― 伝わりますか ―

 右京の言っていることが正しいのは、痛々しいほど彼には理解が出来た。と共に自らの過ちに気付かずにはいられない。月葉を失った哀しみのまま、世を突っ走ってしまった悠仁采。それとは対称的に己を押さえつけることの出来た右京。織田を倒せなかった今、全てが過ちとなろう。

「私は一度たりとも織田を憎まなかったとは言いません。……ただ」

 闇夜の深い淵から洩れてくる右京の言葉が、少し途切れてくぐもり消えた。

「ただ……?」

「ただ、私は同時に織田に助けられもしたため、憎もうにも憎みきれないのです」

 悠仁采の問いに即答した右京の口調には、少々皮肉にも似た苦笑を帯びていたことを、彼自身気付かずにはいられなかった。右京は(ひそ)かに涙する。が、それも一瞬のこと。

「もう夜も深くなりました。眠ることと致しましょう。おじじ様の傷にも障ります」

 右京のそう発したまもなくに、寝返りの衣擦(きぬず)れと柔らかな寝息が聞こえたのは、故意であったのだろうか。

 悠仁采は疑問を残したまま、やがて訪れる恐ろしい睡魔と、悪に彩られた夢を待ち焦がれながら、その重い瞼を閉じた──。



 ◆ ◆ ◆


 ──翌朝。

 かはたれ時の薄煙の中を、早くも伊織と秋は右京の小屋へと向かって馬を走らせていた。

 狩人の朝は早い。既に右京は朝食の準備を済ませ、森の奥へ進むための用意をしている。二人が到着したことに気が付いて、彼はそちらに手を振り、未だ暗い森の道を歩み始めるのだった。

 秋は伊織に優しく馬上から降ろしてもらい、静かに小屋へと入っていった。薄暗い中、囲炉裏の炎が微かに燃え、鍋の中の粥を冷まさないようにしてある。右京の床はすっかり片付けられ、しかし悠仁采のものは未だそのままであった。

 悠仁采は目を覚まさなかった。

 近付いてみれば静かに息をしてはいるが、顔じゅう身体じゅうから汗が噴き出し、苦しげな表情をしている。秋は急いで彼の汗を(ぬぐ)いはしたが、それは無意味にも等しかった。

「……」

 時折震える唇から小さく声が洩れる。右手はちぎれそうなほどに布団を掴み、長い銀髪は汗に濡れて床に広がった。

 ──悪夢、だ……。

 秋はそう感じて、伸ばした手を戻しながら後ずさった。悠仁采のこけ細った頬からは死相が微かに色を見せている。死、そのものではなく、死までの長い道のり。

「……つ……き。月っ! ……」

 以前秋に向けて発せられた言葉。それは「秋」ではなく「月」であったにも関わらず、耳を塞いでしまうほど苦しい。


「おじじ様! ……おじじ様……」

 彼女には彼の悪夢を解することは出来なかった。徐々に蒼みを帯びる肌は救いを求めてはいるが、同時に解放をも願っている。

「朱里殿──」

 戸口で呆然と立ち尽くした伊織もまた、秋同様次の句を失いつつあった。

 そして──風。

 その時何処からか舞い降りた薫風(くんぷう)が、悠仁采の濡れた髪を掻き上げ、己を覚醒させたことに二人は気付いたであろうか。

 緩やかに開く視界が、昨日と同じであったことに知らず安堵感を催している。──死にたかったのに……? いや、死は月葉の元へと旅立つための一段階に過ぎない。

「おじじ様、大丈夫ですか? 酷い汗です」

 そしてもう一人、ほっと息をついた秋は駆け寄ると、悠仁采の布団へしがみつき、潤んだ瞳を彼へと向けていた。

 悠仁采の肉体と精神は、既にいつ崩壊しても不思議でないほどの傷を受けている。が、昨晩も今も生と死の狭間を彷徨(さまよ)いながら、結局は秋と伊織のために引き返すこととなってしまった。

 ──月葉よ。そなたはわしに会いとうはないのか……。それともわしには未だ、やらなければならない使命でもあるのか──。

 安堵のためか泣き崩れた秋の美しく艶やかな黒髪を、皺の刻まれた細い手で、いつの間にか撫でてやりながら、悠仁采はそう呟いていた──。


「秋、じじ殿は怪我をされておられる。そう上から()し掛かられては、苦しくて(たま)らぬぞ。早く涙を拭いて、おとぎりを摘んできなさい」

 秋よりも先に心を落ち着かせた伊織は、妹にそう言って(なだ)めるや(とこ)の側に刀を置き、その隣に腰を落とした。ややあって涙を(ぬぐ)い笑顔を取り戻した秋は、悠仁采に謝罪をして小屋の外へ飛び出していった。

「……おとぎりとは……?」

 恐ろしい悪夢から放たれ、再び息を吹き返した悠仁采は、既に汗の引き切ってしまった身体を、伊織に助けられながら起こしてみた。

「煎じ薬にもなる草の一種で、止血や打撲に効き、収斂(しゅうれん)薬・鎮痛剤としても効能のある優れた生薬でございます。必ずやじじ殿……いや、失礼……朱里殿の傷を癒してくれることでしょう」

「じじで構わぬ」

 照れるが如く、咳払いでお茶を濁した伊織を横目に、悠仁采は少々の笑みを洩らしたが、意外にもそれが心からの笑いであったことに、自ら驚きを隠せずにいた。

 ──このわしが、この兄妹に癒されている……?

