「――お待ちください」

 すっと空気を切り裂く鋭い刃のような声が、ホールに響いた。
 
 ホール中の視線が、一斉にそちらへ向く。グルーは眉を寄せ、声の方を見た。
「これは、どういうことです……?」

 そこにいたのは、黄金色の髪に真紅の瞳を持つ、ハッとするほど美しい青年だった。

(綺麗なひと……彼は、たしか)

 アーサー・レグール。
 隣国の第一王子である。くっきりとした二重、輪郭はシュッと流れるように優雅。国民からも絶大な人気を誇るうら若き王子だ。

 アーサーは眉を下げて、突然の事態に困惑しているようだった。
 
「あぁ……これは、アーサー・レグール王子。みっともないところをお見せして申し訳ありません」

 グルーはお得意の王子スマイルを顔面に張りつけて、恭しくアーサーへ頭を下げた。

 アーサーは静かにその様子を見つめると、アナスタシアに視線を向けた。アナスタシアはまっすぐなその視線から逃れるように、サッと目を逸らした。
 
「……お話によると、グルー王子はこちらのご令嬢との婚約を破棄されるおつもりなのですね?」
「あ――えぇ、まぁ。彼女には、私なりにいろいろと尽くしてきたつもりだったのですが……いやしかし、王族の一員になるという自覚があまりにもないものですから、ほとほと困り果てていて」

 グルーはそう言って、肩をすくめる。それを見たアナスタシアは呆れを通り越して、もはや感動すら覚えた。

(私……困らせてたんだ、このひとのこと)

 それは申し訳なかったな、と他人事のようにそう思った。

「……まぁ、とは言っても、彼女が泣いて詫びるなら許してやらなくもないのですがね。彼女の親族はすべて流行病で死んでいて、どうせ行く宛てもないでしょうし。まぁ、こんな様子では正室としての責務は果たせそうにありませんし……仕方がないので、これからは側室として可愛がってやろうかと」 

 グルーはそう言って、くつくつと笑った。

(側室……?)

 アナスタシアは呆然とグルーを見上げた。

「側室……ですか」

 アーサーは小さく呟いた。その顔はライトの影になっていてよく見えない。

 アナスタシアは、拳をぎゅっと握り締めた。

(そう……そういうこと)

 納得した。
  
 つまりグルーは、それが狙いだったのだ。いくら美しいとはいえ、高慢なグルーがなぜ没落貴族の娘なんかを婚約者としたのか、ずっとおかしいと思っていた。

 だが今、グルーの勝ち誇った顔を見てようやくわかった。
 グルーは、アナスタシアを側室にしたかったのだ。この国随一の美しい女を、二番手として自身の傍に置くこと。それこそが目的だった。

 可哀想なアナスタシアを、心優しい次期国王のグルーは婚約者として迎え入れる。その後、王宮入りしたアナスタシアの悪い噂を流し、困り果てていると周囲に相談し……そして今回とうとう婚約破棄を突き付けた。

 そして、絶望したアナスタシアをやはり見捨て切れなかったグルーはもう一度、泣いて縋るアナスタシアに手を差し伸べる……そういう筋書きだ。

 なんて心優しいひとだろう。素晴らしいひとだ。

 そうして、周りはまんまとグルーの罠にはまるのだ。

「なにか言いたいことはあるか、アナスタシア」
「言いたいこと……でございますか」
 
 グルーは、アナスタシアが泣いて縋るのを待っているのだ。
 
 アナスタシアは唇を噛み締め、泣くのを我慢した。悔しさで手が震えた。

(私は……本当は、こんなひとに頼りたくない。でも……)

 それでも、天涯孤独の身であり、頼る者のいないアナスタシアには、グルーに頼って生きる道しか残されていない。

「……グルー様……私は……」
 観念して口を開こうとした、そのときだった。
「――アナスタシア様」
 
 アーサーが、アナスタシアへ歩み寄った。
「――?」 
 顔を上げたアナスタシアに、アーサーは柔らかな笑みを向けた。
 
「唐突ではございますが、アナスタシア様。よろしければ、僕の妻になっていただけませんか?」
「……え?」
 突然の告白に、アナスタシアはきょとんとして固まった。 
「つま……?」
 
 アーサーはアナスタシアの前にひざまずき、手を取る。
 
「私は、ずっと前からあなたを好いていました。しかし、あなたはグルー王子と婚約された身……。私には手の届かないお方でした。ですが、今は違う。グルー王子と婚約破棄なさるのなら、ぜひ、私の元へ来ていただきたい」
「なっ……アーサー王子、あなた、なにを……」

 グルーが慌てて口を挟むが、アーサーは気にせずアナスタシアに愛を紡ぐ。アナスタシアはぽかんとして、アーサーを見上げていた。

「愛しております、アナスタシア様。私が、必ずやあなた様を幸せにすると誓いましょう」

 真っ直ぐ、アナスタシアだけを見て紡がれる言葉。アナスタシアの瞳から、涙があふれた。
 
「……ですが、私なんて」
 アーサーが首を横に振る。
「私なんて、というのはいけません。あなたはとても美しいですよ。見た目だけでなく、心も……。そうだ。礼を伝え忘れていました。以前、妹を助けてくださったことを覚えておいでですか」
「妹さん……? あなたの?」 

(いつのことだろう……)

 アナスタシアは首をひねった。

「私の妹はまだ幼く、以前この国に来訪したとき、ひとり森の中で迷ってしまったのです。そのときお助けくださったのが、当時まだ貴族のご令嬢として領民に慕われていたあなたでした。あなたは私の元へ、愛する妹を導いてくださいました。そのときの光景が、頭から離れません。あなたはまるで、湖から現れた女神のようで……」

 アーサーはふっと笑った。

「あれから、私はずっとあなたを探しておりました」

 アーサーはアナスタシアを見つめ、眩しそうに目を細めた。
 
「見つけられてよかった」

 あまりにも優しい眼差しに、アナスタシアは頬を染め、俯く。

「……ですが、私は婚約破棄された身。こんな私が、一国の王子様であるあなたの妻だなんて……」
「私はあなたがいい。あなたしかいりません。私の国は日差しが強く、痩せた土地……。昼間はとても外には出られません。国民はきっと地下に資源があると信じ、毎日地下を掘り進めていますが……未だ見つからず、貧しい。でも、あなたが私を……私の国を選んでくれたら、国民はきっと喜ぶ」

 きゅうっと胸が締め付けられた。こんなにまっすぐな言葉をもらったのは、人生で初めてのことだった。

 このひとなら、きっと幸せになれる。アナスタシアは確信した。アーサーの手を握り返し、頷こうとした、そのとき。

「ま、待て! アナスタシア」
 ホールに、せっぱ詰まった声が響いた。