──半年前、三月、大阪。
「あ、ムスカリ。そっかぁ、今、そんな季節か」
ムスカリの花が咲いている。
近所にある神社の裏庭は、三島紗希のお気に入りの場所だった。
小さな花を鈴なりにつけるムスカリは、背丈も低いので他の草花に埋もれて見つけにくい。だが色鮮やかな紫紺の花は愛らしく、可憐だ。どの花も好きだが、目に飛び込んでくるような紫紺のムスカリが特に好きだった。
紗希は見つけたムスカリの真横に腰を下ろし、風に揺れる姿に見入った。
(ここでムスカリを見ていた頃は純粋でよかったよね。子どもで)
ジワリと涙が浮かんでくる。
つらい思い出がこみあげ、胸を焼く。
いつから狂ってしまったのだろう。
いつから楽しいことを忘れてしまったのだろう。
いつから生きることがつらいと思うようになったのだろう。
紗希はムスカリを見つめながら考えた。
いや、始まりは鮮明に覚えている。忘れるはずがない。ただあの出来事を忘れさせてくれるような、幸せな出来事に恵まれなかっただけだ。
(うぅん。幸せだと思える出来事もあったのよ。少なくても、結婚した時は本当に幸せだったもの。でも、その幸せは、苦痛を呼び込むだけのものだった、それだけ)
そっと紫紺の花に触れてみる。
昨夜、一晩かけて両親とたっぷり会話をした。本当に久しぶりだった。
親は、やはり親だ。心配という愛情を無限に注ぎ込み、労りという薬で傷ついた心を癒やしてくれた。
「ムスカリの花言葉は『明るい未来』だったね」
花に向けて、そんなことを呟く。
紫色の小さな花は可憐で可愛い。
西洋では紫が避けられる傾向から、よくないイメージの花言葉もあるが、紗希は希望に満ちたこの『明るい未来』という言葉だけ覚えていた。
丸くて小さな花をいくつもつけている姿がなんとも言えず愛らしい。吸い込まれていくような感覚を得ながら、ムスカリを見つめた。
久しぶりの実家だった。
ようやく離婚が成立し、仕事も見つけ、引っ越しも終えた。今回の帰省は、心配や迷惑をかけたことを、両親に謝りたかったからだ。そしてこれからのことを心配しないようにと伝えたかった。
高校を卒業し、東京の大学に通い始めて以来、こんなふうに親と取りとめのない話を延々としたことはなかった。
いや、それ以前に、高校三年生の春に起きた出来事をきっかけに、誰ともぎこちなくなってしまい、逃げるように東京の大学を受験した紗希としては、今になって親との時間を持たなかった自身の態度に反省しきりだった。
気まずかったのは自分だけで、親は『心配』という愛情を与え続けてくれていた──そう痛感するばかりだった。
──なにも、東京の大学に行かんでも、大学ならどこでもあるやんか。この辺りがイヤなら、京都でも神戸でもえぇやろ。一人暮らししたかったら、してもえぇんやから。女の子が東京で一人やなんて、危ないやろう。
そう言ったのは近くに住む祖母だった。それを諫めてくれたのは両親だ。
──紗希の人生は紗希のもんや。紗希が東京に行って、頑張りたい言うんやから、やらせてやったらえぇやろう。一回しかない人生や。紗希、悔いなく生きろ。その代わり、全部自己責任や。誰のせいでもない。それだけは、忘れなや。
両親は笑って送りだしてくれた。
実家周辺から逃げたかったばかりの受験、上京。目標があったわけでもない東京での生活は、紗希が思っていたよりも遥かに大変だった。
まずは言葉だった。
訛っていると言われた。別にバカにされたわけではない。ただ知りあう者知りあう者、みなから『関西の人?』と問われるのがつらかった。
相手に悪意がないのがわかるので、そうです、と答えるものの、話すほどに妙になっていく自分が歯痒かった。
(どう違うんだろう?)
