2022年5月2日

誠一郎は、津川理緒との出会いが、自分の人生の歯車をきしませていく予感を、そのとき、確かに感じたー

しーんと、静まり返っている診察室で誠一郎は、至って冷静に、心の中で起きている何か分からぬ、正体不明の動揺を見せることなく

「藤崎誠一郎です、あなたのお名前は?」

と、初診の患者にいつも聞く流れに入った。

「津川理緒と申します、お世話になります」

理緒が礼儀正しく会釈した。誠一郎は、何となく目線をそらして、紹介状に目を向けた。

「…この度、S病院の循環器内科から異型狭心症とのことで、精神的なストレスでの発症と伺ってます、ジルチアゼムとベラパミの服用で回復とありますが、その後いかがですか?」

あくまで、亮二のことも、虐待の話も話さない。患者が語るまで、余計な話はしない。

「はい、そのように診断され、仕事とバレエを控えるように担当の先生からご助言頂きました」

「え?仕事をされているのですか?」

「はい」

理緒は当たり前のように答えた。

亮二も医者だ。理緒を養女として引き取ったのなら
仕事の必要性はない。もちろん、してもいいが、そんなに早く、職場復帰が出来るだろうか…?誠一郎の疑問を察したのか、理緒は

「いつまでも、津川先生のご好意に甘えるわけには
行きませんので」と言った。

彼女は、亮二のことを「父」とも「亮二叔父さん」とも呼ばず、「津川先生」と呼んだ。そして、彼女は誠一郎と亮二が、親しい間柄だと言うことも理解しているようだ。