──月とは月葉のことなのか? しかし子さえ作る間もなく、病に倒れ死んでいった月葉に孫などいる筈もない。
悠仁采はただ一言“否”と答え、娘に促されるまま空を眺め始めた。
秋と申すこの娘には、月葉とは違う『意志』というものが感じられる。しいて言えばそれだけの違いで、他にはまず異なる部分など見つけることは不可能に近い。水沢家の姫であった月葉の哀しい気高さとは違い、憂いなど入り込む隙間のない秋の明るい気高さが、意志力となって溢れ出ているのかも知れなかった。
「此処は……?」
その姿発言より高貴な者達と悟った以上、不釣合いでしかないこの小屋の様子を、悠仁采はふと口走った。
「或る狩人の家です。今は狩りに出ていて留守にしておりますが、間もなく戻られることでしょう。何も心配せず、おじじ様はこちらでお休みください」
年は十七、八であろうか。明るい表情と仕草がそうさせるのか多少幼く見えたが、口振りは既に大人である。感情を面に表さない悠仁采に、こうも優しく微笑みかける娘がいることを彼自身不思議に思うのだが、秋の笑みはそんなことすら……今までの戦いのことすら忘れさせるほど、月葉に似ていた。
「おじじ様の御名は?」
秋がそんな問いを発した刹那である──。
戦に追われてきた性分故に、気配の察知が早い悠仁采は、果たして小屋に近付いてくる物音に気付いた。
鋭く研ぎ済まされた戸口へ向かう視線はすぐに二人に気付かれ、三人のそれが一点に集中するが、物音の主は狩人なのだろう、秋の表情は戸の開かれる前から優しいものに変わっていた。
「右京様だわ」
秋はそう言って戸口へと駆け出す。彼女の明るい笑みが多少変化を帯び、それは昔悠仁采が月葉を、月葉が悠仁采を見詰めた、あの柔らかい感覚に少しも違いがないことを悠仁采は悟った。自分の『半分』を見つけたあの感覚──。
「やはり姫でしたか。……伊織様、お久し振りでございます。あ……」
静かに歩み入ったその青年は、紛れもなく狩人であった。上着の上には何やら獣の皮を纏い、腰巻から筋肉質な素足が覗いている。左手には弓を持ち、右手には今日の獲物であった兎三羽がぶら下がっていた。
「……そちらは?」
好奇心を含んだ澄んだ瞳が、悠仁采の存在に触れた。
頭の頂きから結われた黒曜たる長髪が不自然に揺らめき、男らしい野生の匂いを漂わせる。
「おじじ……様? どうなされましたの?」
その場にいる誰もが、悠仁采のただならぬ変化に気付かずにはいられなかった。色黒な肌は真っ青に冷め、再び、しかし今度はゆっくりと半身を起こしたその身を小刻みに震わせている。開いたままの口元は、何かを言いたげに動きはしたが声にならず、ただ獣のように妖しい瞳だけは、その青年から離れようとはしなかった──。
◆以降は2014年に(他サイトにて)連載していた際の後書きです。
既に沢山の美麗なイラストを下さいましたazサマより、ついに悠仁采の「現在」の姿を戴きました!
作中では眼帯を付けておりますが、傷を晒しているこちらの姿も圧巻です*
モノクロとカラーの両方を戴きましたので、どちらも掲載させていただきます☆
azサマ! この度も誠に誠に有難うございました!!
二〇一六年一月二十四日 朧 月夜 拝
「そなたの……名は?」
精一杯の力を振り絞って唇から零れた言葉は、そのようなものであった。一瞬秋と、そして伊織と呼ばれた若武者を見詰めた右京たるその者は、悠仁采の傍らに侍り、彼の手に触れ、やがて目を伏せたまま優しく呟いた。
「橘──橘 右京と申します、おじじ様。堺の大名館、橘家の嫡男に当たる者。父の代に織田家に滅ぼされ、今では狩人として身を立てている遊び人でございます」
右京は言い終わるや途端手を離し、床についていた膝を軽く上げ立ち上がった。
──橘 左近。
既に忘れ去られた我が名を思い浮かべる。
明らかにこの青年は悠仁采が弟、右近の孫に間違いなかった。頭上で結った髪をうなじの辺りで纏め、狩人の姿から身を左近の物と移せば、その外見は若き日の悠仁采と何ら変わりはないであろう。それほどまでにこの右京は、左近と、そして双子の弟 右近に似ているのだ。
「そこまで言わずとも……」
依然壁に寄り掛かったまま、伊織は不服そうな顔で右京を見詰めた。万が一、悠仁采が織田配下の者であったなら、彼を逃がしはしないであろう。そうとでも言いたそうに。
「いいえ、見ていれば分かるのです、伊織様。おじじ様は織田家の方ではない。もちろん伊織様もそのことにはお気付きでしょう。もし織田家の方だとしても、私は、私を切り殺すようなお方ではないと思うのです」
傍らに秋の寄り添う右京の表情は、淀みなどない笑みを浮かべ、悠仁采へと向けて真っ直ぐに貫かれていた。