上手く化けようと思えば思うほど、ますますわからなくなっていった。
そんな時、元夫と知り合った。
アルバイト先の居酒屋の店長で、東京のことをよく知らない紗希に仕事以外のことも親切に教えてくれた。
年はもうすぐ三十になるという。爽やかで優しい感じの男だった。その優しさに惹かれ、すべてを委ねてしまったのは、紗希がまだ十九になって間もなくという若さからだろうか。それとも知らない土地での生活で、孤独と寂しさに囚われていたからだろうか。
一年ほどが過ぎた頃、紗希は妊娠していることに気がついた。
愕然としたものの、まだ大学生だ。
罪の意識に苛まれつつ、涙ながらに堕胎を決意し、元夫に話をした。了承のサインが必要だったからだ。
しかし元夫は産むことを望んだ。その言葉に紗希は泣きながら頷いた。元夫も愛していたし、なによりお腹に宿った命は愛しい。
互いの両親はそれぞれの立場から反対したが、元夫の決意は強く、紗希は大きな安堵とともに、大学を辞めて籍を入れた。無事生まれてから結婚式を挙げようということに収まった。
そんな慌ただしい時間の中で、安定期に入った矢先、腹部に強烈な痛みを覚えた。
救急車で運ばれ、緊急入院したが、五ヶ月に入った子どもの命をつなぎとめることはできなかった。
早産は大きな傷を残した。
元夫は子どもを失ったことを責めこそしなかったが、店を閉じてから飲み歩き、ろくに家へ帰ってこなくなった。休みの日も出かけてしまう。紗希は子どもを失ったつらさを癒やすどころか、孤独にますます塞ぎ込んだ。
ある日、元夫の素行に疑問を抱いた。
ワイシャツから微かに香る女物の香水。確信と証拠を得るまで二年の歳月が流れた。両親に相談し、ツテで弁護士を紹介してもらって、離婚調停を申し立ててさらに半年強。
やっと認められた。紗希はようやく旧姓に戻ることができた。
「あ、ムスカリ。そっかぁ、今、そんな季節か」
ムスカリの花が咲いている。
近所にある神社の裏庭は、三島紗希のお気に入りの場所だった。
小さな花を鈴なりにつけるムスカリは、背丈も低いので他の草花に埋もれて見つけにくい。だが色鮮やかな紫紺の花は愛らしく、可憐だ。どの花も好きだが、目に飛び込んでくるような紫紺のムスカリが特に好きだった。
紗希は見つけたムスカリの真横に腰を下ろし、風に揺れる姿に見入った。
(ここでムスカリを見ていた頃は純粋でよかったよね。子どもで)
ジワリと涙が浮かんでくる。
つらい思い出がこみあげ、胸を焼く。
いつから狂ってしまったのだろう。
いつから楽しいことを忘れてしまったのだろう。
いつから生きることがつらいと思うようになったのだろう。
紗希はムスカリを見つめながら考えた。
いや、始まりは鮮明に覚えている。忘れるはずがない。ただあの出来事を忘れさせてくれるような、幸せな出来事に恵まれなかっただけだ。
(うぅん。幸せだと思える出来事もあったのよ。少なくても、結婚した時は本当に幸せだったもの。でも、その幸せは、苦痛を呼び込むだけのものだった、それだけ)
そっと紫紺の花に触れてみる。
昨夜、一晩かけて両親とたっぷり会話をした。本当に久しぶりだった。
親は、やはり親だ。心配という愛情を無限に注ぎ込み、労りという薬で傷ついた心を癒やしてくれた。
「ムスカリの花言葉は『明るい未来』だったね」
花に向けて、そんなことを呟く。
紫色の小さな花は可憐で可愛い。
西洋では紫が避けられる傾向から、よくないイメージの花言葉もあるが、紗希は希望に満ちたこの『明るい未来』という言葉だけ覚えていた。
丸くて小さな花をいくつもつけている姿がなんとも言えず愛らしい。吸い込まれていくような感覚を得ながら、ムスカリを見つめた。
