「えっ? ここ、どこ?」

 わたしは目が覚めた時、状況がよく分からなかった。

「果歩!」

 横に人が何人もいて、知ってる顔も知らない顔もあった。

「……一樹くん?」

 すごく心配した顔の一樹くんが横に座っていて、目が合うと抱きしめられてしまった。

「ここ、どこ?」
「病院。果歩、おまえさ、倒れたんだよ」

 えー、えっとぉ。
 鈍く痛む頭で必死に考えるけど。
 うーん。
 さっきまでわたしは、……えーっと、うちのキッチンにいて、……お米を研いだよね?
 それで朝御飯のために炊飯器のタイマーをセットしようとかしてた気がする。

「ここ……病院?」
「ああ、病院だよ」

 見渡すとたしかに病院らしくって、わたしはベッドの上で左腕には点滴の針が刺してあった。

「果歩」

 ああ、一樹くんだ。
 ほっとするなあ、一樹くんの顔って。


 わたしはぼんやりと眺めた。
 ことの次第がまだ飲み込めずに、頭はまだのんきにぽやんとしてる。

 え〜っと、一樹くんでしょ。
 あとは。

 それから、多喜子ちゃんと……。
 ああこの人、うーん数回会ったことがあったよね。そうだ、一樹くんのおじさんだ。

 で、あとはお医者さんに……、あれ、この一樹くんと同い年ぐらいの男の子は誰だろう?

「良かったあ。果歩も人に頼らないから。一人で無理しちゃ駄目よ。もっと周りを頼りなさい。お兄ちゃんたちには私から連絡しといたけど。かなりね、心配してたわよ? お兄ちゃん、今すぐ帰国するって叫んでたから。全力で燈子さんと説得して止めたけど。でも、本当に良かった。……大丈夫そうね。果歩、さっきより顔色が良いもの」
「多喜子ちゃん」
「本当、良かったです。果歩ちゃん、貧血と過労らしいよ。きみは一樹をもっとこき使わないと」

 幼稚園の先生をやってる一樹くんのおじさんは仕事のエプロン姿のままで。
 いつもは服もメイクに髪型ばっちりの多喜子ちゃんも今はぼさぼさの髪にジャージ姿だ。
 ……二人とも、もしかして一樹くんから連絡をもらって、わたしのために慌てて駆けつけて来てくれたのかな?

「ううん、一樹くんはたくさん手伝ってくれるし、いつもわたしに優しいんです。ただ、ちょっとわたしも張り切りすぎちゃった。……弟が出来てわたしはお姉ちゃんになったから、嬉しくってしかたなくって」

 パパの妹の多喜子ちゃんはニカアッと笑って、わたしの頭を撫でた。

「そっか、そっか。じゃあ、私達は帰りましょうか」
「ええっ!? 多喜子さん、一晩ふたりに付いてなくって良いんですか」
「良いんですよ。私達がいてもやれることはないからね。果歩、退院の時は来るから、ゆっくり休みなさい」
「だってふたりはまだ子供ですよ?」
「あのねえ、やれることまで手を貸したら、子供の自立を妨げるでしょうが。それに……、果歩が弱った時は本心が出るんです。ふたりは本音からもっと仲良くなるチャンスなんだと思うのよ」
「はあ、そんなもんですか?」
「ささっ、おじゃま虫は帰りましょうね〜」
「おじゃま虫って……。そんな、たしかに僕はここにいても役に立ちそうもないですけれど」

 えっと、おじゃま虫って……。
 多喜子ちゃん、なんか勘違いしてないかな?
 わたしはべつに、多喜子ちゃんも一樹くんのおじさんが一緒にいてくれても良いんだけど。
 ああ、でも、ふたりとも明日も大事な仕事があるか。
 ましてや、多喜子ちゃんはプロの写真家で、もうすぐ個展が近いって言ってたしね。

「一樹くん、果歩の退院の日が決まったらあとで連絡ちょうだい」
「あっ、はい」
「一樹くん!」
「はい」
「果歩を、くれぐれもよろしく」
「はい。分かっています」

 多喜子ちゃんが、渋々了承した顔の一樹くんのおじさんの背中を後ろから押しながら病室を出て行く。

 残ったのはわたしと一樹くんと、お医者さんと謎の男の子だけだ。

「もう大丈夫そうだね。熱は下がっているし、点滴でだいぶ回復しているから。たかが貧血と思っていないだろうけど、退院しても検査と定期的に病院に来るように」
「はい」

 白衣を着てメガネを掛けたお医者さんがにこりと微笑んだ。

「あの。おじさん、本当に貧血と過労だけですか? 果歩、大丈夫ですか?」

 おじさん?
 このお医者さんって一樹くんのお知り合いなのかな。

「無理はいけないけど、大丈夫。脈拍なども安定してる。……一樹くん、頑張ったね。君がちゃんと迅速に対処したからだよ。よくやったよ、安心なさい。ただ、お姉さんが頑張りすぎないよう横で注意してあげて。では……」
「ありがとうございます」