おそらくは、彼自身気付かない血の繋がりを嗅ぎ取ったのだ。
遠い遠い昔。月葉と共に過ごした悠仁采の姿が目の前にあった。──と同時に、笑顔を刻んだ月葉の姿さえもが。小川の流れは時間すら戻すことが出来るのであろうか。今此処に居るのは以前の二人に相違ない。
そして流れは更に遡り、悠仁采の込み上げてきそうな涙の向こうには、我が弟右近の姿も映った。父に愛された人形たる弟──。しかし存在する右近の孫は人形ではなく、野生の中で鍛えられた左近の姿でもある。
「橘 右近殿はどうなされた……」
早くも耐え難き涙に頬を温めた悠仁采の、唯一の言葉であった。
この数年来、涙というものの存在したことなどある筈もない。織田への憎しみの炎は疾うに涙を干上がらせ、また、泣く間など有り得なかったのだから。
右京はと云えば彼は彼で、頬を伝う涙の訳と祖父の名に、驚きを示さずにはいられなかった。が、不審を帯びる疑惑を抱いた訳でもない。
「祖父を御存知でしたか……。祖父は私の生まれる以前に病に倒れました。故に名の他には何も──」
「そうか──」
知らず知らず口から出た言葉に、安堵の意がこもっていたことは誰も気付かなかった。右京が右近の生前の姿を知っていたならば、彼自身悠仁采の様子に目を疑ったことだろう。ましてや、あの報妙宗操る八雲であることを気取られてはならぬのだ。
「おじじ様、おじじ様は一体どなたなのですか? 右京様のおじじ様を知り、私のおばば様さえ知っているご様子だった……おじじ様は一体……!」
「秋、怪我人を困らせてはいけない」
半ば混乱し我を忘れた秋を、伊織は冷静にあしらった。しかしやがて壁より進み出で、この機会を利用せんとばかりに、
「じじ殿、秋をお許しください。なにぶん未だ子供なのです。……じじ殿のその傷、さぞや訳ありとお見受け致しました故、今は未だ深くはお聞きせずにおきましょう。──が、こちらは救った身、せめて御名だけでもお教えいただきたい」
と、先程秋が問うた事柄を繰り返した。
此処まで言われては、悠仁采も名を明かさずにはいられない。しかし悠仁采の名を言えば八雲を、左近の名を告げれば橘を悟られるのは時間の問題である。
「わしは一度死んだも同然。死ぬ以前のことを話すつもりはない。だが、名は言わねばなるまい」
悠仁采は一呼吸置き、頭の中で名についての思考を巡らせた。それはほんの数秒のことである。息を吸い込んだ虚空の時間。
「我が名は、佐伯 朱里。右近殿とは以前会うたことがあった。そなたのご祖母については、人違いであると思うが……」
朱里とは配下であった魔妖五人衆の一人 瞳炎の父、あの少女の面をした小姓の名である。言葉半ばにして途切れた悠仁采の視線は過去を浮かべていたが、向けた先には秋が居ることを彼も承知の上であった。
もう何十年という間、嗤い以外の笑みを忘れた悠仁采には、秋に微笑みかけることは出来ない。苦し紛れの苦笑いであったが、秋にはそれが伝わったのか、翳りのない笑みを返してくれた。
右近について隠したのは、八雲 悠仁采という名が邪魔をしたのであろう。彼自身そのことに気付いたのは言葉の出た後であったが、それは正解であったのかも知れない。
正義──。
信念とされてきた彼の事業は正義とならぬまま、悪として終わってしまった。終わった? いや、もう終わったのだろう。彼には再び事を起こすだけの力はない。
あの日。葉隠の忍者に倒されたあの日──未だ時はそれほど経たず、あの日とは今日であるかも知れないが──彼の人生は悪で終わったのだ。そして善という矢は織田を射た。
悪と決められた今、八雲の名は知られぬまま消されなくてはならない。右京の祖父の兄が悪人であってはならない。そんな想いが口を衝いて出たのかも知れない。
「朱里殿、と申されましたな。我ら城へ戻る時刻となりました故、これにて失礼致しますが、明朝にはまた戻って参ります。それまでは右京殿に従い、良く養生してください。あなた様は深く傷を受けられた……完治までには時が掛かるでしょう。ですからその身、しばらく我らにお預け願いたい」
遠からずも力のある、伊織の達観した言葉であった。
三人の若者達の優しい微笑みに包まれた悠仁采はしかし、既に帰り支度を始めた伊織と秋の背に礼さえも言えず、ただ惑いをぶつけた。
「何故にそなた達は、そこまでしてわしを助ける」
戸口を開きかけた手首そのままに、秋が振り向きざまに云う。
「この森を訪れた方を、放っておくような義理はないのです」
──と。
「右京様、おじじ様を宜しくお願い致します」
「姫も気を付けて……」
呆然とする悠仁采を残して、そのような会話のやり取りの後、二人は森の奥へと消えていった。
頭上には満天の星を戴き──。