― 伝わりますか ―

「伊織殿……いや、敏信殿。心から感謝致す。どうかこの戦国の世、生き貫いてくだされ」

 そうして立ち上がり背を向けた先には、静観する影狼の冷静な眼差しがあった。悠仁采の気持ちは晴々としていた。やっと……心からの礼を尽くせるのだから。

「影狼殿……悪いが手柄を、この男に譲ってくだされ」

「それは構わぬ」

「では……介錯(かいしゃく)を頼みまする」

 死体へ赴き、短刀を引き抜く。既に枯れ朽ちた肉体からは、鮮血などほとばしりもしなかった。やがては我が身もこうなるのか──が、悠仁采に未練は有り得ない。暫く佇んで(のち)(きびす)を返して影狼の許へ寄り、背を向けて草叢(くさむら)に座り込んだ。

「じじ殿っ!!」

 少し離れて四つん這いに草を踏む伊織は、最後の声を振り絞った。そしてもう泣き叫ぶこともなかった。誰も悠仁采を止めることなど叶わぬと悟った故であった。

 伊織に微笑みと一瞥を送った悠仁采は、穏やかな気持ちのまま目を閉じる。次第に呼吸も苦しみのない柔らかなものへと変わった。全て初めから何もなかったかのような、無の境地が眼前に広がっていた。

 背後に立った影狼は、変わらず不動のまま悠仁采を見下ろしていた。しかしその『焦点』が短刀を自らの腹に向け構えるや、影狼も自分の忍刀を抜き、頭上へゆっくりと掲げた。そして──。


「明心医師からの手向(たむ)けの言葉だ──貴殿が弟、右近殿が昔、幼き嫡男を連れて無束院へ参られたことがあったとの(よし)。その子息の名は『左近』と申されたとのこと──」

 ──と、告げたのだ。

 悠仁采は、その言葉に思わず目を見開き、(のち)、「明心め……」と呟いて、にっと笑ってみせた。

 ──右近よ……わしはあのまま橘に居ても、そなたを斬ることはなかったかも知れぬな……──。

 そうして再び目を閉じた。

 ──これでついに……いや、我が行き先は地獄。月葉の許ではない。が、しかし、せめて一時でも……せめて──。

「いざ、去らば」

 悠仁采ははっきりとそう言って、両手に握り締められた短刀を一度腹より遠ざけると、勢いをつけ左脇腹へと埋め込んだ。徐々に右方向へと移動する刃も拳も、血液という液体に(まと)われ、次第に冷たさと温かさを放つ。感じるべき痛みも苦しみも、何処か遠くの方で蠢きながら、悠仁采は目を閉じたまま、たゆたう『紅』を感じていた。

 拡がり続ける深紅の視界──その中心に黒と白の点が現れたかと思うや、球状の白に、長く伸びた黒が巻き付き──人型となった。

 紅の衣を纏った月葉であった──。


「ゆう……じん……さい……さま……──」

「月葉……──」

 月葉は微笑む。あの時と同じように──あの時。そう、別れを決めた月見草の上。

 彼女は白く(すべ)らかな指先を、触れる寸前まで近付かせ、悠仁采の瞼と頬の上に遊ばせた。ややあって矢で潰された右眼が復活し、肉体も月葉と過ごした若き頃へと戻る。

「月葉は、いつまでもお待ち申し上げております。悠仁采様が悔い改め、天へと昇られますその時まで──」

「ああ」

 悠仁采の迷いのない頷きと微笑みに、確たる心を導き出した月葉は、手元に現れた月見草を彼に手渡して、再び「悠仁采様」と愛しく名を呼び、まるで水面を目指す金魚のように袖を揺らしながら、上へ上へと昇っていった。

「月葉よ──いつか」

 月見草はあの時の如く夜露に濡れて、ささやかに煌めいていた。

 悠仁采は水晶のような純白の(つぼみ)を胸元にぎゅっと握り締め、するとその奥底に横たわる空間は、穏やかな気持ちで満たされていた。

 そして深紅より暗黒へと変わりゆく、自らの行くべき場所へと、ただひたすらに堕ちていった──。



◆次回が最終話となります。最後までどうぞお付き合いを宜しくお願い申し上げます。


 無束院の縁側に、宵闇が広がり始めていた。

 右京は明心との話を終え、独り中庭に佇む一本の桜の木を見詰めていた。春には華やかなこの木も、秋の始まりには森の一部にしか過ぎない。

「……右京……様?」

 いそいそと障子を開いて、背後から遠慮がちに声を掛けたのは、少し肌に蒼みを残した秋であった。

「気が付きましたか」

 憂いに満たされた右京の顔に、(へや)の灯りが零れて、その表情に()が点った。しかし秋の唇は震えたままだ。

「あの……おじじ様と、(あに)(さま)は……?」

 右京に促されて隣へ腰掛けた彼女の瞳は、これから聞かされる真実に怯えていた。が、明るさを取り戻した右京の顔つきは変わらなかった。良い知らせを抱えていたから。

「お二人共、ご無事だそうです。柊乃祐(しゅうのすけ)さん──あの応援に向かった助手の方は未だ戻られませんが、弥藤多(やとうた)さんという少年が遣いを頼まれ、伝えてくれました。もう心配は要りません」

