カタリと小さな音がしたのでライナス・ラドスキアは手を止め、目だけ動かし近づいてくる青年を見やる。

「セルクスか。こんな時間にどうした」
「殿下」

 深夜、いまだ執務室にこもっているこの国の第二王子に向け、近習のセルクスが緊迫した声音で声をかけてくる。

 なにかあったのだろう。そう察するものの、ライナスは気づかないふりをした。

「お話があります。少々お時間をいただきたいのです」
「なんだ、改まって」
「見ていただきたいものがございまして」
「見る?」
「こちらへ」
「移動せよと言うのか? こんな時間に?」
「申し訳ございません」

 セルクスが深くこうべを垂れる。ライナスはやむなく立ち上がった。そして椅子の背にかけている長上着を手に取り、腕を通しつつ彼について廊下に出た。

「どこへ行くんだ?」
「殿下のご存じの場所です」

 セルクスの返答にライナスは小さくため息を落とした。

「アイシスが生まれた時、私は臣下となった。もう殿下ではないし、七年も前の話だ。それなのにお前たちがいまだにそのように呼ぶものだから、王妃は私を疑って信用しない。いい加減に直してほしいものだがな」

 セルクスが項垂れる様子を流し見ながらライナスは続ける。

「私は貴族でもない庭師の倅だ。陛下が慈しむあまり、母に側妃の地位と権力を与えたのが間違っていたのだ。他界し、隣国の王女が王妃となった今、正しい形に収まっている。皇太子はアイシスであり、私は王家に仕える家臣の一人でしかない。セルクス、聞いているか?」

「聞いております。ですが……」
「ん?」

 珍しく歯切れの悪いセルクスにライナスは彼の顔を見やる。

「セルクス?」

 なんだか暗い。そしてなにかに耐えるような表情をしている。どこへ行こうとし、なにを見せたいというのかが今になって気になった。

「セルクス、どこまで行くんだ」
「地下へ」
「地下? お前、なにを企んでいる」
「企んでなどおりません。殿下に見ていただきたいものがあるので、ご案内しているまででございます」

 セルクスの歩調が速くなり、やがて言葉通り地下室へと進んでいく。そして到着したのはライナスが想像した通りの場所だった。

「ここは『秘匿の間』だ。勝手に出入りすることは許されていないぞ」
「非常事態ですので」
「なに?」

 その時、扉が開いて現れた男に腕を掴まれた。そして引っ張られる。

「なにをする」

 掴んでいる男はセルクスの父親で、ライナスが生まれた時から世話をしてくれる近習だった。

「お急ぎください。時間がありません」
「お前たち、なにを言っている!」

 強く引っ張りこまれてライナスは思わず声を立てて怒鳴ったが、部屋の中を見て目を瞠った。

 すでに魔法陣が敷かれていて淡い光を放っている状態だった。

「なにをしているんだ! こんなこと、許されないぞ!」

 数名の近習が青ざめた面をしてライナスを見つめている。中には涙を流している者までいる。その姿がライナスに嫌な予感を抱かせた。

「おい!」

 彼らはライナスを魔法陣の中央へと押しやり、服の中に複数の袋を突っ込むと、数歩下がって跪いた。

「殿下」
「殿下!」
「殿下、必ず迎えに参りますので!」
「なにを――」

 セルクスが顔を上げ、潤んだ目を向けた。そしてペンダントを差しだす。

 クリスタルを思わせる双五角錐型ペンダントトップは、青や紫が宇宙のように混ざり合った色をしていて、内部では金と銀の輝きがラメのように煌めいている。

「王妃が刺客を差し向けています。もうこれしか方法がございません」
「まさか! 私と王妃は紳士協定を結んでいるのだぞ」
「それを守る気は、王妃にはないということです。必ず殿下を捜しだし、迎えに参ります。必ずです。それまでの間、転送された場所で、どうかご無事で……」

 セルクスの青い瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

 その涙に事態の悪化、最悪の状況であることを察する。王妃がライナスの存在を許す気がないことを。

 死を避けたいとは思っていない。だが、生まれて二十八年、自分を慕い、世話をしてくれた者たちの想いに背く気にはなれない。身を挺して守ってくれていたのだ。彼らが生きよと言うのなら、その道に進むことが忠義に報いることになるだろうと思う。

 ライナスはぎゅっと握りこぶしを作り、彼らの気持ちに応える覚悟を決めた。そしてセルクスからペンダントを受け取ると、首にかけて服の中に仕舞った。

「わかった。お前たちとの再会を祈っている。待っているぞ」
「殿下!」

 みなの声が響く。それに呼応するかのように魔法陣の光が増した。
 そこへ――

「兄上!」

 バン! と扉が開いて七、八歳くらいの少年が飛び込んできた。

「アイシス!?」
「兄上!」
「アイシス殿下! どうしてここに!?」
「殿下、なりません! お下がりください」

 怒号が飛び交う中、彼を捕まえようとする近習たちの間をすり抜けてアイシスが駆けてくる。

「いけない! やめろアイシス! 来るな!」
「兄上! 兄上!」

 アイシスが光の中に飛び込んできた。ライナスにしがみついてくる。

「イヤだ! 離れたくないっ。兄上と一緒がいい!」
「なにを――お前はこの国の皇太子なんだぞ! 王妃を、母を悲しませる気かっ!」
「母上なんて大嫌いだ! 兄上がいい! 兄上と一緒に行く!」

 アイシスの口から出た言葉に驚き、ライナスは一瞬たじろいだ。そして慌てて顔を上げて周囲を見渡すが、光は天井にまで至って壁となっている。強弱のある輝きの隙間からうっすら見える近習たちの顔が絶望に染まっており、もう間に合わないことを示していた。

「バカ者」

 ライナスは呟くように言うと、アイシスの小さな体をぎゅっと抱きしめた。と同時に光は増幅しながら激しくスパークし、ついには爆発したのだった。