5月2日ー


「だから、何度も言ってるじゃありませんか!なんで信じてくれないんです!」

「井ノ上さん、落ち着いてください、まず、その振り上げたパイプ椅子を降ろしましょう」

誠一郎の冷静な声で、井ノ上という男性患者は、振り上げたパイプ椅子を降ろした。

今日は、これで二度目だ。三度目が起こらないことを祈りつつ、誠一郎は

「井ノ上さん、R病院で、統合失調症と診断された過去がありますよね?ご家族が、井ノ上さんがお薬を飲まなくなったので、大変心配されていますよ」

「いや、あの薬には毒が入ってる!!」

「でも、奥さんが、目の前で薬を飲んで、毒が入ってないことを証明してくださったでしょ?」

となりで、目にハンカチを当てながら妻の弥生さんが、大きくうなずいている。

入院してもらうしかないな…

そう思った誠一郎の態度を察したのか井ノ上さんが

「俺は入院なんかしないぞ!」

そう言ってパイプ椅子を振り上げた。やはり、三度目が来てしまった。

「井ノ上さん、聞いてください、井ノ上さんの命が危ないので入院着に着替えて、患者のフリをしましょう。その間に敵を見つけます、私はあはたの味方です」

誠一郎がそう言うと井ノ上さんの目がキラっと光った。

「やっぱり先生は信じてくれると思ってましたよ!!あぁ、良かった…」

「井ノ上さんは、少し休んでください、今度は毒が入ってない薬をキチンとお渡ししますから」

井ノ上さんは、うんうん、と泣きながらうなずいた。内線で呼んだ看護師が到着し、井ノ上さんは、入院着に着替えて病棟に入った。

その隙に妻の弥生さんが入院手続きを済ませていた。精神科ではよくある光景だ。井ノ上さんは、以前も統合失調症で、この大学病院に紹介されている。

最近、また薬を飲まなくなり、症状が悪化した。さらに、井ノ上さんは、しばらく散髪もしてないようで、服も前後ろ反対に着ていた。妻の弥生さんは50歳前後だが、夫の病気に疲れ果て70代にも見えるほど老け込んでいる。精神的にも疲労が蓄積しているのだろう。

「はぁ…」

誠一郎は、少しため息をついた。そして、気分転換で肩を回してみせた。

「先生、次の患者さんを、お呼びしても?」

研修中の新米医師が新患の予診が終わったらしく、声をかけてきた。

「…あ、はい、どうぞ」

誠一郎は、井ノ上さんにパイプ椅子で殴られなかった事を安堵しながら空返事をした。

そのとき

「失礼致します」

その声がした瞬間、診察室の空気が一瞬で変わったのを感じた。誠一郎は、その声の方へ顔を向けた。

そこには、黒髪ロングで、日本人にしては、かなりの色白で、どこか幼さが残る顔立ちの、どんぐりのような大きな瞳の美しい女性が姿勢よく立っていた。