 もちろん影狼の偽りと……そして善意である。秋はそれを耳にして、

「そうでしたか。……良かった」

 と、ほっと一息胸を撫で下ろし、安心したかのように目を閉じたが、それきりじっと動かなくなってしまった。口元は依然きりりと閉じていながらも震えている。


「……どうかしましたか?」

「あのっ……これで本当に良かったのでしょうか?」

 まるで右京からの問い掛けを待ち侘びていたかのように、(せき)を切って疑問を投げた秋の面持ちは、心からの悲痛な叫びを表していた。

「え……?」

「私は……おじじ様どころか、右京様までも巻き込んでしまいました。あのまま──信近様を受け入れていれば、こんなことには──……私は……」

 秋の睫が涙に濡れた。それは頬を伝って、ぎゅっと握られた手の甲に落ち、ひんやりとした感覚を与えたが、刹那、次に感じられたのは、包み込むような温かみであった。はっとして眼を開いた秋の視界には、自分の手を握り締める大きな手と、そして隣に優しい右京の微笑みがあった。

「姫……あ、いえ……秋。もしも私が今でも橘の当主であったなら、私は必ずやあなたを伴侶にと、伊織様に申し出ていたに違いありません。ですが私があなたに出逢った時、既に家を失っていた。あの時私は全てを諦めたのです。そんな私にあなたは機縁を与えてくれた……全てを失ってまで、私について来てくれようとしているのは──秋の方ですよ」

「右京……様──」

 涙が零れることも構わず、大きく見開かれた秋の瞳には、眼を細め、更に微笑んだ右京が居た。

 彼女の頬を優しく撫でてやる。熱を保ち、凍ってしまった涙を溶かしてくれるそんな手。

「右京様」

 胸の中で包んでもらう。温かな手を持った人の胸はどれほど温かであろうか。


「あ……あれを見てください。あんな所に弟切草が……」

 暗闇の中にうっすらと黄色い花影が見えていた。悠仁采の身も心も癒した花だ。

「おじじ様、今頃何処かで静かにお休みになられているかしら……」

「きっと──。あのお方は二度も橘を助けてくださった……元気でいてくださらねば、恩も返せませんからね」

 二人は弟切に近付き、しかし愛でるのみで、摘むことはためらった。

「右京様のお家を……?」

「詳しくは中で話しますよ。どうやら食事の仕度も出来たようですし」

 振り向けば、弥藤多と雫が二人を呼びに、障子の影から顔を覗かせていた。

 右京と秋はお互いの手を取り、ゆっくりと弟切に背を向けた。温かな食卓に賑やかな子供達の声。ささやかながら小さな幸せの始まりが、戸口の隙間から光差していた──。



 ──この一件の後、敏信は──。
 
 悠仁采の首と秋の櫛を信長の御前に差し出し、結果異例の重用を受けるが、本能寺の変後の彼と、水沢の行く末を知る者はいない。

 唯一つ、以降の彼が伊織の名を使うことはなかった。


 ──そして右京と秋の二人は──。
 
 暫く無束院に留まった後、葉隠の山里を目指した。

 右京は悠仁采を尊び、姓を佐伯と改め、秋も又、秋穂と名を変えた。

 一男一女に恵まれ、我が子のみならず身寄りのない子を預かり、小さな寺子屋で文武を教えた。その中には葉隠忍者の末裔になった者もいるという。



 伝わりますか? 私はいつまでもお待ち申し上げております。

 あなた様が天へ昇られます、その時まで──。



 ──伝わりますか──



      【完】



■弥藤多は少年忍者 暎己(うつせみ)の、忍びでない時の名前です。


■お気付きにならない方も多いと思いますので・・・今話の以下の文章は【壱】の第一話後半の文章とリンクしております。

 >彼女の頬を優しく撫でてやる。熱を保ち、凍ってしまった涙を溶かしてくれるそんな手。

 >胸の中で包んでもらう。温かな手を持った人の胸はどれほど温かであろうか。


■余計なお世話かと思いますが、月葉の最後の二年が何故幸せだったのか・・・それは嫁いだ主の声が悠仁采のそれに似ていたからでした。瞳を閉じれば彼女の目の前にはいつも悠仁采が居て、微笑むことも従順でいることも出来ました。そのために言葉は話さずとも、主の寵愛を受けられたものと思われます。



◆最後までのお目通しを、誠に有難うございました。 朧 月夜 拝



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