久しぶりの実家だった。
ようやく離婚が成立し、仕事も見つけ、引っ越しも終えた。今回の帰省は、心配や迷惑をかけたことを、両親に謝りたかったからだ。そしてこれからのことを心配しないようにと伝えたかった。
高校を卒業し、東京の大学に通い始めて以来、こんなふうに親と取りとめのない話を延々としたことはなかった。
いや、それ以前に、高校三年生の春に起きた出来事をきっかけに、誰ともぎこちなくなってしまい、逃げるように東京の大学を受験した紗希としては、今になって親との時間を持たなかった自身の態度に反省しきりだった。
気まずかったのは自分だけで、親は『心配』という愛情を与え続けてくれていた──そう痛感するばかりだった。
──なにも、東京の大学に行かんでも、大学ならどこでもあるやんか。この辺りがイヤなら、京都でも神戸でもえぇやろ。一人暮らししたかったら、してもえぇんやから。女の子が東京で一人やなんて、危ないやろう。
そう言ったのは近くに住む祖母だった。それを諫めてくれたのは両親だ。
──紗希の人生は紗希のもんや。紗希が東京に行って、頑張りたい言うんやから、やらせてやったらえぇやろう。一回しかない人生や。紗希、悔いなく生きろ。その代わり、全部自己責任や。誰のせいでもない。それだけは、忘れなや。
両親は笑って送りだしてくれた。
実家周辺から逃げたかったばかりの受験、上京。目標があったわけでもない東京での生活は、紗希が思っていたよりも遥かに大変だった。
まずは言葉だった。
訛っていると言われた。別にバカにされたわけではない。ただ知りあう者知りあう者、みなから『関西の人?』と問われるのがつらかった。
相手に悪意がないのがわかるので、そうです、と答えるものの、話すほどに妙になっていく自分が歯痒かった。
(どう違うんだろう?)
上手く化けようと思えば思うほど、ますますわからなくなっていった。
そんな時、元夫と知り合った。
アルバイト先の居酒屋の店長で、東京のことをよく知らない紗希に仕事以外のことも親切に教えてくれた。
年はもうすぐ三十になるという。爽やかで優しい感じの男だった。その優しさに惹かれ、すべてを委ねてしまったのは、紗希がまだ十九になって間もなくという若さからだろうか。それとも知らない土地での生活で、孤独と寂しさに囚われていたからだろうか。
一年ほどが過ぎた頃、紗希は妊娠していることに気がついた。
愕然としたものの、まだ大学生だ。
罪の意識に苛まれつつ、涙ながらに堕胎を決意し、元夫に話をした。了承のサインが必要だったからだ。
しかし元夫は産むことを望んだ。その言葉に紗希は泣きながら頷いた。元夫も愛していたし、なによりお腹に宿った命は愛しい。
互いの両親はそれぞれの立場から反対したが、元夫の決意は強く、紗希は大きな安堵とともに、大学を辞めて籍を入れた。無事生まれてから結婚式を挙げようということに収まった。
そんな慌ただしい時間の中で、安定期に入った矢先、腹部に強烈な痛みを覚えた。
救急車で運ばれ、緊急入院したが、五ヶ月に入った子どもの命をつなぎとめることはできなかった。
早産は大きな傷を残した。
元夫は子どもを失ったことを責めこそしなかったが、店を閉じてから飲み歩き、ろくに家へ帰ってこなくなった。休みの日も出かけてしまう。紗希は子どもを失ったつらさを癒やすどころか、孤独にますます塞ぎ込んだ。
ある日、元夫の素行に疑問を抱いた。
ワイシャツから微かに香る女物の香水。確信と証拠を得るまで二年の歳月が流れた。両親に相談し、ツテで弁護士を紹介してもらって、離婚調停を申し立ててさらに半年強。
やっと認められた。紗希はようやく旧姓に戻ることができた。