 わたしはお医者さんとのやり取りをしているキリッとした表情の一樹くんに圧倒され、見惚れていた。
 お医者さんも病室から出て行くと、いよいよわたしと一樹くんと謎の男の子の三人だけになった。

「果歩、良かったね」
「あ、うん。ありがとう。……一樹くん、なんかごめんね。心配かけちゃった」
「いいや。果歩が無事で良かった。慎也もありがとう、助かったよ」
「ひゃーっ! ずっとオレ喋るの我慢してたけどっ、一樹! おまえ、ちょー超、超絶かわいい姉ちゃん出来てんじゃん! ずりいぞ。おばさん、再婚したの聞いてたけど、こーんな可愛い義理の姉ちゃんが出来てるなんてスッゲエうらやましいぜ」

 丸刈りの男の子は、一樹くんに興奮気味に話しかけてる。

「はじめまして。一樹の親友の五十嵐慎也《いがらししんや》です。こいつとは昔っからの腐れ縁で幼なじみです。わあーっ、光栄です! こんなめちゃくちゃ可愛いお姉様とお会いできて。病室で初対面の挨拶でなんなんですが、ここの病院、オレんちなんでいつでも頼りに検診とか気軽に来てください。ついでにさっきの医者はおれの親父です」
「あ、そうなんですね。はじめまして、一樹くんの義姉《あね》になりました、果歩です」
「くーっ、可愛いぜっ! かほちゃんかあ……。ああ、名前も可愛いっ! 一樹、おまえのお姉様はおしとやかで清楚で可憐な方ではないですか。一樹にはもったいねえ」
「まあ、な」
「……えっとその、わたし。わたしなんかおしとやかでも可憐でもないですよ」
「またまたご謙遜を〜。そんな控えめでいらっしゃるところも素敵ですね」

 一樹くんの親友だというシンヤくんがわたしの恭しく手をとって、ぶんぶん振って握手する。
 そうすると一瞬、一樹くんがムカッとした顔を見せたように見えたのは、気のせい?

「慎也。おまえにも助けてもらってなんだけど。距離感が近すぎてイライラするんだよな」
「はー、一樹ったら怖〜い。まあ、怒んない怒んない。いつもは女子には無表情無関心のくせに、一樹ってば珍しく焦ってたもんなあ」

 シンヤくんが言った時、一樹くんの顔が赤かった。

 そうだよね、わたしが急に倒れちゃったんだもの。
 わたしは一樹くんを焦らせてしまったよね。

「じゃあ、お大事にしてください。一樹、病室であんまりいちゃいちゃすんなよな? っつうか、お姉さん。一樹よりオレにしません?」
「えっ? あの、えっと」
「変なこというなよな。俺と果歩は姉弟だ。それに慎也を果歩の彼氏にはぜったいに認めない」
「はいはい、他言無用ね。分かってるって大丈夫。オレ、口が堅いの知ってっだろ? おまえはオレの弱みや秘密をもらさないから、オレもおまえの秘密は守る」

 秘密?
 一樹くんの秘密は、わたしのこと? ……だよね。
 義理の姉弟が出来たってことは、まだ誰にも言ってなかったんだ。
 親友のシンヤくんにも。

「でもさ、義理だってバレてもいいじゃん」
「いやなんだよ。果歩をトラブルに巻き込みたくない」
「一樹、おまえモテるもんな。まあ、分かるわ、それ。おまえが牽制してんなら、周りにふたりが義理の姉弟だって言わないよ.じゃあ、一樹また。お大事にしてください、お姉さん。……ふははっ、果歩さんって呼んじゃお〜」
「慎也っ」

 面白い子だなあ。
 一樹くんとはタイプがぜんぜん違うけど、シンヤくんのことを一樹くんが信頼してるって感じる。
 シンヤくんからもそう感じた。

 きっとふたりには今までにたくさん、親友同士でしかない絆とか思い出とかがあるんだろうなあ。
 ちょっとうらやましく思っちゃう。

 賑やかだったシンヤくんもいなくなると、わたしと一樹くんだけになって、静かになった。

 しーんと静まり返った病室で、わたしはベッドの脇のパイプ椅子に座る一樹くんを見つめた。

 時々、病室の機械音や救急車の音がする。

「あ、あの」
「うん?」

 おもむろに一樹くんが立ち上がると病室の小さな冷蔵庫からペットボトルの水を出して、わたしに差し出す。

「ありがとう」
「……ああ。……果歩さ」
「あ、うん。ごめんね」

 先に謝ってしまう。
 だって、一樹くんの顔が怒ったような怖い顔をしていたから。

「ちがう。俺は……謝って欲しいわけじゃない。……怖がんなよ。悪い、果歩に怒ってるんじゃないんだ。おまえのことが心配で仕方がなくって、自分が不甲斐なくって。……自分に苛ついてんの」
「……一樹くん」

