水彩絵の具を薄く伸ばしたような空に、軽やかな風が駆けていく。
雲ひとつない、うららかな午後。
開いていた窓から入ってきた薄紅色の花びらが一枚、宙をゆっくりと舞いながら書きかけのノートの上へ着地した。
それを目に留めた花園 麗良は、動かしていたペンを止めて、首を傾げた。
(花壇にこんな花、咲いてたかしら)
指先でそっと摘まんでみると、しっとりと指に吸い付くような質感に柔らかな厚みが指先を伝い、麗良には、それがバラの花びらだとすぐに解った。
昇降口横にある花壇は、園芸部が管理していて、四季折々の花が校舎に彩りを添えている。シャクナゲ、アネモネ、ラナンキュラス、カーネーション――麗良は園芸部員ではないが、毎日見かける花壇にバラの花が咲いていないことくらいは記憶している。
この女学院には、大きなバラ園がある。
だが、校舎の裏手から少し離れた場所にあるため、校庭側を向いている窓からバラ園の花びらが風に舞ってくることはない。
麗良が不思議に思っていると、俄かに教室がざわつき始めた。
顔を上げると、何枚もの花びらが教室の中を舞っている。
赤、白、黄色、紫……色とりどりの花びらが、徐々に勢いを増し、窓から教室へと流れ込んでくる。まるで花吹雪だ。
きれい、と麗良は思い、しばし魅入った。
花びらからは歓喜と祝福の匂いがし、麗良の心を浮き立たせた。
しかし、授業を妨害された教師はそう思わなかったようだ。
「誰か、早く窓を閉めなさい」
教師の指示に、窓際に座っていた生徒が数人立ち上がり、窓を閉めようとするが、窓はぴくりとも動かない。
ふざけているのかと勘違いをした教師も加わり、生徒たちを急かすよう文句を言いながら窓を閉めようと試みるものの、やはり窓は固まったように動かない。
次第に花吹雪は勢いを増して生徒たちの足元に花びらの絨毯を作った。その不思議で美しい光景を生徒たちは初め楽しんでいるようだったが、自分たちの踝が花びらの海に埋まる頃になると、それは恐怖に変わった。
このままでは教室が花びらで埋めつくされ、自分たちは窒息死してしまのではないか、と。
そして、恐怖に駆られた生徒たちは、教室から脱出しようと扉へと駆け寄った。
しかし、扉も窓と同じでぴくりとも動かない。
自分たちが閉じ込められてしまったと気付いた生徒たちは、パニックに陥った。
叫び声を聞きつけて、隣の教室にいた教師たちが扉の外へ様子を見に来ているのが見えたが、彼らも同様に外から扉を開けることが出来ず、何があったのかと狼狽しているだけだった。
そんな中、麗良だけは他の皆と違って不思議と落ち着いた態度で席に座っていた。
慣れ親しんだ花々に囲まれているからだろうか。
彼らの香りは、麗良の身体と心を優しく包み込み、心地よい高揚感すら与えてくれていた。
ふと麗良の目が、机の上にある教科書やノート、プリント類に止まった。
これだけ花びらが吹雪いているのに、それらは微動だにせず鎮座している。
風ではない。花びら自体が吹雪いているのだ。
自分は夢を見ているのだろうか、と麗良は疑った。
もしも、授業中にうたた寝をしているのだとしたら、少し勿体ない気もするが早く目を覚まさなくては、と軽く頭を振り、自分の頬をつねって見る。
……痛い。麗良は、軽く目眩を感じた。これが夢ではないのだとしたら、幻覚を見ているのか、現実的じゃない何かが起きているとしか考えられない。
(……レイラ……)
麗良の耳に誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
クラスメイトの友人だろうかと周囲を見渡してみたが、皆パニック状態で扉に押し寄せており、誰も麗良のことを気にしている者はいない。
(……レイラ……おいで、こっちだ……)
今度は、はっきりと聞こえた。周囲は誰もその声に気付いていないようで、まるで麗良の頭の中に直接響いているような声だった。
麗良は、その不思議な声がする方――開いている窓へと向かい、手で花吹雪を避けながら外を見た。
その途端、ふっと花吹雪が止み、麗良の視界が開けた。
むせ返るような花の香りと共に、麗良が見たのは、変わり果てた校庭の姿だった。
「なに、これ……」
校庭は、鮮やかな色彩に染まっていた。宙を舞う花びらの合間からよく見ると、無数の花が校庭を埋め尽くしている。
二階にあるこの教室からは、はっきりとした花の種類まではわからないが、一種類ではない、多種多様な花々が咲き乱れているのはわかった。麗良が見たことのない花まである。
校庭の真ん中あたり。
色とりどりの花々の中、埋もれるように一人の男が立っていた。
黒い髪に浅黒い肌、黒いスーツに身を包んだ男は、まるで悪魔のようだった。
悪魔は、麗良を見上げて、魅惑的な笑みを浮かべた。
「レイラ、君を迎えに来たよ。
さぁ、一緒にパパの国へ帰ろう」
