──九月、東京。

「け、圭ちゃん」
「うす。予告通り来たで。あ、いや、来たんだ」

 言い直し、二カッと笑う。

「半年ではなかなか……難しいなぁ。やっぱ、あかんわ。いや、頑張る」
「どうしたの?」
「営業に配属された。ベタベタすぎるから、ちょっとは標準語に近づけようと思って。あ、いや、なんとかしろって先輩たちに言われた。化粧品会社の営業だからスマートじゃないと困るって」

 紗希は突然訪ねてきた圭司に目を丸くしながら、それでも部屋の中に案内した。

「えぇんか? あ、いや、違う。入っていいのかな。外のほうがいいなら、どこかの喫茶店にでも」
「圭ちゃん、ムリすぎ」

 圭司は頭に手をやりながら、困ったように「ははは」と枯れた声で笑った。

 円形の座卓を用意し、コーヒーを淹れる。

 照れ臭そうにしている圭司を横目で見ながら、紗希は平静を装いつつカップを置いた。

「インスタントで悪いけど」
「いや、十分」
「いつ東京に?」
「九月一日付で配属。会社は新橋。驚くことに本社勤務」
「へぇ。サラリーマンの街ね。え? 新橋の化粧品会社?」

 紗希は半年間研修であっちこっちに行くと言った圭司の言葉を思いだした。

「研修期間、日本全国回るって言ってたよね。新橋に本社って、まさか」

 驚く紗希に向け、圭司が照れ臭さそうに頭を掻いた。

「杏花堂」
「すごい!」
「そうかな」

 圭司はますます照れて笑った。

 杏花堂は世界にも名の知れた大会社だ。超がついてもいい一流企業だ。紗希は幼なじみの圭司が、そんな大会社に就職したことに心底驚いた。

「だから品よく標準語をマスターしろって言われたんだ。もちろん、英語もだけど」
「なるほど」
「紗希は? 春から引っ越しと就職、じゃなかったか?」

 紗希は再会したあの日、まさか圭司が本当に来るとは思わず、そしてあまり気が乗らず、新住所も携帯の電話番号も教えなかった。家はこれから探すと言い、携帯も買い直すからと嘘をついたのだ。それなのに圭司は来た。紗希は胸に痛みを覚えた。

(圭ちゃん、今の私はボロボロなの。半年経っても、まだ、ボロボロなのよ。私、まだ笑えないのよ)

 込み上げてくる激しいなにか──そのなにかがわからないまま、紗希は必死で耐えていた。

「職場は惣菜屋さん。就職って言うほど立派なものじゃないけど、関東圏ではそれなりに名前を知られたお店なの。大学中退、バツ一じゃ、なかなか普通の会社には入れないから」

「……そうだな」

「でもスタッフの人たちはベテラン主婦が多いから、それなりに楽しくやってる。この年でバツ一ってのには敬遠的な目を向けられたけど、早産したって言ったら大事にしてくれてね。そこんとこは主婦よね。妊娠出産には敏感というか、簡単なものじゃないってわかっているから、なにも言わなくたって、そこから関係がうまくいかなくなったみたいだって想像してくれたようでね」

「…………」

「若いから大丈夫って励ましてくれるから。けっこう居心地いいよ。それに気の早いおばさんなんて、将来、紗希ちゃんに子どもができたら、みんなで盛大に祝ってあげる、なんて言う始末でさ。和気あいあい楽しくやってるの」

「そっか」
「それで圭ちゃん、どうしてここがわかったの? ウチの親にでも聞いた?」

 圭司は一度カップに視線を落とすと、今度は顔を上げ、真面目な顔を紗希に向けた。

「勇気を出してお前ン家に行ってきた。そしたらおばさん、俺のことちゃんと覚えてくれてて、あっさり住所教えてくれた」
「じゃ、情報漏洩の犯人はお母さんなんだね」
「まぁな。で、お前が小さい頃、よく圭ちゃん圭ちゃんって言うとったって……いや、言ってたそうで、紗希をよろしくって。心配なんやろ」
「心配なんだろう、でしょ?」
「あ、そか」

 圭司は頭を掻きつつ、困ったように笑った。