「お兄ちゃま!」

 アーサーが執務室で仕事をしていると、幼女が部屋に入ってきた。幼女は鈴の転がるような可愛らしい声を上げて駆けてくると、そのまま勢いよくアーサーに飛びついた。アーサーはひょい、とその小さな身体を持ち上げると、柔らかな笑みを浮かべる。

「フィーネ! こら、仕事中だぞ」
「えへへー」

 アーサーの年の離れた妹、フィーネ・レグールである。

 フィーネは、アーサーによく似た黄金色の髪に真紅の瞳をした美少女である。人懐っこく好奇心旺盛で、王宮をこっそり抜け出すこともしばしば。

 地下街ならまだしも、炭鉱や人気のない裏路地にまで探検に行ってしまうから困ったものである。そして、迷って帰って来れなくなるのだ。

 アーサーはこれまで、お転婆なフィーネにほとほと手を焼いていたが、アナスタシアが来たことによって、フィーネの悪癖も大分よくなった。

 アナスタシアがよくフィーネの遊び相手になってくれるからである。探検に行きたいと言い出したらアナスタシアが一緒に手を繋いで行ってくれるし、それがアナスタシアにとっても新鮮で楽しいようだった。

 アナスタシアはこれまで、マルク王国で不自由な暮らしを強いられていた。だからこそ、このレグール王国ではのびのびと暮らしてほしいと、アーサーは心からそう思っていた。

「どこに行ってたんだ?」
 アーサーはフィーネの小さな頭を撫でて、髪を整えてやりながら訊ねた。
「お姉ちゃまと地下森林に遊びに行ってきたの!」
「またそんな危ないところに……」
 ため息を漏らしたとき、「失礼します」と、アナスタシアが部屋に入ってきた。

「アナスタシア」

 アナスタシアは夜空色のアラビアンドレスをまとっていた。アナスタシアとレグール王国に戻ったとき、記念にアーサーがプレゼントしたものだ。
 レグール王国伝統の衣裳だ。スタイルの良いアナスタシアにとてもよく似合っている。

「すみません……行きたいってきかなくて。でも、行ってよかった。とてもみずみずしい空気の場所で綺麗でした。この国にもあんなに綺麗な泉があるだなんて知りませんでした」
「アナスタシア……。いつもありがとう」
「いえ。私こそとてもいい気分転換になりました」

 そう言いながらも、アナスタシアの表情は少し曇っていた。
「アナスタシア? どうかした?」
「いえ……ただ私、こちらへきてからずっと遊んでばかりで……アーサーは忙しくしているのに、いいのかなって」

 アーサーは小さく笑う。

 レグール王国へきてから、アナスタシアには体力を取り戻すための療養期間としてのんびり過ごさせていた。彼女の心身が疲弊しきっていたからだ。体重も平均の半分以下。極度の栄養失調状態で、立っているのが不思議なほどだった。

 今は大分顔色も良くなって健康的になってきたが……まだまだ安静が必要だ。

 しかし、真面目なアナスタシアは根っからの働き者気質らしく、落ち着かないようだ。

「今の君の仕事は、体力を取り戻すこと、それから健康な心を取り戻すこと。こういうのんびりした時間もたまには必要なんだよ。フィーネと遊ぶのはつらい?」

 アーサーの優しい言葉に、アナスタシアはかすかに微笑む。
「まさか。とても楽しいです。素直で無邪気で、まるで人々を照らす太陽のよう……一緒にいるだけで笑顔になれます」
「そう? すぐ迷子になる困ったちゃんだけどね」

 すると、アナスタシアはふふっと笑った。花が咲くような笑顔に、アーサーは言葉を忘れて見惚れた。

「これからフィーネのことは私が必ずアーサーのところへ導きますから、安心してください。絶対泣かせません!」
「…………」

 アナスタシアは黙り込んだアーサーを見て、首を傾げた。

「アーサー?」
「あ……いや……」

 アーサーの目が泳ぐ。アナスタシアはアーサーの顔を覗き込んだ。

「どうかしましたか? あ、お茶淹れましょうか」
「…………いや」
 アーサーはちらりとフィーネを見た。フィーネはきょとんとした顔をして、アーサーを見上げている。
「?」
「そうだ、フィーネ。リールが新作のクッキーを作ったから試食してほしいって言ってたぞ。行ってみたらどうだ?」

 リールとは、フィーネの乳母である。結構歳がいっているので、お転婆なフィーネの面倒はなかなか大変らしく、昼間はアナスタシアが変わってみてやっているのだ。

「えっ! 本当ですか、お兄ちゃま!」
「あぁ」
 フィーネは瞳にきらきらと宝石を宿して、嬉しそうに執務室を出て行った。