 と云わんばかりに。


「……では……じじ殿。これを召し上がれ。まずは腹ごしらえです」

 唖然とした悠仁采は言われるがままに手を差し出し、囲炉裏で程好く温められた小柄な椀を受け取っていた。昨夜の鍋を仕立て直した粥であった。

 ややあって手製の木匙ですくい口に運ぶ。唇に触れた汁は舌の上を通り、喉を熱くすると共に、()てついた悠仁采の心まで溶かしていくようだった。

「伊織殿……と申されたな。もしや姓は“織田”であろうか?」

 ようやっと食欲を取り戻せたのであろう。椀を半分ほど進め、一息ついた彼は伊織に問うた。しかし問われた若武者は眉をしかめ、

「何故に“織田”と……?」

 と問い返した。どうやら的は外れたらしい。(いぶか)しげなその表情は違うものを語っている。

「……いや……昨夜、右京殿が「織田に助けられた」と溢した故……わしと同様、そなた達に救われたと思うただけだが……」

 すると鍋に戻しておいた粥をよそる底の深いヘラに手を伸ばし、ほんのり口角を上げた伊織は、



「それはこの森のことでしょう……右京殿はこの森に救われ、この森に生かされている……しかし、その所有者は織田家なのです」

 そう言って悠仁采の手から椀を受け取り、先程と同じ位の量にして返そうと彼の顔を見た。

「……朱里殿?」

 此度(こたび)は戻された椀を受け取らずに、怪訝な表情で伊織を凝視した悠仁采の心の内は、如何(いか)なるものだったのだろうか。

 織田の領地で暮らす敗北者の嫡男。其処を訪れる“織田ではない”青年武士。──ならば伊織は──?

「詳しく説明致しましょう……私は……正式には織田であって、織田でない者です。つまりは織田の姓を持たない、織田配下の者」

 囲炉裏の端に一先(ひとま)ず椀を置いた伊織は、苦笑を帯びた溜息をつき、観念したように向き直った。

「では……?」

「曽祖父の時代、信長様の父上──信秀様に命を救われた水沢家の嫡男に当たる者……水沢 敏信と申します」

「水……沢……」


 大きく開かれた左眼の見詰める先には、伊織、いや敏信の哀し気な瞳があった。やはりこの若者と妹 秋姫は月葉の(ゆかり)の者なのだ。悠仁采は失われた右眼の在るべき場所が(うず)いた気がして、思わず眼帯を押さえた。

「命を救われたとは皮肉な物言い。依然幼名を好むのもその所為か? 敏信の一字は織田家より授けられたのであろう?」

 右半身が焼けるような熱さを感じて、悠仁采はおもむろに息を荒くさせながらも、その左眼を伊織から離さなかった。

「じじ殿は全てお見通しのようだ……いかにも、私は右京殿と同じく家を潰された者。しかし同じく織田によって生かされているのですよ……我が祖母 月は和睦の際、織田家に嫁ぎ一男を儲けました。ですが既に正妻の(もと)、嫡男は存在しておりました故、月の男子は信秀様の許しを得て、水沢家再建の火種となりました。……もちろん織田家直属の一族として──そしてその次の世が私なのです」

 ──月葉はやはり子を儲けていた……あの一件の二ヶ月後、病で逝ったと告げられたあの知らせは何だったのか? 我が配下の同情による偽りか、それとも織田への復讐の念を断つための如何様(いかさま)……?


 いや、月葉自身が悠仁采を想って流させた嘘の噂やも知れぬ……が、もはや確かめる(すべ)はない。

「察するに、じじ殿は右京殿のご祖父どころか、我が祖母 月までもご存知とお見受け致しまする……祖母は我が父を産む際に熱に侵され亡くなりました。人質としての輿入れでしたが、正妻に勝るとも劣らぬ寵愛を受け、幸せな二年を送ったと聞いております。……ですが──」

 幸福な歳月──それは悠仁采と共に過ごした十数日をも上回る月日であったのだろうか。口のきけぬ月葉が唯一発した言葉──それが“悠仁采”のみであったという逸話を信じたい気持ちに、(いささ)か己の弱さを(あざけ)ってみる悠仁采ではあるが、しかしそのような考えに浸る間も与えず、彼を現実へと呼び戻したのは、伊織の濁った言葉の続きであった。

「ですが……織田家に尽くして参った私に与えられた名……敏信の『敏』は、曽祖父 龍敏の一字。これを頂戴致しました訳を信長様はっ……「あの者のように織田に従順であれ」と(わら)い飛ばしたのでございます」


 歯を喰いしばり、伏し目がちに床へと向けられた視線は次第に一点を睨み、燃え立つようであった。それはいつしかの悠仁采、いや、龍敏にも右京にも現れたものに違いない。が、そのお陰で悠仁采はにわかに落ち着きを取り戻していた。

「見ず知らずのわしなどに斯様(かよう)なことを口にするものではありませぬ。それが叶うのは天に立った者のみ。今は時を待ちなされ。伊織殿にもその機運は訪れる筈」

 そう……誰にでもその『時』は通り過ぎる。それを獲るか否かは自身の才能の度合いだ。が、わしにはなかったか……と我が身を哀れむのは一瞬のこと。

「いや……確かに……。お館様を愚弄(ぐろう)するようなこと、じじ殿に申し上げるとは……失礼(つかまつ)りましたっ」

 悠仁采に諭されはっとした伊織は、視線の行き処もおぼつかない様子で、額に現れた大粒の汗をあたふたと(ぬぐ)う。

 まるで昔のおのれを見るようだと感じ入った悠仁采は、その姿に親しみを覚えた──。