「レイラ! どうして先に帰ってしまったんだい?
パパはずっと学校でレイラを待っていたんだよ」
夕食を終えて居間で寛いでいると、来訪者を告げるベルの音が鳴った。
依子は既に帰宅し、良之も青葉も自室へ戻っていたので、玄関に一番近い居間にいた麗良が引き戸を開けた。すると、喪服のように真っ黒なスーツが視界を塞いだ。
鼻先に甘い香水のような匂いが触れた。石鹸のようなムスクに近い、花の香りだ。恐る恐る顔を上げると、そこには、黒い髪に浅黒い肌をした男が立っていた。
学校の校庭に現れた不審者だ。
さっと血の気が引く音が聞こえる気がした。
麗良が慌てて引き戸を閉めようとすると、男は、大きな手でそれを阻んだ。
「ちょ、ちょっと待って。レイラ、パパの話を……」
「私に父親はいませんっ」
男の言葉を遮り、麗良が力いっぱい引き戸を引こうとするが、引き戸を掴んだ男の手はびくともしない。力では敵わないと知り、麗良は恐怖で身体がすくんだ。
「私がレイラのパパだよ。これまで寂しい思いをさせて本当にすまない。
これからはパパと、パパの国で一緒に暮らそう」
「意味がわかりません。人違いです。お引き取りください」
警察に連絡を、とは思うものの、ここで手を離してしまったら、男が家の中へ入ってきてしまう。
男は、引き戸の開いた隙間に顔をねじ込み、それ以上引き戸が閉まらないようにした。
「待ってくれ、レイラ。 パパは、君に会うために……」
「何なんですか、あなたは……警察を呼びますよ」
近くで見ると、麗良の頭は男の肩にも届いておらず、かなり背が高いことが解る。麗良は、助けを呼ぼうと大きく息を吸い込んだ。
「何をしているのかね、騒々しい」
廊下奥にある襖が開き、良之が顔を出した。
自室で読み物でもしていたのだろう、老眼鏡越しに目を細めている。
「おじいさま、警察を呼んでください。この人が、今日学校に現れた不審者です」
良之が老眼鏡を外すと、玄関の引き戸に挟まれた男の顔を見て、目を見開いた。
「君は……」
「お義父さん、お久しぶりです。私です、約束通りレイラを迎えに来ました」
一瞬、麗良の頭が真っ白になる。
突然抵抗力を失った男は、思い切り戸を開けてしまい、大きな音が家中に響いた。
――今、この男は、何て言ったの?
「……上がりなさい。こちらで話を聞こう。
麗良、その人は私の知人だ。中へ入れてやりなさい」
良之の言葉に麗良は、戸惑いながらも身を引いた。
頭が痺れたように思考が働かない。
男は、引き戸の内側へと入ってくると、後ろ手で引き戸を閉め、麗良に向かって笑いかけた。
「レイラ、大きく……いや、綺麗になったね。胡蝶によく似ている」
どうしてこの男が母の名を、と思って顔を上げた先に、存外優しい男の眼差しがあった。
男は不思議な目の色をしていた。深い森を思わせる色の中に、ちらちらと力強い種火が見え隠れし、麗良は惹きつけられたように目を離せなくなった。
アーモンド形の瞳には、黒く波打つ前髪がかかっている。
チョコレート色の肌に整った彫りの深い顔立ちは、まるで日本人には見えない。
頬骨辺りに先程引き戸に挟まれた時にできた跡が似つかわしく、滑稽だった。
固まったように動けない麗良の頬に、男が大きく骨ばった手を伸ばす。
しかし、麗良がびくりと身を引いたのを見て、切なげに目を細めると、麗良に触れることなくそっと手を下ろした。
男は、そのまま麗良の横を通り過ぎ、中へと上がると、祖父の部屋へと入っていった。
襖の閉じる音が、麗良に疎外感を与えた。祖父は、家族以外の者を自分の部屋へ決して入れさせない。
取り残された麗良の元には、ふわりと甘い花の残り香だけが漂っていた。