 下を向いて話していた一樹くんはうつむいたまま、こっちを見てくれない。

「心配かけてごめんね」
「果歩が死んじまうかと思っただろ……。正直、血の気が引いた。すっげえ、あせってパニックになりかけた。……母さんが倒れた日とか思い出して」
「一樹くん」
「でも、お前を守るのは俺しかいないから、……だから俺は必死で。うん、今はさ、ホッとしたら自分に腹が立っただけだから」

 わたしは腕を伸ばして一樹くんを抱きしめようとした。

「いたっ!」
「だ、大丈夫か?」

 慌てて一樹くんが立ち上がってわたしに寄り添ってくれる。

「あははは、大丈夫。点滴の管が……」
「あーあ。まったく何やってんだよ」

 わたしの腕から伸びた長い点滴の管がベッドの手すりにひっかかってる。
 一樹くんが絡まった管をほどきながら、わたしをチラチラと見た。
 その潤んだ綺麗な瞳に、ドキリッとする。

「果歩。せっかくさ、家族になったんだから遠慮しないでなんでも言えよ。俺たち助け合って、生活してけば良いんだから。なあ、俺のことも、ちゃんと頼って?」

 一樹くんにじっと見つめられると。思いのほか彼の視線に熱さを感じて、ちょっと胸が甘くときめいて息苦しくなった。

 勘違い?
 思い違いじゃないよね?

 えっと、ちが……う。
 違うよ、わたしが変な受け取り方してるんだよ。

 一樹くんはだって家族になったんだしって言った。

 じっと見つめられたまま、わたしは一樹くんの透き通った瞳から視線が外せない。

 大きな手が近づいてくる。
 わたしの頬に触れて。

 ――それから。

 一樹くんの唇がそっとわたしの唇に……、ふ、触れた。

「えっ? えっ? えっ?」
「俺、果歩が思ってるほど子供じゃねえし」
「い、今。……キ、キ、キスした?」
「した」
「一樹くん。わた、わたしにキスした?」
「ぷっ……。果歩、テンパってんの? キスしたよ。前から言ってんじゃん。果歩のこと好きだって。あれ、弟としてだと思ってたの?」
「あたりまえじゃない。……えっ、えっと」
「姉ちゃんと弟として接するのはやめた。果歩が甘えないならイヤでも甘えたくなるようにしてやる。俺、本気で落としにかかることにしたから、覚悟しなよ? 果歩」
「ええっ……うそ、でしょ?」

 わたしはぐらっとめまいがしてきた。
 体がふらふらっとしたのを、一樹くんが抱きとめてくれる。

「わわっ、悪い。刺激が強すぎたか。大丈夫か?」
「う、うん」
「今日はこれ以上なんもしない、大人しく寝とけ。果歩、お前が退院してからもしばらくは無理させたくねえから、家事とか全部俺がやる」
「そんなの悪いよ」
「あのなあ。俺だってある程度の家のことはやれるから任せとけ。朝食は簡単なもんになるけどずっと俺が作る。そうだなあ、夕飯はふたりで作ろう」
「うん。……あのぉ」
「なに?」
「い、いつまで抱き合って……るのかなあって」
「……もうちょっと良い?」
「あ、うん。まあ……。あの、一樹くん」
「んっ?」
「わたしも好きかもしれない」
「えっ?」
「一樹くんのこと……好きかもしれない」
「ああ、うーん。そんな気がしてた」

 ぎゅっと抱きしめられて、わたしは一樹くんの言葉に泣きそうになった。

「好きだ」

 たったひとことが、耳にもこころにも響いて。
 あったかいなあ、一樹くんって。

 えっと、……わたしたち義理の姉弟ですが、これからどうなっちゃうんでしょうか?

 いまはとりあえず、一樹くんのあったかい胸のなかにうもれて、彼の不器用なあったかさを堪能しようと思った。

 前途多難だけど、……もしかしたらいっぱいいろんなことが立ちふさがると思うような気もするけど。

 一樹くんの優しさが、たしかで。じんわりわたしを包んでく。
 急に思春期のお年頃で姉弟になった気まずさも溶けて、不安もなにもかも蕩けるようだった。

 好きって、……まだ、わたしの気持ちはくっきりと輪郭を作っていない、確かじゃない。

 一樹くんの人肌のぬくもりに、ただ逃げたんじゃないって。
 これがどんな種類の好きかってわたしがはっきり自信を持てるようになったら、わたしから一樹くんにきちんと告白しよう。

 確信するまで待ってね。

 今はごめん、ちょっとまだ頭がぼやぼやしてるみたい。
 心も弱ってて、ふらふらしてる。

 ――ぼんやりもふらふらも治ってからで、……良いかな?

 この「好き」が姉弟の好きじゃなくって、男の子に対する好きだって分かったら。
 そうしたら。
 ……一樹くん。

 わたしね。
 その時は、あなたのことが大好きですって、……ちゃんと伝えたいと思います。





         おしまい♪