振りほどいて一歩下がった。
「心配くださっているのはありがたいことですが、私たちは友人としてうまくやっています。今、彼らにいなくなられると困るんで、そんな偽装交際なんてまったく必要ありません」
不快感を押しとどめ、なるべく穏便にやり過ごそうと努めるが、前川は必死の形相を向けてくる。さすがに多希も全身から汗が湧いてくるのを感じた。
「だったら! あいつのことは抜きにして、僕と、ねえ、多希ちゃん、僕はずっと多希ちゃんを見守っていたんだ。親切にもしてきたし、大事にもしてた。だから僕とつきあおうよ」
そんなこと頼んだ覚えもないし、それを理由にして交際しないといけない謂れなどない。だが次第に目が血走ってきたように見え、不安は恐怖に変わってきた。
「すみませんが、交際はできません。ごめんなさい」
「いつも僕に微笑みかけていたじゃないか」
「それは、大切なお客様だから」
「大切な男だからだろ!?」
「…………」
一歩後ずさると、前川が詰めてきた。
(どうしよう……)
脳裏にライナスの顔が浮かぶが、ここにはいない。叫べば店にいるライナスに届くだろうか?
「多希ちゃん!」
ここでなんとか前川を説得しないと――そう思うけれど、恐怖で声が出ない。
だが、多希は目を見開いた。前川の後ろに立った人物、ライナスの顔を見た瞬間、全身から恐怖が消えていった。
「タキさん」
と、ライナスが声をかけ、それから二人の間に割って入ってくる。
「ゴミを出すだけなのに戻りが遅いから心配した。前川さんと話し中だったのか」
「そうなんです。えっと、おじいちゃんのこと心配してもらって。ねぇ、前川さん」
嘘だが、事を荒立てたくないと咄嗟に考え、多希はそう答えた。だが、窺うようなライネスのまなざしは、なにがあったか理解しているように思える。
「だったら話を切ってしまってすまなかった。開店の準備があるので、切り上げてもらっていいかな。前川さん、申し訳ないですが」
「あ……ああ」
ライナスは左手を多希の背に回し、右手を差しだして前に歩くよう促した。そして前川に会釈をした。
前川をその場に残し、二人は店内に戻ってきた。扉を閉めた瞬間、多希の膝が崩れて座り込みそうになるのをライナスが抱き支えた。
「お帰り……って、どうしたの?」
アイシスが心配そうにこちらを見ている。ライナスが首を左右に振ってそれを制した。
「タキさん、今日は閉めよう」
「それは……」
「休んだほうがいい。ほら、手が震えている」
多希はライナスの大きな掌に包まれている自分の手を見た。確かに小刻みに震えている。一瞬悩んだけれど、かぶりを振った。
「引きずりたくないので閉めません」
「タキさん」
「今日閉めたら、前川さん、きっと根に持つでしょうから」
多希は強い調子でライナスにそう言ったのだが。