パパはずっと学校でレイラを待っていたんだよ」
夕食を終えて居間で寛いでいると、来訪者を告げるベルの音が鳴った。
依子は既に帰宅し、良之も青葉も自室へ戻っていたので、玄関に一番近い居間にいた麗良が引き戸を開けた。すると、喪服のように真っ黒なスーツが視界を塞いだ。
鼻先に甘い香水のような匂いが触れた。石鹸のようなムスクに近い、花の香りだ。恐る恐る顔を上げると、そこには、黒い髪に浅黒い肌をした男が立っていた。
学校の校庭に現れた不審者だ。
さっと血の気が引く音が聞こえる気がした。
麗良が慌てて引き戸を閉めようとすると、男は、大きな手でそれを阻んだ。
「ちょ、ちょっと待って。レイラ、パパの話を……」
「私に父親はいませんっ」
男の言葉を遮り、麗良が力いっぱい引き戸を引こうとするが、引き戸を掴んだ男の手はびくともしない。力では敵わないと知り、麗良は恐怖で身体がすくんだ。
「私がレイラのパパだよ。これまで寂しい思いをさせて本当にすまない。
これからはパパと、パパの国で一緒に暮らそう」
「意味がわかりません。人違いです。お引き取りください」
警察に連絡を、とは思うものの、ここで手を離してしまったら、男が家の中へ入ってきてしまう。
男は、引き戸の開いた隙間に顔をねじ込み、それ以上引き戸が閉まらないようにした。
「待ってくれ、レイラ。 パパは、君に会うために……」
「何なんですか、あなたは……警察を呼びますよ」
近くで見ると、麗良の頭は男の肩にも届いておらず、かなり背が高いことが解る。麗良は、助けを呼ぼうと大きく息を吸い込んだ。
「何をしているのかね、騒々しい」
廊下奥にある襖が開き、良之が顔を出した。
自室で読み物でもしていたのだろう、老眼鏡越しに目を細めている。
「おじいさま、警察を呼んでください。この人が、今日学校に現れた不審者です」
良之が老眼鏡を外すと、玄関の引き戸に挟まれた男の顔を見て、目を見開いた。
「君は……」
「お義父さん、お久しぶりです。私です、約束通りレイラを迎えに来ました」
一瞬、麗良の頭が真っ白になる。
突然抵抗力を失った男は、思い切り戸を開けてしまい、大きな音が家中に響いた。
――今、この男は、何て言ったの?
「……上がりなさい。こちらで話を聞こう。
麗良、その人は私の知人だ。中へ入れてやりなさい」
良之の言葉に麗良は、戸惑いながらも身を引いた。
頭が痺れたように思考が働かない。
男は、引き戸の内側へと入ってくると、後ろ手で引き戸を閉め、麗良に向かって笑いかけた。
「レイラ、大きく……いや、綺麗になったね。胡蝶によく似ている」
どうしてこの男が母の名を、と思って顔を上げた先に、存外優しい男の眼差しがあった。
男は不思議な目の色をしていた。深い森を思わせる色の中に、ちらちらと力強い種火が見え隠れし、麗良は惹きつけられたように目を離せなくなった。
アーモンド形の瞳には、黒く波打つ前髪がかかっている。
チョコレート色の肌に整った彫りの深い顔立ちは、まるで日本人には見えない。
頬骨辺りに先程引き戸に挟まれた時にできた跡が似つかわしく、滑稽だった。
固まったように動けない麗良の頬に、男が大きく骨ばった手を伸ばす。
しかし、麗良がびくりと身を引いたのを見て、切なげに目を細めると、麗良に触れることなくそっと手を下ろした。
男は、そのまま麗良の横を通り過ぎ、中へと上がると、祖父の部屋へと入っていった。
襖の閉じる音が、麗良に疎外感を与えた。祖父は、家族以外の者を自分の部屋へ決して入れさせない。
取り残された麗良の元には、ふわりと甘い花の残り香だけが漂っていた。