それから三十分くらいが過ぎた。
前川が帰っていき、それに続いて深田も席を立った。そろそろランチの客からスイーツを求める若い女性客に入れ替わる時間に差し掛かったからだ。
人が減ってあいているテーブルが多い今の間に、よりきれいにすべくライナスがせわしなく店内を歩き回る。
一方、多希とアイシスも、なくなったり減ったりしたメニューの作り置きを用意すべく、作業に取りかかる。
「ねぇ、タキ」
アイシスが手を動かしながら、声を低めて話しかけてきた。
「なぁに?」
「タキってさ、恋人いるの?」
「…………ええっ!?」
「僕たちとずっと一緒にいるから、恋人はいないと思ってるんだけど」
たらりと冷や汗が流れてくる。七歳の子どもに言われたくない、なんて思ってしまうのだが。
「い……ない、けど」
「じゃあ、好きな人は?」
「アイシスってば」
「僕たちは物心つく前に将来の結婚相手を決められている。僕の場合は皇太子の件があるから決められてないけど、兄上はいたんだよ」
「…………」
アイシスが手を止め、多希をまっすぐに見上げた。その目は真剣で、別の意味でも息をのむほど力がこもっている。
「でも、臣籍降下したから破談になったんだって。相手方が怒ってしまって。いくら王族で、王家の傍で働くと言っても、爵位もない者に娘は嫁がせられないって」
「それは……そうでしょうね」
「だから今、兄上には特別な人はいないんだ」
なにが言いたいのかよくわからず、多希は返事に窮した。ただアイシスを見返すしかできない。
「僕、あの人……嫌いだ」
「あの人って?」
「カレースパゲティ好きな人」
「前川さんのこと?」
うん、と頷く。
「どうして?」
アイシスは視線を逸らして少し思案する。そしてさらに声を絞ってボソボソと続ける。
「……いつもタキのこと、じーーっと見つめていて、気持ち悪いから」
「…………」
「それに兄上を睨むし。特にタキと兄上が話していたら、すごく怒った顔してる。あの人、タキのことが好きなんだと思う。だから兄上が嫌いで、邪魔なんだ」
アイシスが指をもじもじさせる。
「タキはどうなの? あの人のこと、どう思ってる?」
「どうって……お客さんとしか」
「本当? 好きとか、ない?」
「ないわよ。親切にしてくれてありがたいけど、常連客だから」
「そっか。よかった」
不安が消えたのかアイシスがいつもの明るい笑顔になるが、逆に多希の顔には不安が宿った。目が動揺している。
「絶対兄上のほうがいいよ!」
「…………」
「なにが私のほうがいいんだ?」
突然声が割り込んできたので二人は驚いてハッと息を詰めた。
「二人とも、手が止まっているが、どんな大事な話をしていたんだ?」
「新しいメニューの味見は兄上のほうがいいって話」
「そうか」
穏やかに返すライナスに、多希は視線を取られて動かせなかった。
アイシスに勧められたからではなく、もとより素敵な人だと思っていたのだ。最初は保護的な気持ちが強かったが、ひと月が経ち、店を手伝ってもらえ、大喜からも許可をもらった今、改めて見てみれば、すっかり頼りにしているし、彼の醸し出す落ち着いた穏やかな様子は多希にとって癒やしでもあった。
「タキさん?」
「え? あ、なんでもないですよ。えーっと、片づけしないと」
「それは私がするから、二人は昼をとってくるといい。あと三十分もしたらティータイムの客が来るから」
それを言いに傍にやってきたようだ。多希は時計を確認し、二人に軽く頭を下げて二階に向かった。
ライナスとは交代になるが、アイシスは子どもだからとランチタイムは店で食べているのだ。つまみ食いで満腹になることもあるが。
階段をのぼりながら熱くなっている顔を意識する。
(アイシスが変なこと言うから。でも……前川さんの件は、おじいちゃんも言ってたな。しかも気をつけろって。常連客になんてことをって思っていたけど、アイシスまで言うなら……そうなの、かな)
自分ではわからないところだ。そうだと思うことは自惚れているようで抵抗がある。かといって、せっかく助言してくれているのを無視して問題が起こっては二人に申し訳ないし、愚かだ。
(一応注意はするけど、自意識過剰だって思うけどな。なにか言われたら対処すればいいだけのことだし。それよりもアイシスよ。意識しちゃうじゃない。ライナスさんがすっごいイケメンで、上品で、優しくて素敵なことは百も承知よ)
女性客に大人気だ。SNSでエゴサをしたら、超イケメンの店員がいるとたくさん書き込みがされている。掲示板を覗きに行けば、もっと露骨な表現の書き込みもなされていた。
(私だってこんな間柄じゃなかったら、きっとキャーキャー言っていたと思うもの)
トクトクトクと鼓動が踊っている。全身が熱く、なんだか呼吸するのも意識してしまう。思わず胸に手をやってみるも、彼の身上を思えば一気に気持ちが沈んだ。
(知らない世界の、知らない国の王子様よ? きっとすっごい美人とか、生まれ育ちの良い人が好みだと思うわ。私みたいな、なにもかもが平凡な女を好きになるはずない)
自分で思って自分で落ち込む。
(ダメダメ、つまんないこと考えていず、『マドレーヌ』を繁盛させることに頭を使わないと)
多希は切ないため息を落としたのだった。