それが麗良と父親の最初で最悪の出会いだった。
雲ひとつない、うららかな午後。
開いていた窓から入ってきた薄紅色の花びらが一枚、宙をゆっくりと舞いながら書きかけのノートの上へ着地した。
それを目に留めた花園 麗良は、動かしていたペンを止めて、首を傾げた。
(花壇にこんな花、咲いてたかしら)
指先でそっと摘まんでみると、しっとりと指に吸い付くような質感に柔らかな厚みが指先を伝い、麗良には、それがバラの花びらだとすぐに解った。
昇降口横にある花壇は、園芸部が管理していて、四季折々の花が校舎に彩りを添えている。シャクナゲ、アネモネ、ラナンキュラス、カーネーション――麗良は園芸部員ではないが、毎日見かける花壇にバラの花が咲いていないことくらいは記憶している。
この女学院には、大きなバラ園がある。
だが、校舎の裏手から少し離れた場所にあるため、校庭側を向いている窓からバラ園の花びらが風に舞ってくることはない。
麗良が不思議に思っていると、俄かに教室がざわつき始めた。
顔を上げると、何枚もの花びらが教室の中を舞っている。
赤、白、黄色、紫……色とりどりの花びらが、徐々に勢いを増し、窓から教室へと流れ込んでくる。まるで花吹雪だ。
きれい、と麗良は思い、しばし魅入った。
花びらからは歓喜と祝福の匂いがし、麗良の心を浮き立たせた。
しかし、授業を妨害された教師はそう思わなかったようだ。
「誰か、早く窓を閉めなさい」
教師の指示に、窓際に座っていた生徒が数人立ち上がり、窓を閉めようとするが、窓はぴくりとも動かない。
ふざけているのかと勘違いをした教師も加わり、生徒たちを急かすよう文句を言いながら窓を閉めようと試みるものの、やはり窓は固まったように動かない。
次第に花吹雪は勢いを増して生徒たちの足元に花びらの絨毯を作った。その不思議で美しい光景を生徒たちは初め楽しんでいるようだったが、自分たちの踝が花びらの海に埋まる頃になると、それは恐怖に変わった。
このままでは教室が花びらで埋めつくされ、自分たちは窒息死してしまのではないか、と。
そして、恐怖に駆られた生徒たちは、教室から脱出しようと扉へと駆け寄った。
しかし、扉も窓と同じでぴくりとも動かない。
自分たちが閉じ込められてしまったと気付いた生徒たちは、パニックに陥った。
叫び声を聞きつけて、隣の教室にいた教師たちが扉の外へ様子を見に来ているのが見えたが、彼らも同様に外から扉を開けることが出来ず、何があったのかと狼狽しているだけだった。
そんな中、麗良だけは他の皆と違って不思議と落ち着いた態度で席に座っていた。
慣れ親しんだ花々に囲まれているからだろうか。
彼らの香りは、麗良の身体と心を優しく包み込み、心地よい高揚感すら与えてくれていた。
ふと麗良の目が、机の上にある教科書やノート、プリント類に止まった。
これだけ花びらが吹雪いているのに、それらは微動だにせず鎮座している。
風ではない。花びら自体が吹雪いているのだ。
自分は夢を見ているのだろうか、と麗良は疑った。
もしも、授業中にうたた寝をしているのだとしたら、少し勿体ない気もするが早く目を覚まさなくては、と軽く頭を振り、自分の頬をつねって見る。
……痛い。麗良は、軽く目眩を感じた。これが夢ではないのだとしたら、幻覚を見ているのか、現実的じゃない何かが起きているとしか考えられない。
(……レイラ……)
麗良の耳に誰かが自分の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
クラスメイトの友人だろうかと周囲を見渡してみたが、皆パニック状態で扉に押し寄せており、誰も麗良のことを気にしている者はいない。
(……レイラ……おいで、こっちだ……)
今度は、はっきりと聞こえた。周囲は誰もその声に気付いていないようで、まるで麗良の頭の中に直接響いているような声だった。
麗良は、その不思議な声がする方――開いている窓へと向かい、手で花吹雪を避けながら外を見た。
その途端、ふっと花吹雪が止み、麗良の視界が開けた。
むせ返るような花の香りと共に、麗良が見たのは、変わり果てた校庭の姿だった。
「なに、これ……」
校庭は、鮮やかな色彩に染まっていた。宙を舞う花びらの合間からよく見ると、無数の花が校庭を埋め尽くしている。
二階にあるこの教室からは、はっきりとした花の種類まではわからないが、一種類ではない、多種多様な花々が咲き乱れているのはわかった。麗良が見たことのない花まである。
校庭の真ん中あたり。
色とりどりの花々の中、埋もれるように一人の男が立っていた。
黒い髪に浅黒い肌、黒いスーツに身を包んだ男は、まるで悪魔のようだった。
悪魔は、麗良を見上げて、魅惑的な笑みを浮かべた。
「レイラ、君を迎えに来たよ。
さぁ、一緒にパパの国へ帰ろう」
それが麗良と父親の最初で最悪の出会いだった。