前川が帰っていき、それに続いて深田も席を立った。そろそろランチの客からスイーツを求める若い女性客に入れ替わる時間に差し掛かったからだ。
人が減ってあいているテーブルが多い今の間に、よりきれいにすべくライナスがせわしなく店内を歩き回る。
一方、多希とアイシスも、なくなったり減ったりしたメニューの作り置きを用意すべく、作業に取りかかる。
「ねぇ、タキ」
アイシスが手を動かしながら、声を低めて話しかけてきた。
「なぁに?」
「タキってさ、恋人いるの?」
「…………ええっ!?」
「僕たちとずっと一緒にいるから、恋人はいないと思ってるんだけど」
たらりと冷や汗が流れてくる。七歳の子どもに言われたくない、なんて思ってしまうのだが。
「い……ない、けど」
「じゃあ、好きな人は?」
「アイシスってば」
「僕たちは物心つく前に将来の結婚相手を決められている。僕の場合は皇太子の件があるから決められてないけど、兄上はいたんだよ」
「…………」
アイシスが手を止め、多希をまっすぐに見上げた。その目は真剣で、別の意味でも息をのむほど力がこもっている。
「でも、臣籍降下したから破談になったんだって。相手方が怒ってしまって。いくら王族で、王家の傍で働くと言っても、爵位もない者に娘は嫁がせられないって」
「それは……そうでしょうね」
「だから今、兄上には特別な人はいないんだ」
なにが言いたいのかよくわからず、多希は返事に窮した。ただアイシスを見返すしかできない。
「僕、あの人……嫌いだ」
「あの人って?」
「カレースパゲティ好きな人」
「前川さんのこと?」
うん、と頷く。
「どうして?」
アイシスは視線を逸らして少し思案する。そしてさらに声を絞ってボソボソと続ける。
「……いつもタキのこと、じーーっと見つめていて、気持ち悪いから」
「…………」
「それに兄上を睨むし。特にタキと兄上が話していたら、すごく怒った顔してる。あの人、タキのことが好きなんだと思う。だから兄上が嫌いで、邪魔なんだ」
アイシスが指をもじもじさせる。
「タキはどうなの? あの人のこと、どう思ってる?」
「どうって……お客さんとしか」
「本当? 好きとか、ない?」
「ないわよ。親切にしてくれてありがたいけど、常連客だから」
「そっか。よかった」
不安が消えたのかアイシスがいつもの明るい笑顔になるが、逆に多希の顔には不安が宿った。目が動揺している。
「絶対兄上のほうがいいよ!」
「…………」
「なにが私のほうがいいんだ?」
突然声が割り込んできたので二人は驚いてハッと息を詰めた。
「二人とも、手が止まっているが、どんな大事な話をしていたんだ?」
「新しいメニューの味見は兄上のほうがいいって話」
「そうか」
穏やかに返すライナスに、多希は視線を取られて動かせなかった。
アイシスに勧められたからではなく、もとより素敵な人だと思っていたのだ。最初は保護的な気持ちが強かったが、ひと月が経ち、店を手伝ってもらえ、大喜からも許可をもらった今、改めて見てみれば、すっかり頼りにしているし、彼の醸し出す落ち着いた穏やかな様子は多希にとって癒やしでもあった。
「タキさん?」
「え? あ、なんでもないですよ。えーっと、片づけしないと」
「それは私がするから、二人は昼をとってくるといい。あと三十分もしたらティータイムの客が来るから」
それを言いに傍にやってきたようだ。多希は時計を確認し、二人に軽く頭を下げて二階に向かった。
ライナスとは交代になるが、アイシスは子どもだからとランチタイムは店で食べているのだ。つまみ食いで満腹になることもあるが。
階段をのぼりながら熱くなっている顔を意識する。
(アイシスが変なこと言うから。でも……前川さんの件は、おじいちゃんも言ってたな。しかも気をつけろって。常連客になんてことをって思っていたけど、アイシスまで言うなら……そうなの、かな)
自分ではわからないところだ。そうだと思うことは自惚れているようで抵抗がある。かといって、せっかく助言してくれているのを無視して問題が起こっては二人に申し訳ないし、愚かだ。
(一応注意はするけど、自意識過剰だって思うけどな。なにか言われたら対処すればいいだけのことだし。それよりもアイシスよ。意識しちゃうじゃない。ライナスさんがすっごいイケメンで、上品で、優しくて素敵なことは百も承知よ)
女性客に大人気だ。SNSでエゴサをしたら、超イケメンの店員がいるとたくさん書き込みがされている。掲示板を覗きに行けば、もっと露骨な表現の書き込みもなされていた。
(私だってこんな間柄じゃなかったら、きっとキャーキャー言っていたと思うもの)
トクトクトクと鼓動が踊っている。全身が熱く、なんだか呼吸するのも意識してしまう。思わず胸に手をやってみるも、彼の身上を思えば一気に気持ちが沈んだ。
(知らない世界の、知らない国の王子様よ? きっとすっごい美人とか、生まれ育ちの良い人が好みだと思うわ。私みたいな、なにもかもが平凡な女を好きになるはずない)
自分で思って自分で落ち込む。
(ダメダメ、つまんないこと考えていず、『マドレーヌ』を繁盛させることに頭を使わないと)
多希は切ないため息を落としたのだった。